フランクフルトぼちぼち行こか日記
2001年6月前半の子連れFrankfurt am Main日記
2001年6月15日-Fr.(のい1歳10ヵ月8日) ワイマール2日め
夫は、午後一番で重要な講義があったため、朝食後、ICEでフランクフルトに戻った。
両親と のい と私の4人は、チェックアウト後、駅で帰りの座席を指定してから、また街の中心部へ。
シラーの家の前の通りでは、何人かの人に話しかけられた。
「息子が神戸にいる」という犬連れのオジサンは、日本人の旅行者と知ると、終始英語。
生後8ヵ月の赤子を連れた女性(若く見えたが、赤子は孫)は、「日本にいいものをたくさんもって帰ってね」。
マルクト広場では、ホテルエレファントの外観を見たり、馬車の馬を見たり。
グロピウス設計の実験住宅「Am Horn」と(開館は水・土・日曜のみなので、外観だけ)、
同じ通りにある、Paul Kleeが住んでいた家は、私がどうしても見たかったので、3人を付き合わせてしまった。
その後、またイルム公園を通って、お城へ。城内が美術館になっていた。
階段上りにしか興味がないと見えた のい も、見事な装飾の室内に「うはー!」と言って、見とれていた。
昼食をとる時間もなく、市場やパン屋で食べるものを調達し、急いで駅へ。バスの中で のい は眠ってしまった。
駅のトイレは、自動で便座に紙が出る、これまで見たこともない方式。1人1DMを徴収していたが、その徴収係が、
20代前半とおぼしき男の子だったのには驚いた。旧東ドイツの失業率の高さを垣間見たような気がした。
2001年6月14日-Do.(のい1歳10ヵ月7日) 祝日/皆でワイマールへ
フランクフルト中央駅9時23分発のICEでワイマールへ。……のはずで、予約した席に座っていたが、
いきなり出発が45分も遅れた。のい は、発着する他の列車を見て、飽きなかったので助かった。
放送で謝罪が入り、検札のときに次回のための割引カードが配られた。30分以上遅れると、配るものらしい。
大陸の人は、日本のようにやたらと謝らないだけに、丁寧な対応に驚いた。
それから約2時間40分の旅。隣に座った老夫婦が、のい を可愛がってくれたのも、うれしかった。
バウハウス博物館、国民劇場前のシラーとゲーテの像。ゲーテの家と庭。マルクト広場でアイスクリーム。
バウハウス大学、ゲーテの山荘、イルム公園……と、たくさんたくさん歩いた。
のい が動き回るので、ゆっくり見た気はしなかったが。
そろそろ食事するところを探さねば、というところで夕立。子連れなので入るのに躊躇したが、
国民劇場前のレストランに入ってみたら、観光地ということもあってか、子供のコーナーや椅子もあった。
(日本と違いドイツでは、しつけ完了以前の子供は、レストランなどの大人の場所はご法度。犬以下の扱いだ。
夏の日中は、店の前に椅子とテーブルが出る。そこなら子連れもOKのもよう)
のい はシャンピニオンのスープを、たくさん食べ、他のテーブルに愛想をふりまいた。
うっかり のい のスプーンを私の皿に載せていたら、皿ごと洗い場に持っていかれたりもした。
ホテルは最も駅に近い、
Hotel Thueringen
。旧東ドイツ時代からの、結構古いホテル。
予約のFAXに「22ヵ月の子供」と書いておいたら、部屋にはちゃんとベビーベッドも入っていた。
しかし、いつものように、ダブルベッドの真ん中に、ベビーベッドのマットレスを敷き、のいの寝床とした。
私たちの部屋は、エキストラベッドOKの広い部屋で(ただし家具は古かった)、一番線路側の部屋なので、
電車好きの のい には最適だった。窓からICEが見えるとは素晴らし過ぎ。静寂を望む向きには勧められぬが。
2001年6月13日-Mi.(のい1歳10ヵ月6日) 両親到着
私の両親が到着。格安?ツアー(スイス〜ライン河下り)の宿泊先から、我が家近くのホテルへ移動。
チェックイン後、Zeilへ。台所用品専門店で、母が旅行中に興味を持った、野菜の特殊なスライス器を探した。
私はどんな器具か見たことがなく、母も、切られた野菜しか見ていないので、探索はなかなかの難しさ。
