心の霧に惑う

-前編-

出雲を出立してから、忍人はすっきりしない気分を抱えていた。
理由はいろいろあった。得体の知れない力で多くの兵が屠られたこと、成り行きとは言え常世の者達も乗り込んでいること、千尋が髪を切ったことなど、大きな変化があったのは確かだ。
しかし、それとは違う、何か釈然としない心の痛みのようなものがあった。
おかげで鍛錬にも身が入らない。いつもなら集中出来るのに、心に掛かる霧のようなものが晴れない。こんなことは初めてだった。このままでは戦場でも腑抜けてしまいそうで危険だ。一瞬の心の乱れが命取りとなることもある。
次に天鳥船が落下する前に何とかしなくてはと焦る気持ちを抱えたまま、忍人はいつものように船内の見回りに出たのだった。

堅庭へと出た忍人は、その先端で上空に向かって手を伸ばす少女の姿を見つけた。
良く見れば、外に張り出した木の枝の先に掴まって、反対の手をさらに奥へと伸ばしている。
「何をしている!?」
慌てて駆け寄ると、その声に驚いたのか千尋は平衡を崩した。
「千尋!」
忍人は咄嗟に飛び付き、体を返すようにして自らの身を落下の緩衝材とした。

いつものように昼寝をしていた那岐は、上から聞こえた鋭い声と続いて落ちて来た影に驚いて目を覚ました。
すると、目の前に忍人と千尋が転がっている。
「何やってんだよ?」
呆れて声を掛けると、千尋はすぐに動き出したが、忍人は全く動かなかった。
那岐も手伝って、千尋を抱えていた忍人の腕を外したが、それでも目覚める様子はない。完全に気を失っているようだった。
那岐は、慌てて揺り動かそうとする千尋を押し止めると、サザキか誰かに忍人を上まで運んでくれるように頼みに走るよう促した。
しかし、那岐がしばらく待っていると、やって来たのは遠夜だった。
「そりゃ、手当の必要もあるだろうけどさ、その前に上へ運んだ方が良いんじゃないの?」
「でもサザキ達は、男は運びたくないって…。そうしたら遠夜が、自分だけで大丈夫だって言うから…」
そんな那岐と千尋の前で、遠夜はしばし忍人の容体を見た後、抱き上げて堅庭まで飛び上がった。

遠夜の見立てでは、忍人の怪我は大したことはないと言うことだった、千尋を抱えて背中から落ちたと言っても、途中の木々にぶつかったおかげか骨折などはしていないらしい。ただ、頭を打って気絶しているだけのようだと解って、千尋はホッと胸を撫で下ろした。
しかし、目覚めた忍人は、千尋のことを覚えていなかった。否、正確には今の千尋のことをだ。
「誰だ、君は…?」
目を覚まして、心配そうにその顔を覗き込む自分にそう言った忍人に、千尋は息を飲んだ。
「千尋のことが解らないんですか?」
「千尋…?風早がそう呼ぶのは……では、この方は二ノ姫でおいでか。それが何故、このように…?いや、待て…風早や二ノ姫は行方不明だったのでは…?」
「忍人、悪い冗談はやめて下さい。笑えませんし、あなたらしくありませんよ」
「柊……何故、お前がここに居るんだ?お前は、国を裏切ったはず…」
些かぼんやりした様子で問われ、風早も柊も愕然とした。そこで道臣が進み出る。
「忍人、私のことは解りますか?」
「道臣…。ここは、何処だ?見慣れぬ顔が多いようだが、何があったんだ?」
「あなたはもう少し休んでいた方が良いですよ。説明はそれからでも遅くはありません」
道臣の勧めに、まだ意識のはっきりしない忍人は素直に従った。それを見ながら、千尋は胸にチリッと痛みを感じていた。

次に目を覚ました時も、忍人は元通りにはなって居なかった。
道臣はいろいろ話をした結果、国見砦に来る少し前からの記憶が抜け落ちていると判断し、それを皆に伝えた。と同時に、忍人にも簡単にではあるが、抜けている期間の出来事や今の状況を説明する。幸い、忍人は道臣には格段の信頼を寄せていたので、とりあえずは納得したようだった。
忍人は、最初こそ日向の者や常世の者が居ることには戸惑ったようだったが、それも徐々に慣れて行った。遠夜の声が聞こえないことも、そういうものかと、あるがままに受け入れたらしい。彼が土蜘蛛だと解っても、常世の者達への対応同様、憎しみを棚上げしたようだ。柊については再会した頃のように全身で警戒を露わにしていたが、それも珍しい光景ではないので誰も不審に思わない。
表立って大きな異常がないおかげで、兵達には忍人の異変は知られずに済んだ。
しかし、千尋に対する態度だけは劇的に変化していた。
「二ノ姫、何をされておいでか?」
これまでなら「何をやっているんだ、君は?」と言われるところを、声音は同じかそれより冷やかに言葉遣いだけは丁寧に接して来る。出会った当初よりも距離を感じる。他の人達に対する態度があまり変わらないだけに、余計にその開きが千尋には悲しかった。

「我が君の為にも、忍人には一刻も早く元に戻ってもらわなくてはなりませんね」
「そうですね。これ以上、千尋の悲しむ顔は見たくありません」
柊と風早は、忍人を元に戻すための行動を開始した。とりあえずお約束とばかりに遁甲して背後を取って頭を殴りつけてみたが、やはりそう上手くはいかない。そこで2人は、改めて計画を立て直した。
幸い、忍人自身もやはりこのままで良いとは思っていないようで、記憶を取り戻すことには協力的だった。しかし、何をしても戻る気配がない。
「その頃のことで、何か忘れたい要因があったのでしょうか?」
「そのタイミングで忘れたくなることと言うと……千尋の水浴び姿を見てしまったことですか?」
「それを忘れてどうするんですか!?」
今更忘れたところでどうにもならない。いや、そもそも見られた千尋は良く覚えているだろうが、忍人の方はとっくの昔に綺麗さっぱり忘れていたかも知れない。
「はは…、そのことで俺に強かにお仕置きされたから、忘れてしまいたいと思ってたのかと…」
「その辺りのことは、道臣に探ってもらうことに致しましょう」

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