プライベート・レッスン

朝は何処か元気がなさそうに見えた千尋が、夕方は元気な笑顔で戻って来た。
「忍人がお花を贈った甲斐があったみたいですね」
「な、何で風早がそのこと知って……ああ、そっか。あの花瓶、風早に借りたんだっけ」
千尋はそれを持って来た時の忍人の話を思い出した。
このところ仕事が立て込んで疲れ気味の千尋の為に、鍛錬の合間に花を摘んで来た忍人は、渡してそのまま飾れるようにと風早に協力してもらったと言っていた。
「はい。忍人が自発的に千尋の為に花を贈ろうと思えただけでも上出来なのに、すぐに飾れるようにしてくれと言われたのには驚きました。天変地異の前触れじゃないと良いんですけどね」
忍人は、そのあまりの言われ様に不満を顕わにする。
「お前達にあれだけいろいろ言われれば、俺とてあのくらいは出来るようにもなる」
「ははは…そうですか。では千尋の為に、これからも何かにつけてあれこれ言うようにしましょう」
「……余計なお世話だ」
忍人はプイッとそっぽを向いて吐き捨てた。
「まぁまぁ、そう言わないで……お花、想像以上に効果あったみたいじゃないですか」
宥めるように言う風早に、千尋はニヘッと笑った。
「お花は勿論嬉しかったんだけど、それだけじゃないんだ」
千尋がそう言った途端、忍人は何やら奇妙な顔をする。
訝しむ風早に、千尋はとっても嬉しそうに告げた。
「忍人さんから元気を貰ったの」
「俺は緊張のあまり、生気を吸い取られたような気がしたが…」
「えぇ~っ、何てこと言うんですか!?あんなに素敵だったのに……凄くジ~ンと来て、うっとりして、よし頑張るぞって…あれ?」
興奮して言い募っていた千尋が突然言葉を止めてそのまま動きを止めたのを見て、風早も忍人も何事かと思い、続く言葉を待つように千尋を見つめた。
しばし沈黙の時が流れた後、千尋は忍人をまじまじと見ながら問うた。
「どうして、あんなに上手にキス出来るんですか?」

再び訪れた沈黙の時を、風早が破った。
「忍人…あなた、千尋に口付けしたんですか?」
ギクリとする忍人を余所に、千尋はコックリと頷いた。
「千尋に強請られて、その……だが、俺は千尋の婚約者なんだから、口付けたところでお前に咎め立てされる謂れはないと思うぞ」
「それもそうですね。まぁ、嫌がる千尋に無理矢理した訳じゃないのなら、そのくらいは認めてあげましょう」
開き直った忍人に、風早はあっさりと怒りを収めた。
「それで千尋は、凄くジ~ンと来て、うっとりして、よし頑張るぞと思えたと…」
「うん、そうなんだけど……今更だけど、変だよね。自他共に認める朴念仁の忍人さんが、どうしてあんなに上手だったんだろう?」
千尋は心底不思議そうな顔をしている。
先程の風早に負けず劣らず千尋もえらい言い様だったが、確かにその言葉通り朴念仁であることは自分でも認めているので、そこは聞き流す忍人だった。
「そりゃ、他の人と比べたりは出来ないから上手とか下手とかちゃんとは解ってないかも知れないけど……手慣れてるって言うか、とにかくぎこちのなさなんて全く無いって感じがしたんだよね。一体、何処で誰を相手に経験積んだんですか?」
「誰を…?」
オウム返しにしかけて、忍人は真っ青になって裏拳で口を押えて飛び退いた。それだけで、千尋は何となく事情を察する。
「その反応は……なるほど、柊ですか」
忍人は全身で「答えたくない」と訴えていたが、千尋は容赦しなかった。
「柊相手に無謀な賭けでも挑んだんですか?それとも、売り言葉に買い言葉でハメられましたか?」
「……両方だ」
観念して答えた忍人を見ながら、風早は当時のことを思い返して目元を抑えた。

柊との賭けに負けた忍人は、その代償に口付けを要求された。それも、受けるのではなく忍人の方からしろと言われたのだ。
腹を括って忍人は唇を寄せたのだが、直後に柊は冷ややかに言った。
「下手くそ。それで口付けたつもりですか?犬でももっと上手くやりますよ。こんなものは到底”口付け”とは認められませんね。ちゃんと出来るようになるまで特訓してあげましょう。あなたでは百年かかっても出来やしないでしょうけれど…」

