大好き

いつものように皆で夕餉を共にした後、茶飲み話に花を咲かせていて、ふと風早が言った。
「そうだ、例の物見遊山の件ですけど……何とか千尋の希望通りに進められそうですよ」
その件については忍人も少しばかり聞き及んでいた。
先日、千尋が少しばかり遠出して国の様子を見たいと言い出したのだ。ただ、視察の名目では仰々しいことになるから物見遊山にして、社会勉強も兼ねて忍継も連れて行きたいと主張したので、その所為で調整が難航していたのだろう。民や土地の様子を直接その目で見ることは悪くないと思うので、忍人は反対を唱えてはいなかった。
希望通りに進められそうと聞いて、千尋は飛び上がらんほどに喜んだ。
「わ~い、やった~。ありがとう、風早、大好き」
「ははは…お礼なら、柊に言ってあげてください。随分と頑張ってくれましたからね」
「そうなんだ。ありがとう、さすがは柊だね」
「……我が君よりのお褒めのお言葉、至極光栄に存じます」
柊が一瞬だが表情を曇らせ千尋への返答が遅れたことに、一同は引っ掛かりを感じた。
「そうしたの、柊?もしかして、具合でも悪いとか…」
「何か問題でも生じているのか?」
「今更ダメになったとか言い出すんじゃないでしょうね」
矢継ぎ早に問いかけられて、柊は困ったような顔をして見せた。
「そのようなことではないのです。ただ、以前より心に引っ掛かっておりました風早との扱いの違いを、あまりにもまざまざと見せつけられた気が致しまして…」
「何のこと?」
千尋は首を傾げた。風早も忍人も、柊が何を言っているのか訳が解らないと言った顔をする。
「何故、私には”大好き”と仰っては下さらないのでしょう」
柊は、何処か傷付いたような声音で、弱々しくそう零したのだった。

「我が君は、先程、風早には”大好き”、私には”さすがだね”と仰いました。同じことをしたのに、何故、私には”大好き”とは仰って下さらなかったのでしょう……我が君」
泣きそうな顔と声音で「何故?」と聞かれても、千尋にはすぐには応えられない。代わりに、風早はあっさりと切って捨てた。
「千尋は俺のことが”大好き”だからそう言って、柊のことはそうではないから”大好き”と言わない。極めて単純な話じゃないですか」
それでも柊は、憐れみを請うかのような目で千尋を見つめて問うた。
「我が君は、私のことなど好いてはおられないのでしょうか?」
「えぇっとね……好きか嫌いかの二択で言うなら好きだよ。好きの中でもかなり上の方に位置してるんだけど…」
千尋はこめかみをコリコリと指先で軽く刺激しながら、困ったように答えた。
「ただねぇ、どうして”大好き”って言わないのかって訊かれても解らないんだよね。さっきだって、風早に対しては自然に口からそれが飛び出しただけ、柊には出て来なかっただけとしか言えないよ」
千尋の答えに、柊は一度浮上した気分が再び沈み込んだ。

「忍人さん、具合でも悪いんですか?」
気まずくなって柊から視線を逸らした千尋は、横で忍人が俯き口元に手を当てて肩を小刻みに揺らしていることに気付いて、心配そうに声を掛けた。しかし、忍人からは返事が返って来ない。
風早も柊も、どうしたことかと忍人を見遣って、怪訝な顔をする。
「もしかして……笑ってませんか?」
「ええ、笑ってるでしょう、忍人。酷いですよ、私の不遇がそんなに可笑しいんですか!?」
すると、声を立てずに必死に笑いを堪えようとして失敗した忍人は、心配そうに覗き込む千尋の顔を見てやっと笑いを封じ込めて答えた。
「確かに、お前の不幸は面白くないとは言わないが、そんなことよりもその内容がな……お前が今嘆いていたことは、千尋と付き合い始めた頃に俺が悩んでいたのと殆ど同じだぞ。それをお前が未だに答えを見つけられず、そんな風に嘆くなんて……これを笑わずになど居られるはずがないだろう」
忍人が随分前に乗り越えた壁に柊が今でもぶつかったままで居るなんて、忍人にとってこんなに滑稽なことは無かった。

