フランクフルトぼちぼち行こか日記
2001年3月前半の子連れFrankfurt am Main日記




2001年3月15日-Do.(のい1歳7ヵ月8日) トホホホ
  午後、H+Sのクラスへ。今日も易しすぎて退屈した。ガックリである。
  しかし10人の定員に対し、正規の学生ではない見学者が3人にもなった。人気があるクラスらしい。
  このクラスの参加者は、VHSの普通のドイツ語クラスについていけてない人たちや、
  VHSの普通のドイツ語クラスでは、性格がおとなしすぎて発言できない人たちのようだ。
  次のクラスの申し込みの話をしている人たちがいたので、聞いてみたら、来月もまた同じクラスを受けるとか。
  そして「VHSだけでなく、別の学校でも、同じレベルの授業を何回も受けている」という人もいて、
  ビックリするやら、あきれるやら。カネとヒマのある人は、いいよな。



2001年3月14日-Mi.(のい1歳7ヵ月7日) 久々に地域図書館
  久しぶりに、商店街のなかにある地域図書館へ。のい は大喜びで走り回っていたが、
  私が「出した本を元に戻して」と言うと、ちゃんと戻せるようになっていた。
  私も、前は文字の多い絵本には手が出なかったが、今日はかなり内容を楽しめたので、自分でも驚いた。
  しかし大量の本を見ると催すのか、のいがウンチ。人気のない書棚の間で、こっそりオムツ替えをした。くっさー。
  外のベンチで昼ご飯を食べさせ、家に帰ると見せかけて、ベビーカーの中でウトウトしたところを見計らって、
  再び図書館に戻った。BSE対策の記事がのった雑誌と、Herbert Groenemeyerのカセットテープ、
  そして、ドイツの文法書の日本語訳の本。帰宅してから、その文法書を夫に見せたら、
  翻訳者は、DAAD東京事務所にいらっしゃるYさんで(DAADは夫に奨学金を出している団体)、
  今回の渡独手続きの際に、いろいろと助けて下さった方だった! こんなお仕事もなさっていたとは。
  ところで、夫の日本の知人の知人S氏が所用でドイツに来ている。彼がドイツでの連絡先を我が家に設定しているため、
  ドイツ人からアポの電話が入ってきた。相手に「ドイツ語チョトダケ」と言ったら、大変ゆっくりしゃべってくれた。
  メモを見ながら復唱したら、息継ぎするたびに「Prima(素晴らしい)!」と合いの手が入り、笑いそうだった。



2001年3月13日-Di.(のい1歳7ヵ月6日) H+S2回め
  H+S2回め。レベル低すぎ。得るところ少なし。韓国のSと話していたら、普通コースの基礎3クラスの方が、
  私が通ったインテンシブ(速成)コースの基礎4よりも、先に進んでいたことが分かり、ショックを受けた。
  このクラスの参加者は、ベビーシッターやホテルのベッドメイキングとして働いている2人以外は、みな主婦。
  子供はいないか、あるいは小学生以上で手がかからない年齢。しかも、彼女たちの在ドイツ歴は私より長い!
  なのに、私よりしゃべらないんだから、一体……? 私は毎日、必死で勉強する時間をつくっているのに、
  優雅にお暮らしなんだったら、もっとできてもいいんじゃないの?と思った。意地悪なようだけど。
  インテンシブクラスの同級生たちを思った。生活や学業に追われている人も、毎日頑張っていた。



2001年3月12日-Mo.(のい1歳7ヵ月5日) 無為
  雨。雨の中、買い物へ。コピー屋で問題集をコピー。冷凍庫の霜とり、スクラップの整理……
  こんなこともいちいち記録していないと、何もしていなかったような気分。
  学校へ行けないと、一日中、のい の相手だけ。
  得られたものが少なすぎて、無為に暮らしているような気がしてならない。
  私は物欲はかなり少ない方だが、頭への刺激にはかなり貪欲だと思う。退屈には耐えられない。
  日本に戻ったら、また田舎の退屈な暮らしが待っていると思うと、憂鬱になる。