母には絵を描いてもらい、私は怪しいドイツ語で説明。口八丁手八丁? で、ようやく見つかったときは嬉しかった。
のい は、うちにある木の列車の玩具の、部品をたくさん買ってもらった。
お昼は、百貨店の最上階のレストランへ。屋上の席で、フランクフルト中心部を眺めながら食べた。
明日が祝日だからか、今日は水曜日なのに、いつもの木曜市場が大学前でやっていた。
夕食は家で。のい は夕食の支度の間、二人と一緒にホテルへ。のいは我が物顔でスタスタと先導し、
エレベーター(Aufzug)のボタンを押したり、信号機の押しボタンを押したり(普段押させたことはないのに!)、
ホテルの部屋に案内したり(一度しか行ったことがないのに!)したそうだ。なんてこった。
夕食には、学校から帰った夫も合流して、ロールキャベツ(ドイツ語の教科書中のレシピ)、
市場で買った鶏の丸焼き(ドイツ人の常食?)などを食べた。ズッキーニはキュウリじゃないよー。
のい は、スイスの氷河特急の写真雑誌をもらって、ページをめくっては「キシャ!」と叫んで喜んでいた。
食後、さっそく、新しいスライス器を試してみた。波形にスライスする器械で、一枚切るごとに90度向きをずらすと、
次の1枚は格子模様に見えるように、切れる(って文章で説明するとややこしいんだが)。しかし、
「90度向きをずらす」ことに気付くまでが大変で、母と台所で悪戦苦闘。のい は、試作品の失敗キュウリを持って、
台所と居間の間をチョコチョコ。「ん?」と、後ろから のい の様子を見ていたら、
父にキュウリスライスを渡そうとしている。が、疲れと満腹で父が居眠りしていたため、気付いてもらえず。
いろんな向きから差し出しているのに、父はビクともせず、とうとう、のい は「うええええーん!」と、
泣き出してしまった。笑っちゃ悪いが、可愛かった。後ろから駆け寄って、ヨシヨシしたことだった。
2001年6月12日-Di.(のい1歳10ヵ月5日) 「イーヤア」「ウー」「カエ」
のいは睡眠に関しては私似で、寝相は至って悪いが、寝起きはいつも、すこぶるヨロシイ。
なのに、今日は自分から目覚めたはずなのに、朝食のときに一口食べてはマブタが下がる有様。
昨日の予防接種の影響か、はたまた3日前に額をぶつけた影響か、と心配し、食後、ソファに寝させたが、
乳をしばらくくわえさせたら、スッキリした顔で起きた。ほっとする。
「イーヤア!」というかけ声がブーム。何か手伝って運ぶときはもちろん、ただ機嫌が良いだけのときも、
左足を蹴り上げながら「イーヤア」と叫んで威勢良く歩き回る。
広場の横の新聞屋のお姉さんは、のい がお気に入りらしい。夫が新聞をクーポンで買っただけなのに、
わざわざ、のい を呼び止め、ゴム風船を下さった。さらに投げキッスも。モテモテのい である。
のい と、隣の広場整備の現場の横を歩いていたら、黒人の園芸作業員のお兄さん2人組も、「可愛いねー」と
声をかけるやら手を振るやら。のい は少し手を振った後は、私にしがみついて恥ずかしがっていた。
寝室で仕事をしていた夫が、居間に久しぶりに出てきたときにも「マンマ、マンマ」と言っていた。謎。
とうとう、ドイツでの最古参、Lufthansaにもらったヌイグルミ、LUを「うー」と呼ぶようになった。
トラクター(農家のお祭りに行って以来、執心)に似たプラスチックの車の玩具を、商店街で見つけ、買った。
さっそく広場で遊んだが、一人ではつまらないのか、しばらくすると集合住宅の入口を指差して「カエ!」。
おお! “帰ろう”と言ってるのかい。初めての動詞だ!
2001年6月11日-Mo.(のい1歳10ヵ月4日) MMR
MMRの予防接種をしてもらう予定にしていたのに、朝から激しい雷雨。肌寒い。
夫が先に大学の図書館へ。晴れ間を見てタイミング良く家に電話をしてくれ、診療所前で待ち合わせ。
おかげで午前中のうちに、予定通り接種を受けることが出来た。Dr.ラーマンの診療所は大学にも近いのだ。
そのせいなのか、お客(患者)も待合室の壁画も実にインターナショナル。
待合室では のい が一番元気が良く、兄弟の付き添いで来た少し年上の女の子と(モンゴル系とドイツのハーフ?)