忍人と千尋が互いの想いを確かめて、晴れて恋人となってから、忍人は仕事抜きでも千尋の傍にいる時間が増えた。
そうなると、風早や那岐に向って千尋が屈託のない笑顔で「大好き」と言う現場に遭遇することは珍しくなかった。それでも、千尋にとっては彼らは長年一緒に居た家族なのだから、と当時はあまり気にしてはいなかった。
しかし、その内に嫌でも気付く。忍人は、遠夜や足往、その他忍人と気心の知れた狗奴達にも千尋は同じように「大好き」と言うことがあると知ってしまった。そして、そうやって親しい者達に「大好き」を大盤振舞しているかのような千尋が、自分には一度もそう言わないことにもやがて気付いた。
勿論、「好きです」とか「愛してます」とは言ってくれる。しかし、何故かあの笑顔で「大好き」と言ってくれることはない。
ここで「何故?」と問うことは忍人には出来なかった。どう話を切り出して良いのか解らなかったし、そのようなことを問うのは何やら憚られるような気がしてしまう。
そうして独りで思い悩んでいたある日、忍人は衝撃的な光景に遭遇した。
狗奴達の訓練に向かう途中、前方に千尋の姿を見かけた。傍には風早と足往が居て、楽しそうに話しているように見えた次の瞬間、千尋があの屈託のない笑顔で足往を抱き寄せて頬ずりしたのだ。
忍人は咄嗟に動揺を押し隠して身を翻した。そして、少し時間を於いてそこに誰もいなくなってから、何食わぬ顔で訓練所に向かった。
しかし、いつも通りに振舞っていたつもりでも実際には足往にかなり厳しくあたっていたらしい。見かねた太狼が諌めてくれたおかげで大事には至らず皆の信頼も損なわずに済んだが、忍人は部下の命や身柄を預かる立場でありながら私情に駆られて危うくそれを潰すところだったことを、己を律することが出来ていなかったことを恥じ入った。
そこで、性根を叩き直してもらおうと師の元を訪ねたのだった。

何をどう言ったものか良くは覚えていないが、とにかく忍人がありのままを話して再修業を頼むと、岩長姫は心底呆れた顔になった。
「何をくだらないことで悩んでるんだか、このバカ弟子は……要するに、あんたは嫉妬しただけだろ。そんなもんは、どれだけ鍛錬しようがアタシが叩きのめそうが、どうにもなりゃしないよ」
師に見捨てられた、と愕然とした忍人に、岩長姫は続ける。
「あんたは千尋の恋人だろうが……だったら、千尋が屈託のない笑顔で”大好き”なんて言ってくれるはずないじゃないか」
忍人は問うような視線を向ける。
「千尋はあんたのことを男だと思ってるんだ。女が男に向って、本当に屈託のない笑顔で”大好き”なんて言える訳ないだろう。そんなことも解らないのかぃ?」
「申し訳ありませんが、師君の仰る意味が全く解りません。確かに俺は、傍から何と言われようとも間違いなく男です。ですが、そもそも風早達も男ですよ」
「性別の話じゃなくて、千尋の意識の話をしてるんだ。見た目がどうであろうと、千尋は風早達のことを男と思ってないから、何の恥じらいも警戒心も恐れも感じることなく接することが出来るが、あんたのことは男として意識してるからそうはいかないってことさ」
忍人は、ますます訳が解らないと言った顔をした。
「そうさね、ならば忍人……あんた、采女の前でも着替えられるだろう?」
「……はい」
急な問いに戸惑いながらも、忍人はあまり考え込むことなく答えた。
殊更に人前で着替えようとは思わないが、出来るか出来ないかということなら、出来る。葛城の仕女も橿原宮の采女も、居ても大して気にはならない。元より彼女達はそういう存在であるべきで、こちらを変に意識する者が居れば教育がなっていないと腹立たしく思いこそすれ、着替えることに抵抗は感じない。
「それじゃあ、千尋の前ではどうだぃ?」
「それは…………現時点では、控えるべきことなのではないかと……」
その様子を想像して微かに頬を染めた忍人に、岩長姫はあっさり言う。
「それが恥じらいってもんさ」
「はぁ……」
忍人は解ったような解らないような気のない返事をした。
「あんたの場合、何とも思ってない女の前でなら平気で着替えられるからねぇ……要は、あんたにとっては、千尋以外は女じゃないってことさ。それでいて、男の前だと肌を隠すだろう?」
「えぇ、まぁ、昔からいろいろありましたし、男の方が厄介なので…」
忍人が恥じ入るような困ったような顔で応えると、岩長姫は大きく頷いて見せた。
「その警戒心は、女のそれさ。だが、道臣の前でなら平気で着替えられるだろう?」
「はい」
そう即答しながら忍人は、狗奴達と遠夜と布都彦と那岐の前でも問題ないな、などと考えていた。
「性別で言うなら、奴等も間違いなく男だ。それでも平気なのは、つまり、あんたは奴等をそういう意味では男と思ってないからなのさ」
「……成程」
確かに彼らのことをそういう目で見たことはない、それは間違いないと忍人は思った。
「千尋も、あんた程ではないにしても、男に対しては本能的に恥じらいや警戒心を抱くんだ。だが、一部の者達にはそれを感じない。奴等には全く恥じらいも警戒心も抱かない……とは言え、誰にでもまるっきり無防備で居られるよりは、あんたにとっても有り難いんじゃないのかぃ?」
「それは、確かに…」
畳みかけるような師の言葉は、忍人の心に響いた。確かに、誰に対しても無防備で居られるよりは、基本的には警戒心を抱いてくれた方が有り難い。一部の例外くらいは、我慢しても良いような気になって来る。
そこへ岩長姫がダメ押しの言葉を放った。
「恐れはってぇとだね……そう、柊の前で着替えを…」
「冗談じゃありません!奴の前で上着1枚でも脱ごうものなら、何をされるか解ったものじゃないっ!!」
今度は、即答どころか非礼にも師が言い切らぬ内に叫ぶという早さだった。
しかし、岩長姫は予想通りの反応に満足そうに言った。
「まぁ、そういうことさ。程度の差こそあれ、今の例を千尋の場合はそれぞれ、采女を風早や那岐に、千尋を自分達のような親しい男に、そこら辺の野郎共はそれこそ一般的な男性陣に、道臣を遠夜や狗奴達に、柊をアシュヴィンにでも置き換えてやりゃ、いくらあんたでもちっとは理解出来るんじゃないのかねぇ」
さすがに忍人も、何となく解ったような気になった。