2001年3月11日-So.(のい1歳7ヵ月4日) 
  約2年半ぶりに生理が来た。やれやれ。そのせいか、乳の出(まだ飲ませてますのホホホ)が悪くなった。



2001年3月10日-Sa.(のい1歳7ヵ月3日) Musik Messe
  Musik Messeへ。のいは、「Musik 4 Kids」という子供向けの楽器コーナーにて、大いにはしゃいだ。
  子供好きそうなオジサンが、のい に手を振ってくれたのを喜んで、彼に走って行き、
  なんと、懐に飛び込んでニコニコ。かえってそのオジサンの方が戸惑っていた。
  また、のい はライブ初体験。アコデヲンとピアニカ主体のバンドを、ガレリアで観た。
  楽器メーカーの最新作をとっかえ引っかえ使っていて、管楽器風のピアニカが格好よかった。
  しかし物凄い人混みで、とにかく疲れた。
  最近、家のベランダからメッセの西端の出入口が見えるようになった。家の前の木々が切り倒されたためだ。
  今日は朝も夕方も、ゾロゾロと人が会場に出入りするのが見えた。



2001年3月9日-Fr.(のい1歳7ヵ月2日) 猫、ボスニア、近所の親子
  今日から、午後ものいと一緒だ。夫は滅多に のい を外に連れ出してはくれないので、
  のい をとにかく日に当ててやりたかった。雨上がりなので、滑り台は若干濡れていた。
  立ち退きで揺れている集合住宅の中庭に、珍しく猫がいたので、のいを抱いて駆け寄った。
  ドイツの飼い猫は普通、家に閉じ込められているし、野良猫は見たことがない。後ろから猫の飼い主が来たので、
  「ドイツでは猫と出会うチャンスがなくて…日本では通りにたくさん猫がいるのに」と言ったら、
  彼女も「私の国でも猫は通りにいるのに」。ボスニアから来た人だった。しかし明日が引越だという。残念。
  公園の滑り台で遊んだ。まだ のい一人では無理なので、私が抱いて滑りおりる。滑り台の頂上で
  「用意はいいかな」と聞くと、のい が さっと手を上げる。滑りおりると、またハシゴのところに走っていって催促。
  2回め以降は、私が聞く前から、「もう用意は万全!早く滑れ!」とでも言うように手を上げていた。
  家の前に戻ると、広場で中国人親子が遊んでいた。2才の女の子と、大人しそうな若いお母さん。
  のい は気が合うと思ったらしく、女の子のすることを皆真似していた。彼女が走ればのいも走り、
  ベンチに上れば、のいも頑張って上り。母親の方も感じのいい人で、のいはすんなりダッコされていた。
  自己紹介しあってDuで話すことに。彼女も、近くに同じくらいの子供が少ないので困っていたとか。
  在独はもう10年。夫は自営業で、2層吹き抜けの最上階に住み、週末は別荘で過ごしているとか。うひゃ。



2001年3月8日-Do.(のい1歳7ヵ月1日) 最後の日Alles Gute!
  VHSのドイツ語G3+4intensivクラスが終了した。
  今日は授業の後半は教科書とは関係なく、先生も含め皆で色々しゃべった。写真を撮ったり連絡先を交換したり。
  「地獄の特訓」と思っていたが、過ぎてみれば楽しい毎日。特にイスラムの人との出会いはカルチャーショックの嵐だった。
  Frau.B.は、私が次のクラス(G5+6intensiv)に上がらないのを残念がり、
  また皆よりしゃべれなくて焦っているのに対して、励ましてくれた。
  年齢の話になったときは私に火の粉が。「Yは33歳には見えない。最初は20歳くらいだと思った」「いや15歳だ」……。
  喜んでいいのか悲しんでいいのか、……たぶん、ガキっぽいのを恥じるべきなんだろうな。
  「一度、バスの運転手に子供と間違えられた」と話したら、涙を流して笑う人が出る始末。
  最年少19歳のコンピュータ少年、ブルガリアのDは、「HTMLの書き方を説明してくれ」とブルガリア語のWindows本を
  持ってきたが、Dは英語を知らないし、私はドイツ語が不十分だしMac者だしで、なかなかうまくいかず。
  最後の最後、一番よくできるブルガリアのAが、今日でクラスを終える私に、丁寧に挨拶。
  他にも今日までの人がいて、教室の各所で、東欧式の?頬と頬を合わせる別れの挨拶大会になった。
  いつも機関銃のように(Rの巻舌がすごい)たくさんしゃべる、ルーマニアのNが、言葉少なに“Alles Gute!”
  気付くと、NもAも目をうるませていた。普段は家まで猛ダッシュだが、今日はスーダンのHとしゃべりながら帰った。
  明日からは、勉強の時間をなんとか確保して、自力でやらなければならない。
  帰宅後、のい に外を歩かせていると、カフェバーに常連のおじさん(映画『レオン』の主人公に似た)がいたので、
  外から会釈。そしたら彼が突然店から出てきて、のい にチョコレート菓子を渡そうとした。びっくり。
  「まだ小さくて、チョコレートは食べられないのです」と断わった。気を悪くしていなければいいが。



