愛と鞭

いつ生まれてもおかしくないくらいに膨らんだ千尋の腹を見ながら、忍人が今更ながらに呟いた。
「風早の奴、育児は任せてください、なんぞと張り切っていたが……本当に任せて大丈夫なんだろうか」
「う~ん、大丈夫だと思いますけど…」
自分ではよく覚えてはいないが、風早は千尋の世話を一手に引き受けていたのだ。それに、向こうの世界では、子供がなかなか泣き止まずにおろおろしているお母さんに手を貸して上手にあやす姿を何度か見たことがある。
「君がそういうのなら問題ないのだろうが……昔、風早は、教育に必要なのは愛と鞭です、とか言ってたからな」
幼子相手にそう簡単に手を上げることは無いとは思うものの、何かにつけて風早から折檻されて来た忍人としては、少しばかり不安に感じられるのだった。千尋似なら問題ないが、自分似だったら風早は子供にも忍人にして来たような仕打ちをするのではないかと、心配で仕方がない。
しかし、そんな懸念も、直後の千尋のおかげですべて彼方へと追いやられてしまった。
「えぇっ、愛の鞭!?そっかぁ、風早ってそうだったんだ。意外だなぁ」
「ぃや、”愛の鞭”ではなく、確か”愛”と”鞭”だ。もっとも、君には”愛”だけ、俺には”鞭”だけしか使ってなかったように思う。だからこそ、子供に対してどのような態度を取るのか、少々不安なんだ」
「そうですよね。鞭だけじゃダメですよ。愛がなくちゃいけません。”愛の鞭”は”愛”の部分があることで、言い逃れが利いた歴史があるんですから…」
「ぃや、だから、”の”ではなくて”と”だと…」
忍人が何度訂正しても、千尋の耳には届かなかった。耳には正しく聞こえても、完全に思い込みによって脳内変換されてしまうらしい。
このままでは千尋に誤った情報を与えたことになってしまう。しかも、どうやら千尋の勘違いの仕方は風早についての評価に悪い影響を及ぼしているようだ。これが下手な形で風早の耳に入ったら、大変なことになる。早いところ風早に事情を説明して、千尋の思い込みを訂正する方法について相談に乗ってもらわなくてはなるまい。

先日から風早は、生まれてくる千尋の子供への祝いの品を焼くと言って出掛けていた。そろそろ予定日なので、もういつ帰って来てもおかしくはない。とにかく、帰って来たところを捉まえようと、忍人は全ての門衛に通達を出した。
「風早が戻って来たら、足止めしておいて、すぐに俺を呼べ」
普通ならこれで問題はない筈だった。しかし、門衛の目に留まることなく橿原宮に出入りするのは、何も柊の専売特許ではなかった。
「忍人、ちょっと話があるんですけど…」
門からの連絡もないまま、いきなり回廊で風早から冷ややかに声を掛けられた忍人は危うく飛び上がるところだった。
「風早、いつ戻ったんだ!?まぁいい、俺もお前に話が…」
この様子では既に手遅れなのではないか、と思いながらも念の為に自分の方から話を切り出そうとした忍人だったが、風早は皆まで聞かずに本題に入った。
「千尋に聞いたんですけどね……俺が体罰を推奨する暴力教師ってのは、一体どういうことなんでしょうねぇ」
やはり遅かったか、と忍人は瞬時に悟ると素早く背後へと飛び退き、すかさず土下座した。
「すまない!何やら、誤解を招いたようなんだ。俺はただ、昔、風早が…」
その行動に呆気にとられたように風早が棒立ちになった隙に、忍人は急いで事情を語った。

「……という訳なんだ。何度も訂正を試みたのだが、どうしてか千尋には正しく伝わらなくて……千尋の口からお前に伝わる前に、弁明と相談をと思っていたのだが…」
「ああ、確かにそんなようなことを言いましたね。成程、千尋の耳には変換されてしまうのも無理はありません」
「本当に、すまない!」
必死に謝る忍人に、風早の纏う空気はすっかり普段の柔らかを取り戻した。
「お話は解りました。でも、ちょっと間違ってますよ。教育に必要なのは”愛”と鞭じゃなくて、”飴”と鞭です。愛と鞭が必要なのは、猛獣の調教ですね」
その言葉に、忍人は勢いよく顔を上げると、敢然と抗議した。
「だが、お前は間違いなく俺に、”愛”と鞭って言ってたぞ。俺は猛獣扱いか?」
「ははは、まさか、そんな……いや、だって、ねぇ……あなたに”飴”あげても喜ばないでしょう?甘いもの苦手だし…」
風早は、明らかに誤魔化そうとしている。あまりにも挙動が不審だ。
しかし、忍人が更に追及する間を与えないように、風早は話を逸らした。
「それより、もう立ったらどうなんですか?」
言われてようやく忍人は人が行き交う回廊でまだ正座したままだったことに気付き、慌てて立ち上がったのだった。

「それにしても、忍人が公衆の面前でいきなり土下座するとは驚きました。まさか、そうやって敵に命乞いしまくって不敗伝説を作ったんじゃないでしょうね?」
「そんな訳あるか!こんな真似をするのは、師君とお前に対してだけだ」
そうでもしないと、大変なことになるのだ。場所だの人目などを憚っている場合ではない。下手に躊躇おうものなら、文字通り、命にも関わる事態となる。
すると、風早は別のことが気になったようだった。
「先生と俺だけってことは……千尋にはしないんですか?」
「今のところ、そのような事態に陥ったことは無いな。これからも多分、無いと思う」
「ほぉ、言い切りましたね」
口煩く説教して言い過ぎて千尋に逆ギレされたり失言して反対に怒らせたりなんてことは珍しくないくせに、と風早が小莫迦にしたように言うと、忍人は諭すような口調で言い返す。
「考えても見ろ。土下座して謝らねばならぬほど千尋を怒らせるような事を仕出かした場合、いきなり鉄拳が繰り出され、体勢を立て直した時には彼女は既に何処かへ走り去っているんだぞ。その場でこんなことをしてる暇などあると思うか?」
「……ありませんね」
風早がしみじみ言うと、忍人も「そうだろう?」と念を押すようにしてから続ける。
「平謝り出来るとしたら、その場には二人っきりか、お前達くらいしか居ないに決まっている」
これには風早も深く得心した。
そして、この場に居合わせた者達は、あの葛城将軍にここまで言わしめた女王に対して畏敬の念を強めたのであった。

-了-

《あとがき》

”愛の鞭”と”飴と鞭”。どちらも人間相手に使われる文言ですが、”愛と鞭”は猛獣の調教と風早による忍人さんへの教育的指導に使われる文言です(^_^;)
似ている言葉なので、教育について話しているという感覚でいる千尋には、その先入観から”愛と鞭”が”愛の鞭”と認識されています。
そうとは知らずにポロッと昔のことを口にしたおかげで、忍人さんは大変なことに…。

忍人さんの言う「こんな真似」は、あくまでも”公衆の面前でいきなり土下座”であって、”公衆の面前”だったり”いきなり”じゃなければ、千尋に対しても土下座する羽目になることはあるでしょう。何しろ、本気で怒らせると怖いから……「罪と罰」みたいに柊を送り込まれたら堪ったもんじゃありませんものね。そうでなくても千尋は怒りながら泣いたりするので、そんな時には千尋の方に非があっても、つい忍人さんの方が先に謝ってしまいそうです(^_^;)

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