忍人でさえ理解出来るように女性の心理を解説するという離れ業をやってのけた師に、風早と柊は畏敬の念を覚えた。
しかし、千尋は無邪気に言う。
「確かに、出来ますね。風早は勿論のこと、那岐でも遠夜でも足往でも狗奴さん達でも……着替えはおろか、添い寝や混浴も出来るかも知れません」
「……しないでくれ」
いくら千尋でも、出来ると言うだけでそこまではしないだろうと思いながらも、忍人は頭を抱え込んだ。
それから、何とか気を取り直して、話を戻す。
「とにかくだ……千尋に屈託のない笑顔で”大好き”と言われたければ、遠夜のように純真無垢な心の持ち主に生まれ変わって来い」
「ああ、それは無理でしょう。柊は何度生まれ変わろうとも、悪知恵に長けた遊び人の下僕にしかなれませんよ」
「否定はしませんけど……(姫が)何度生まれ変わろうとも異性として意識されることなく常に侍従どまりのあなたにだけは、言われたくはありませんね」
双方笑顔のまま、風早と柊の間に火花が散った。
千尋と忍人はその光景に揃って息を飲む。だが、何故この程度の軽口で二人の間にこんなにも異様な緊張が走るのか、その理由を聞いてはいけない気がした。
そこで二人は、黙ってそっと寝室へと引き上げることにしたのだった。

-了-

《あとがき》

千尋から屈託のない笑顔で「大好き」と言ってもらえない、と嘆く忍人さんと柊(*^_^ ;)
でも、それは、ちゃんと男性扱いされてる証拠でもあります。

危険な果実」同様、風早達は男とは思われていません。
おかげで良いことも悪いこともありますが、 屈託のない笑顔で「大好き」と言ってもらえるのは、男と思われてない者だけの特権です。
なので、柊とアシュヴィンだけは、どれ程時の輪を巡っても絶対に言ってもらえません。
忍人さんは、流れによっては男だということを忘れられてしまうことがあったり、男とか女とかの前に”忍人さん”だったりすることがあるので、言ってもらえる可能性が皆無ではありませんが、忍千である限りは言ってもらえません(*^_^ ;)

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