顔を見合わせて大笑いしたり、ブロックを籠から放り出したりして、遊んでもらい、楽しそうだった。
予防接種の部屋では、ポリオやB型肝炎同様、MMRも尻に打つのかと思って、ズボンを脱がせ、
念のため看護婦さんに「Po(尻)?」と聞いたら、MMRは腕に打つとのことだった。
「腕」ときいて長袖シャツを脱がせようとしていたら、Dr.ラーマンが制止。「袖をまくるだけでよい」。
夫が のい を膝に抱き、Dr.ラーマンが、のい の腕をとった。そして私が、
のいが針先を見ないようにと、のいの顔を私の方に向けようとしたら、またDr.ラーマンが押しとどめた。
「そうすると余計に不安がる」。なるほど。Dr.ラーマンはさっと のい の左上腕を消毒綿で拭いて、
息つぎする間もなく針を刺し、ワクチンを注入。針を抜いた後、少しだけ出た血を一拭き。それで終了。
のい は、自分の左腕に起こっている一部始終を、注視していたが、痛がりも泣きもしなかった。
そういえば、Dr.ラーマンのところには引っ切りなしに子供が来ているのに、恐怖する泣き声を聞いたことがない。
日本でかかっていた医師のところだと、聴診器を胸にあてる段階で既にかなりの子供が泣く。
注射となれば「ちょっと我慢してねー」と、皆で押さえ付けてくれる。その異様な雰囲気だけで子供が怖がるのかも。
注射の後でごほうびをくれるのは、日本もドイツも同じで、Dr.ラーマンは飴を2つくれた。
のい は、飴をまだ食べたことがないので、玩具をもらったと思っているらしかった。
健康保険カードを返してもらうまでの間、待合室で一遊び。国際予防接種手帳とカードを受け取って
「帰るよ」と言ったら、のい は乗っていた木馬からすぐに下りてついてきた。
が、3mばかり歩いて突然停止、くるっと方向転換し、待合室へピュー。何何?と夫と吃驚していたら、
待合室のテーブルに置き忘れた、ごほうびの飴を、手に戻ってきたのだった。
お調子者のようで、結構しっかりしているんだなーと笑ってしまった。
私の尋常ならぬ“忘れ物癖”は、のい には遺伝していないらしい。ちょっと安心。
2001年6月10日-So.(のい1歳10ヵ月3日) 散歩には「ぼー!」
疲れすぎて、夜中にのい に起こされた後はよく眠れず、寝不足。
のいは、赤ちゃん用の布団からはみ出しかかるほど、大きくなった。感慨深い。
そろそろ子供用のベッドを用意すべき頃なんだろうが、仮住まいだから仕方ない。帰国までは
親が、ベッドガード代わりとなって、両側で、のい のキック、パンチを受けて立つのである。
帰国すれば、また畳の部屋で、布団に「川」の字なんだけどね。
のい に“散歩”と言うと、帽子のある棚のところへ行き、帽子を見上げて「ぼー!」と催促するようになった。
“フクロウ”と言うとまた「ぼー」(絵本に、そういうフレーズがあった)。“猫”と言うと「にゃんにゃん」。
午後の1時間半ばかり、夫が散歩に連れ出してくれた。のい は汽車を見て喜んだようで、すっかりお父さんっ子。
その間に掃除や片付けができたが、私が焼いたココナツクッキーを皆で食べたら、また床が屑だらけ。元の木阿弥。
それにしても、インターホンを通して私の声を聞くなり「マンマ、マンマ」。私がトイレや台所に隠った後、
しばらくぶりに顔を出すようなときも、「マンマ、マンマ」と言って駆け寄って来る。
うちでは「おかあさん」としか呼ばせてないんですけどー。「マンマ」って一体、何?
