心の霧に惑う

-後編-

風早達の行動も道臣のカウンセリングも何の甲斐もなく、一向に記憶が戻る気配のない忍人だったが、日課のようになって居た堅庭での見張りは続けていた。むしろ、そういう習慣のようなものを続けることで何か思い出せるではないかと期待してのことだった。
「忍人さん」
存在にはもっと前から気付いていたが、声を掛けられて忍人は振り向いた。
「成程…。これが風早達の話にあった、二ノ姫の一人歩きですか。確か、それで私に叱られるのが日課であったとか…。本当に、軽率ですね」
「日課じゃありません。せいぜい、3日に1回くらいです」
反射的に言い返して、それから千尋は本題に入る。
「訊きたいことがあるんです」
「私に答えられることなら、何なりと…」
何か一言返って来るたびに、千尋はその他所行き口調に胸が痛くなる。それでも、再びこの船がどこかに落下する前に訊いておかなくてはならない。
「忍人さんは、私をどう思ってるんですか?」
「……申し訳ありませんが、質問の趣旨が理解出来ません」
「今の忍人さんにとって、私はただの飾りなんでしょうか?王家の生き残りだからと皆に担ぎ上げられた、非力な小娘でしかないんですか?このまま記憶が戻らなくても、あなたは私と一緒に戦うことが出来るんですか?」
一気に捲し立てた千尋の前で、忍人は質問内容を把握する為か少し黙り込んだ。それから、淡々と答える。
「正直に申し上げるならば……確かに二ノ姫のことは、この戦の象徴だとしか認識しておりません。それも、僅かな風にも吹き飛ばされそうな頼りない旗印です。それでも私はあなたをお守りしこの戦に勝利するために、力の限り刀を振るいましょう。御心配なさらずとも、私は軍人です。あなたが唯一人の王家の姫であるならば、その為に刀を振るい命を捧げることを躊躇うことは致しません」
「そんなこと言わないでください!そんな……命を捧げるなんて…」
千尋は悲痛な叫びを上げた。しかし、忍人は顔色一つ変えない。
「無論、無駄に命を落とすつもりはありません。生きて待ち人の元へ帰れ、その為に最大限の努力をせよ、と言うのが師君の教えです。ですが、万一の時はこの命に代えても姫をお守り致します」
「嫌です、そんなの!」
千尋は涙を浮かべて叫んだ。その声に、風早達が駆けつける。
「私は、そんな風に守って欲しくありません。私の為に誰かが死ぬなんて嫌なんです。中でも、忍人さんに死んで欲しくないんです」
困惑する忍人に向って、千尋は泣きながら言葉をぶつける。
「忍人さんは、私が姫だから守ってくれるんですか!?あの時も、だから自分の身を犠牲にして助けてくれたんですか!?忍人さんにとって、私は姫でしかないんですか!?名前で呼んでくれたのは、私が頼んだから、姫に言われたからなんですか!?」
「無理言わないでくださいよ、千尋。そんなこと、今の忍人に答えられる訳がないでしょう。それに、今の忍人の答えが本当にあの忍人と同じだとは限りません」
風早が千尋を宥めようと駆け寄ったその目の前で、忍人が胸を抑えて呻いた。
「忍人、どうしたんですか!?」
慌てて柊がその身体を支えると、忍人は苦しそうに呟く。
「胸が…痛い。苦しい…。頭が…重い。身体が…熱い。これは一体…?」
そして顔を上げると、熱を帯びた瞳で千尋をジッと見つめ、真剣な顔で甘やかな声音で訴える。
「泣かないでくれ、千尋。君に泣かれると、俺はどうしていいのか解らなくなる」
「えっ?」
千尋達は異口同音に驚きの声を上げた。
千尋の名前を呼び、ぞんざいな言葉遣いで話す忍人に、千尋達は彼の記憶が戻ったことを知る。
「千尋……教えてくれないか?どうすれば君の涙を止めることが出来るのか」
「えぇっと、それじゃ……キスしてください」
「どさくさに紛れて、何言ってんですか、千尋?」
風早が聞きとがめたが、言われた忍人の方はキョトンとしていた。
「キス…とは?」
「こうするんです」
言葉が伝わらなかった千尋は、思い切って忍人の頬に手を伸ばした。そして、ぎこちなく口付ける。
驚いて目を見開いたままの忍人を、柊が呆れたように嗜めた。
「何を呆けてるんですか。こういう時は、目を瞑るものですよ」
言われて、忍人はチラっと柊の方を見遣ってから目を閉じた。すると、今度は風早が寄って来て、テキパキと2人の体勢を立て直す。
「右手はここ、左手はこっちです。しっかり千尋を支えて……これで良し。俺達は向こうを向いてますから、ちゃんと千尋を泣き止ませてくださいね」
そんな風早の動向に虚を突かれ、千尋の涙は殆ど止まってしまった。それでも、改めて目を合わせた2人はどちらからともなく静かに唇を寄せ合ったのだった。