2001年3月7日-Mi.(のい1歳7ヵ月0日) 無賃乗車Schwarz fahren
  午前中、買い出しの途中で雨。のい は久々のレインカバーにはしゃいで、ベビーカーの中で大声を挙げていた。
  しかし私は、傘をさせないのでずぶ濡れになってしまった。
  定期券が切れたのをすっかり忘れて、切符を買わずに電車や路面電車を使って、学校まで行ってしまった。
  駅に改札がないため、切符なしで乗るのは簡単。しかし検札で見つかれば60DMの罰金だ。見つからなくて助かった。
  ブルガリアのAが日本のことをいろいろと知っているのはなぜか、やっと分かった。
  彼女は、1989年、ブルガリア少年少女合唱団の団員として日本に2ヵ月間滞在し、30公演を行っていたのだ!
  ルーマニアのNとアドレスを交換。彼女も私と同じ射手座だと分かった。



2001年3月6日-Di.(のい1歳6ヵ月27日) Hoeren+Sprechen初日
  良い天気。午前中は、近所の公園に のい を連れていき、滑り台で遊んだ。公園には我々以外には誰もいなかった。
  Frau.B.の授業には出ずに、今日から始まるHoeren+Sprechen(聞く/話す)の復習コースに出た。
  教室は、いつもの商店街の中にあり、家からは急ぎ足で歩いて15分だ。
  クラスには、私のほかに日本人が2人もいて、あとは韓国、中国、インド、タイ、アルゼンチン、イタリアが各1人。
  いつものクラスに比べてレベルが低いし、刺激が少ないし、日本語もしゃべってしまうし、ちょっとヤバい。
  毎日、午後、夫に のい を見させるのは悪いので、私が週2回の授業で我慢することにしたのだが、これでは……



2001年3月5日-Mo.(のい1歳6ヵ月26日) 謝肉祭Opferfest
  定期券は本日まで。午前中、Nordwest Zentrumへ。愛用の靴が壊れたので、代わりのを買う。
  午後のFrau.B.の授業は、死ぬほど退屈だった。イスラムの人たちは、今日から4日間が謝肉祭のため、
  浮かれていた。Frau.B.がイスラムの人たちに謝肉祭について話をさせたら、途中で収拾がつかなくなって、
  宿題の答え合わせも終わらないうちに、休憩時間になってしまった。
  帰ろうとしたら、スーダンのHの夫(在独12年)が来ていた。今日は謝肉祭だから、銀行を早退したのね。
  Hになれそめを聞いたら、「1930年代に、おじいさん同士が同じところで働いていて……」。おっと長い歴史ね。
  4歳のときには彼と結婚することが決まっていて、しかし話をするのは結婚式のときが初めて!だったそうだ。
  そ、そんな……いまだにそういうのがあるのか。しかしながら、知性あふれる、似合いのカップルである。



2001年3月4日-So.(のい1歳6ヵ月25日) 缶詰のゴーヤ
  Hauptwacheパッサージュ内のアジアンスーパー(中国人経営)で買った固い豆腐と、
  うちの近所のアジアン食料品店(インド人経営)で買った缶詰のゴーヤ(タイ製)、
  そしてドイツのベーコンで、ゴーヤチャンプルーをつくった。全然苦くない……。
  朝は雪。午後になって晴れたので、夫の邪魔をしないように、のいを連れ出しがてら、
  地下鉄でBohnheimの フリマへ。出物はなし。親が出店中で、相手をしてもらえずに退屈していた子供が、
  私たちのベビーカーに通せんぼをしてきたので、しばし会話する。
  のい は夕方から、オムツが濡れる前に、自分でズボンの股のスナップを外して、教えるようになった。