2001年6月9日-Sa.(のい1歳10ヵ月2日) ゴツンゴツン
Zeilへ。正午から、ザクセンハウゼンのお祭りに行きたいという夫が合流。
用事を済ませようとするも、3人だと、のい が甘えモードに入り、乳母車から下りて歩きたいだの、
階段を昇り降りしたいだの何だの騒いで、大変だった。昼食後には眠たさも加わって、
自分のしたいことができないと泣き叫ぶ。歩かせれば地下鉄駅への階段を数段落ちて、左眉の端を打った。
その後、広場の噴水のところを歩いていて、浮浪者風のオバアサンにチュッチュされ、
さり気なく遠ざけようとしているとき、今度は、噴水下の台から転がり落ちた。
額を敷石で打ち、右眉と小鼻に擦り傷。ハンカチを手持ちのぬるい水に浸して(ドイツではトイレを借りるのも大変)
冷やしたが、みるみるうちに、額には大きなタンコブが。すぐに地下鉄で帰宅。
今日は、フランクフルト中、各所で夏祭りをやっていて、近所の幼稚園でも催しがあるというので
のい を連れていくのを楽しみにしていたのに、もうお祭りどころではない。とにかく昼寝をさせる。
夕方、家の前の広場でも、Strassenfestが催された。これまで1軒ずつでしか会うことのなかった近所の人たちが
一同に顔を合わせた。下の階のオバアサン・Sさんはお友達を連れてきていた。私を見ると大きく手を振ってくれて、
なんだか嬉しかった。子供たちはやはり中国人が多い。のい は、2歳4ヵ月のYちゃんの玩具にやたら執着し
親としては困った。Yちゃん自身は飄々とした女の子で(昨晩、母親に髪を切られて男の子のようになっていた)、
のい が遊んでいても全然気にしない様子だったが、他の中国人の子らが「これはYのだから!」と言って
わざわざYちゃんに返しに行ってくれる。近々買ってやろうと思っていた類の玩具だけに、なんだか悔しかった。
閉店法がなければ、すぐにでも買いに行ってやるのに……とうらめしかった。
近くの研究所の人が、子供に絵をかかせて、その記念に反射板でできたバッジを配っていた。
のい は恐竜の柄のをいただき、喜んだ。雨が降ってきたので帰宅。ヘトヘトに疲れた。
2001年6月8日-Fr.(のい1歳10ヵ月1日) 立ち退き
また雨。なかなか外に出られない。うんざり。
夕方、雨が上がったところで食料の買い出しに出たら、近所の立ち退き問題アパートに住む、
ギリシャ人のおばあさん に会った。前に、インド食料品店からの帰りに一緒になって、お話をした人だ。
日記に書き忘れたが、その日、市長(女性だ)が問題のアパートを見に来て、その様子がテレビニュースで流れた。
ボロボロに壊れたまま放置されていて、一部は天井がなかったり暖房が壊れていたりして、大変そうだった。
多くの人がすでに引越していったが、労働者住宅ということでまだ頑張っている人もおり、
彼女夫婦もその中の2人のようだ。しかし、半ばギリシャに戻る心づもりをしているようだった。
2001年6月7日-Do.(のい1歳10ヵ月0日) 切符購入
Weimar行きの切符を西駅の窓口で買った。今日は、腹の出た明朗快活ないつものオジサンじゃなくて、
まだ少年のような若い駅員だった。夫と一緒だったが、ほとんど私が話して購入。一部ややこしいところは
結局、図解して「Alles klar!」となった。まだまだだなと思った。
2001年6月6日-Mi.(のい1歳9ヵ月30日) コピー屋
コピー屋で、店番のスキンへッド兄ちゃん(彼は反ネオナチらしいが)にコピーの仕方を誉められる。
誉められたところまでは分かったが、彼が何か質問してきたことが、よく分からず。
そもそもコピーしていたものがドイツ語の練習帳だったので、見せて「今、ドイツ語を勉強しているのだ」
と言ったら、「分かった、もういい」と会話はそこでストップ。至極残念。
Bioパン屋で、Apfelbroetchen(リンゴの小型パン)を買ってみたらば、大変美味だった。しかし、
のい に、そのパンを持たせて食べさせながら買い物競争をしていたところ、知らない間に床に投げ捨てていた。
誰のカネで食ってると思ってんだ!と、逆上しそうになった。不愉快極まりなし。
2001年6月5日-Di.(のい1歳9ヵ月29日) ポリオ/宿予約