「それで、柊が認めるくらいちゃんと出来るようになるまで徹底的に仕込まれた、と…」
呆れながらも千尋は、あれが柊直伝と聞いて妙に納得してしまった。
「莫迦にしやがって……だから俺は、血を吐くような努力をして…」
「…ようなじゃなくて、実際に吐いてたでしょう。柊の部屋から飛び出しては、川辺で蹲って…。あれって、だんだん血が混じるようになってましたよね。冷たい水で延々とうがいを繰り返して、皮が剥けるくらい唇を擦り洗いして……見かねた俺達が執り成してあげたのに、今更後に引けるか、と突っ撥ねるなんて意地っ張りにも程がありますよ」
「うるさい!執り成すんなら最初にやれ。大体、あんなものは執り成したとは言えないだろう。柊の奴…風早達がもう止めろとしつこいので、無理だと認めて跪いて泣いて縋って許しを請うなら勘弁してあげます、などと……誰がそんな真似をするものか!やったところで、どうせまた一つ一つの挙動に難癖付けるに決まってる」
「はは…有り得ますね。ただ俺達も、まさか忍人が本当に特訓を受け続けるとは思わなかったものですから…」
その場限りの嫌がらせだとばかり思っていた風早達は、柊が本当に忍人の特訓をしていると知って驚き、やめるように訴えた。しかし、柊はと言うと「だって、忍人の方から来るのに私が拒む理由などありませんから…」などと言って一向にやめようとせず、その為に何度唇を奪おうとも全て授業料だと言い切って憚らなかった。
「そもそも、どうして柊相手に賭けなんて…?」
負けることなど目に見えているだろうに、と言外に言われて、忍人は面白くなさそうに告げる。
「俺は、賭けなどしたつもりはなかったんだ。ただ、ある時柊が、そんな仏頂面では二ノ姫が怖がるだろうとか言い出して……実際には君は俺を前にしても怖がったりなどしなかったのに……それで言い争いになって、いつの間にか風早抜きで俺が君を笑顔に出来るかどうかという話になって…」
笑顔に出来たら何でも一つ言うことを聞いてあげます、と言われた忍人は、そんなことは簡単だとばかりに二ノ姫の遊び相手を買って出た。ところが、二ノ姫は風早と一緒の時には忍人が抱き上げても良く笑ったのに、風早抜きだと一向に笑わず、ずっと不安そうな顔をして風早を探すように視線を彷徨わせ続けたのだった。二ノ姫が泣きそうになって忍人が慌てていると、遠くから隠れて見守っていた風早が飛んで来て、柊からは「賭けはあなたの負けです」と宣告されたのである。
賭けなどしたつもりのなかった忍人は抗議したが、成功したら何でも言うことを一つ聞くと自分は約束したのだから、失敗したら自分の言うことを一つ聞いてもらう権利があると柊は言い張った。

「そんなことがあったなんて……全然覚えてないけど、ごめんなさい」
「謝るようなことではないだろう。君は何も知らなかったのだし、まんまと柊に乗せられたのが悪かったのだし…」
「でも、そのおかげで私は忍人さんからあんなに素敵なキスをしてもらえたんだから、そんな悪夢のような経験も無駄ではなかったってことですよね」
そう言いながら、柊の主張にも要求にも問題あるが、その言葉を真に受ける忍人もどうかと思う千尋だった。不当な要求は突っ撥ねればいいのに、そのまま乗せられて「絶対に認めさせてやる」と言って特訓を受けるなど、柊に対して意地を張るにも限度というものがあるだろう。
すると、戸口から声が聞こえて来た。
「我が君の仰る通りです」
一斉に集まった視線をものともせずに、柊は流れるような足取りで歩み寄ると、忍人の顎に手をかけた。
「ふふふ…少しは感謝して欲しいものですね。誰のおかげで、今、我が君にご満足いただけるような口付けが出来ているのか解っていますか?」
睨み付ける忍人の表情をしばし楽しんだ後、柊はつと手を放して独り言ちた。
「ですが、忍人が我が君とこのような仲になるのでしたら、あの時いっそ躰を要求しておくべきだったでしょうか。そうすれば今頃は口付けのみならず寝台の上でも姫にご満足いただけるようになっておりましたでしょうに…」
怒りのあまり言葉も出ない状態で柊に斬りかかろうとした忍人だったが、それを見越していた風早によって既に羽交い絞めにされている為、それは叶わない。
そこで千尋は、軽く溜息を付くと氷の微笑を浮かべて柊に言った。
「帰って来た早々もう出立の挨拶なんて、随分と慌ただしいことだけど……元気でね。今度はずいぶん遠くまで行くようだから、次に帰って来るのは数年後だね。其処彼処で新たな恨みを買わないように気を付けて行ってらっしゃい。珍しいお土産の数々を期待してるよ」
その言葉の意味するところを瞬時に察して、柊は慌てて膝を付き千尋に許しを請う。
「申し訳ございません。何卒ご容赦くださいませ。我が君からのそのようなお言葉は、身を切られるよりも辛く耐え難いものにございます」
その変わり身の早さに千尋は再び溜息を付いてから、不問に付すことを告げた。そして、まだ風早の腕の中で暴れ続けている忍人に向って、何処か楽し気に言う。
「私、昼間は本当にうっとりしちゃいましたけど……柊が合格点を出したってことは、もしかしてあれはまだ軽い方だったりします?特訓の成果を如何なく発揮されたら、腰抜けちゃったりして…。うふふ…怖いけど、ちょっと楽しみです」
何やら期待に満ちた表情で妄想にふける千尋の耳には、驚愕して大人しくなった忍人が零した「俺には、あれが精一杯なのだが…」との声は入らなかった。
そこで柊は、まだ忍人が風早に捕えられていることを確認して、からかうように声を掛ける。
「我が君のご期待に沿えるように、また特訓して差し上げましょうか?その手の才能が皆無に等しいあなたですら姫を腰砕けに出来るくらいまで、徹底的に鍛えてあげますよ。その気になったら、いつでも私の元へおいでなさい」
千尋の期待に応えるべきなのかと忍人は一瞬だけ僅かに心が動いたが、柊の手に乗ってはいけないと自分に言い聞かせ、きっぱりと言い切った。
「誰が何と言おうと絶対に行かない」

-了-

《あとがき》

朴念仁のくせに時折とんでもない爆弾発言をかましてくれる忍人さんなので、女性の扱いに全然慣れてないくせにキスだけやたらと上手かったら面白いなぁなどと思ってしまいました。
ただ、そうなると教えたのはあの人ってことに……一応BLではないんですけどね(^_^;)
以前書いた「再燃現象」で柊が言ってた、賭けの代償云々です。

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