2001年3月3日-Sa.(のい1歳6ヵ月24日) Verkehrsmuseum
  3人で市電に乗って散歩。途中で足の悪いおばあさんが乗ってきたので、席を替わったら、
  のい を見てとても嬉しそうにしておられた。私は別のおじいさんの隣へ。「今日はきれいな空ですね」などと、
  たどたどしく話しかけたら、また喜んで下さって、降りるときは“Alles Gute!”。
  今日の目的は、乗り継いだ終点にある、交通博物館(Verkehrsmuseum)
  入場券は、地下鉄の自動券売機と同じ機械で買うようになっており、のっけから面白かった。
  土日祝日のみ開館。古い路面電車やバスが並び、その周りに昔の写真や模型が並ぶだけの、素朴な展示だが、
  担当の職員の人は電車を愛しているらしく、とても親切だ。団体さんには説明をしてくれる。
  のい は運転席を触らせてもらったうえ、博物館や標識のシール、路面電車の紙の模型をいただいてしまった。
  のい は、「キシャ!」と言ったり、走り回ったりで、昼寝もせずに興奮していた。
  帰りに街に出て、久々に豚のコットレットを食べた。その後、夫は日本からの友人と待ち合わせ。
  私とのい で百貨店にいたら、スーダンのHとその夫(銀行マン)に会った。



2001年3月2日-Fr.(のい1歳6ヵ月23日) 握手×2
  ルーマニアのNが花束を抱えていたので何かと思っていたら、今日はブルガリアのAの誕生日だった。
  授業の途中、グループに分かれて話をしていたとき、Aがおもむろに立ち上がって、チョコレートを配り始めた。
  先週覚えた“Herzlich Grueckwunsh zum Geburtstag! ”を早速使ったら、Aが喜んで手を差し出してきた。握手。
  休憩時間に、ブルガリアのDがテクノのCDをかけていたので、石野卓球について話をした。
  卓球氏は、ブルガリアでもDJをやったらしく、彼はそのビデオを持っているらしい。
  砂浜と海、海に沈む太陽…そして卓球氏のDJ-spielen。「それはもうとても素晴らしいんだ」と言っていた。
  対して私は、卓球氏のグループ『電気グルーヴ』の可笑しさを説明。Dが卓球氏にもつイメージと違ったらしく驚いていた。
  「一度だけ、彼を至近距離(Soul Flower Union 内海洋子ちゃん(当時)ら主催のDJイベント、1995年)で見た」
  と言ったら、“Oh,mein Gott! YがTakkyuを見たことがあるとは!”だってさ。
  さて、授業は来週木曜までだが、ハイディ先生とは今日でお別れ。
  このクラスに続く次のクラスにはFrau.B.とハイディ先生が持ち上がる。
  私としては、Frau.B.はどうでもいいが(苦笑)、ハイディとお別れするのは残念でたまらない。
  彼女に「どうもありがとう!」と挨拶したら、ハイディがまた手を差し出してきた。握手。
  KYONさんに似た、指の長い、大きな手だった。



2001年3月1日-Do.(のい1歳6ヵ月22日) キシャ!
  午前中、地元の放送局へ。ラジオの文化番組のプログラムをいただく。バスを使ったら、家から意外に近かった。
  地元局といっても、ラジオだけでも4局もあり、しかも水準が高いのだ。
  授業では、ドイツの政治話。だれかがハイディ先生に「ドイツ統一のとき、どこにいたのか?」とたずねたら、
  彼女は「残念ながらベルリンには行けなかった。アビトゥーア(大学入学資格)取得コースに通っていたから」。
  ってことは70年か71年生まれ? 俺より年下! 歳をとってから学び始めると、そういうこともある。
  さて、クラス最年長の、クロアチアのZは、明日クロアチアに帰ることになった。
  なんと彼は今が休暇中で、妻子(もう高校生だ)の住むドイツに来て、ドイツ語を学んでいたのだった。
  私は、授業終了時になって初めて、彼が帰国することを知った。慌てて「皆で写真を撮りましょう!」。
  カメラをもってきていて良かった! カメラを取り出したら、モロッコのZが「私が撮るから、Yは皆のところに行け」。
  1枚撮ってもらい、替わろうとしたら、モロッコのZは「私の写真を撮るのは禁止だ」と笑って逃げてしまった。
  帰宅後、夕方の散歩のとき、のいが、通りがかったバスを見て、大きな声で「キシャ!」。
  彼の中では“人が乗れる、大きくて長い機械”は皆、“汽車”らしい。今のところ。それにしても、
  初めてハッキリ発音できた言葉が、「汽車」とは。(オトウサンオカアサンは最近は「ア!」で済ますのだ。失敬な)



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