今日こそはMMRの予防接種だ!と思って、国際予防接種手帳に貼ってある、医師のメモを念のため確認したら、
今日はポリオの予防接種だった。日本と違い、生ワクチンではない。2回ではなく3回が、世界標準。
今日も、のい が気付かぬうちにお尻に打ってくれて(Dr.ラーマン自ら)、待合室で遊んでいる時間の方が長かった。
その後、来週、Weimarへ行くため、宿を予約。早朝に帰る人がいるため、駅前の大型ホテルを狙ったが、
商店街の旅行代理店(私たちに「ニイハオ!」と言ったお茶目なオバサンがいる)、日本系代理店どちら経由も、満室。
で、結局、街のInfomationのホムペで検索して、駅から近そうなところに、私が直接電話した。即OKが出た。
まあ、大型チェーンホテルは私の趣味ではないので、家族経営的な小さな宿をとれて良かった。
バスタブなしだし、妙に安いので、一緒に行く来客が気に入るかどうかは問題だが。
2001年6月4日-Mo.(のい1歳9ヵ月28日) 歌う のい
連休最終日。のい がいろいろしゃべるようになった。昨日本物の羊を見たせいか「メーメー」。
ドイツ版『アルプスの少女ハイジ』の主題歌 ♪Heidi,Heidi♪のところだけ歌ったり。
2001年6月3日-So.(のい1歳9ヵ月27日) Hessenpark
雨。しかし晴れ間があったので、タウヌス丘陵、Bad Homburgのはずれにあるヘッセンパークへ。
ドイツの中世の民家を集めてあり、今日は“Muehlentag”、直訳すると“粉挽きの日”のイベントで、
麦を風車小屋で粉に挽いてみせ、さらにパンが出来上がるまでの実演をしているらしかった。
家からSバーンでBad Homburgへ。タウヌス鉄道に乗り換え、Wehrheimからバス514番に乗り……としているうちに
また横殴りの雨。タウヌス丘陵はフランクフルトに比べ、かなり寒く、薄着の我々は震え上がった。
しばし晴れた間に、放し飼いの羊がコール&レスポンス(メー/メー)するのを見て楽しむことが出来たが、
寒いのと天候が安定しないのとで、スタコラと帰りのバスに乗った。1時間ほどの滞在。何しに行ったのやら。
のい はほとんど雨除けをしたベビーカーの中で眠っていただけ。行き帰りの電車ではしゃげたくらいで。
ドイツ中世の農家は、日本の古くからの農家とそう変わらないような気がした。そして、
Hessenpark周辺の丘陵は、湯布院〜大分市内の眺めにそっくりだった。何を見に行ったのやら。
2001年6月2日-Sa.(のい1歳9ヵ月26日) 快食快便
3連休初日。朝から雨で、Roedelheimまでの散歩は中止。家の近所のパン屋で
普段買わないパンを試し買い。売り子のお兄さんに“Roggenbrot”とパンの名の発音を教わった。
外出した夫が、お土産にトルテを買ってきてくれた。土曜の夕方とあって、店員が早く片付けたかったのか、
「これも持ってけ」と1個オマケしてくれたとか。ドイツらしい様々なベリーの入ったトルテで、美味しかった。
のい は朝昼晩オヤツとすべて綺麗に平らげた上、母乳を甘え飲みし、立派なウンチを3回も出した。
2001年6月1日-Fr.(のい1歳9ヵ月25日) 図書館のベテラン?
昨夜は夫が夜のゼミ(コロキウム)+飲み会だったので、夕食が早く、のい を一人でさっさと風呂に入れ、
さっさと寝かし付け、自分の時間をいつもより少し多く持てたので、気力を回復することができた。
商店街へ買い出しに出たら、スーパーのレジでH+S 2-3の先生、Eに会った。
しばらくおしゃべり。アドレスも交換、これからはDu(友達同士)ということに。
帰りに図書館へ。のい はさっさとEisenbahn(鉄道)絵本の棚に行き、自分の好きな絵本をつかむと
勝手に貸出カウンターへ。カウンターの人も、こんな小さいのが一丁前に借りようとするので、びっくり。
家に帰るときもその本をずっと抱えたまま。食事の時になっても「キシャ!キシャ!」と言って離さず。
私は処分本コーナーで、ケストナーによる『ガリバー旅行記』 という稀少絵本を手に入れた。
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