「覚えてない?記憶を失っていた間のことをですか?」
「それなら覚えてなくて当然ですよ。私が言っているのは、あの夜のことです」
記憶が戻った忍人は、記憶喪失になって居た時のことは勿論のこと、元に戻った直後のことも覚えていなかった。
「つまり、その…」
「今の忍人は、我が君の泣き止ませ方を覚えていないんです」
翌朝、目を覚ました忍人は、堅庭から落下した状態からの目覚めだとばかり思っていた。道臣から説明を受けても、実感は湧かなかったらしい。それでも一応納得して、何もなかったかのように振舞っている。
「我が君の泣き顔を見て記憶が戻るほどの熱情を示し、その唇を賜りながら、それを全く覚えていないとは何たることでしょう」
「どこまで世話を焼かせるんですか、あの2人は…」
これで何れまた一悶着あるに違いないと風早は天を仰いだのだった。

「ところで、君は一体、あんなところで何をしていたんだ?」
「実は、大事なものが風で飛ばされちゃって…」
危険な真似をしていた理由を聞かれて、千尋は忍人と一緒に堅庭の舳へと向かった。しかし、そこには既に千尋の探し物は影も形もなかった。
「やっぱりありませんね。あの後、また飛ばされちゃったのかなぁ」
千尋が肩を落としていると、下から上がって来た那岐がポケットから何かを取り出した。
「ほら、千尋。落とし物だよ。ドタバタしてて、渡すのすっかり忘れてた」
「えぇっ、那岐が拾ってくれてたの!?」
それは夏祭りで忍人と一緒に食べたお菓子の包みだった。2人が落下して来た時に一緒に落ちて来たそれは那岐の目にはただの布屑たっだが、何度か千尋が取り出して愛おしそうに見ていたのを覚えていたので拾い上げておいたのだ。
「ありがとう、那岐!」
「まったく、そんなものの為に下手すりゃ葛城将軍が命を落とすトコだったなんてさ、ホント笑えないよね。それよりもっと、本人の方を大事にしなよ。千尋が大人しくしてれば、それだけこいつの苦労も減るんだからさ」
「言われなくても解ってるもん」
拗ねたように那岐に言い捨てると、千尋は忍人を連れてその場を離れ、辺りに誰も居ないのを確かめてからあの夜の問いを繰り返した。
すると忍人は少し考え込んでからこう答える。
「俺が君を守るのは……そうせずには居られないからだ。理屈ではなく、勝手に身体が動いてしまう。俺にとって君は、二ノ姫であると同時に千尋だな。名前で呼ぶのは、そうしたいと思ったからだ」
そう答えてから、忍人は何やら胸のつかえが取れたような気がした。言葉にしたことで、心を覆っていた霧が晴れて行くのを感じる。
ああ、そうか。ずっと引っ掛かっていたのはこれだったのか。
そう納得して、忍人は妙にすっきりとした気分で千尋に向って微笑んだのだった。

-了-

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