罪と罰
-後編-
「千尋、居るか!?」
      ここへ来る間に上着だけ引っ掛け、何度か転んであちこちに打ち身や擦り傷を作りながら、忍人は千尋の部屋に駆け込んだ。
      普段ならば苦にもならないのだが、今の忍人にはここまでの道程はかなり長く感じられた。肩で息をしながら、部屋の中に千尋の姿を見つけて安堵する。
「千尋…良かった、部屋に居たんだな」
      ペタペタと中に入って来た忍人は、足を縺れさせてまた転倒した。
      「あ~あ、葛城将軍が碌に受け身も取れずに転けるなんて……こりゃ、かなりのもんだね」
      見ていた那岐が呆れたように零す。
      忍人は、立ち上がるのが辛いのかもどかしいのか、這うように千尋の元までやって来ると、焦った顔で尋ねた。
      「君が柊に、俺の看病を命じたと言うのは本当なのか?」
      「はい、本当です。しっかりお世話されて下さい」
      即答されて、忍人は千尋の足元にペタンと座り込んで持っていたものを胸にギュッと抱え込んだ。その状態で、言葉を失った表情で千尋を仰ぎ見る。
      「千尋!幾ら腹に据えかねたからって、やりすぎですよ。一体、何の拷問ですか!?そんなの忍人が可哀そう過ぎます」
      「じゃあ風早は、あんなことされた私は可哀そうじゃないって言うの?」
      忍人を庇う風早に、千尋はふくれっ面をした。
      「あんなことって、何?」
      「えぇっと、それはですね…」
      事情を知らない那岐にどう説明したものかと言葉を探している風早の目の前で、忍人は千尋に向って床に両手を付いた。
      「すまない、千尋。水浴びのことも、先ほどの胸のことも俺が悪かった。故意にではなかったとは言え、君の気分を害したことは謝る。この通りだ。他の罰ならどんなものでも受ける。だから……柊の世話を受けることだけは勘弁して欲しい!」
      何故千尋がこんなに怒っているのかは説明してもらわないと理解出来そうにないが、とにかく自分の行いに千尋が怒り狂っていることだけは解る。それに、この際、形振り構ってはいられない。それが王命である限り、忍人は兵達に命じて柊を部屋へ出入り禁止にすることも出来ないのだ。
      「ねぇ、千尋…こんなに謝ってるんですから、もう許してあげませんか?水浴びのことなら俺がすぐにキッチリお仕置きしておきましたし、胸のことだって……忍人が元気になってもまだどうしても怒りが収まらなかったら、俺が改めて足腰立たないくらいボコボコにしてあげますから……せめて、そのくらいで手を打ちましょうよ」
      「ああ、そうしてくれても構わない。とにかく、今、柊を近くに置くことだけは…」
必死に頭を下げる忍人に、しかし千尋は首を縦には振らない。
      「一体、何があったんだよ?水浴びとか、胸って何?」
    話題に置いてけぼりの那岐に、風早は仕方なく正直にただ事実を伝えたのだった。
 「それで千尋が怒り狂って、柊を送り込んだってこと?そりゃ、確かにやりすぎだね」
      那岐は呆れたように千尋を見る。
      「どっちも事故だったんだろ?無防備に水浴びなんかしてた千尋の自業自得だよ。胸のことだって弾みじゃないか」
      「見られたり触られたりしたから怒ってるんじゃないもん。見ても動じない、触っても気付かないなんて……そんなに私って魅力ないの?」
      「下手に騒がれるよりマシだろ。この鈍感の朴念仁相手に、普通の反応なんて期待するだけ無駄だって…。それに、そんな重ね着してたら何処触ったかなんて解る訳ないだろ」
      「那岐の意地悪。どうせ私は、何処触ったかなんて解らないくらい寸胴ですよ~だ」
      「そんなことはない。ちゃんと凹凸は……いや、何でもない」
      自虐的な千尋の言葉に何やら反論しかけて、忍人は慌てて口を噤む。
      「そうそう、余計なことは言わない方が良いですよ、忍人。これ以上千尋を怒らせたらどうなるか…恐ろしくて想像も出来ませんからね」
      風早が忠告する中、忍人は上げかけた頭を再び下げる。
      「謝って済むことではないだろうが……本当に申し訳ないことをした。それ程深く君を傷つけていたとは、気付かなかったんだ。その件については、何れ回復してから改めてきちんと償いをさせて欲しい」
      先程とは違って本当に反省しているらしい真摯な言葉に少し千尋の心が動いたその時、柊が飛び込んで来た。
      「逃がしませんよ、忍人。さぁ、我が君のご命令通り、大人しく部屋へ戻って私に看病されなさい」
      「わわわっ…千尋、頼む。柊への命令を取り消してくれ!」
      柊に連行されそうになった忍人は、必死に千尋に向かって手を伸ばす。
      「他の罰なら何でも受ける。出来ることなら何でもする。君の言うことは何でも聞くから…」
      「見苦しいですよ、忍人。まったく、往生際の悪い子ですね。いい加減に観念なさい」
    「待って、柊」
    千尋は柊を制止すると、ニッタリと笑った。
    「忍人さん…本当に何でも言うこと聞いてくれるんですね?」
    忍人は首振り人形のようにコクコクコクコクと頷いた。
    「わ~、メチャクチャ切羽詰まってるって感じだねぇ」
    「そりゃ、忍人にとっては死活問題でしょうからねぇ」
首振り人形と化した忍人を見て那岐が漏らした感想に、風早も激しく同意した。
そんな2人に構わず、千尋はしてやったりと言った顔で忍人に宣告する。
「だったら、完治するまで大人しく私に看病されてくれますね?」
最初からそれが狙いだったのではないか、と思った忍人と風早と那岐だったが、誰も文句など言えはしなかったのだった。
柊の魔手から逃れ、千尋の要望によって前の間に運び込まれた寝台で手厚く看病された忍人は、あの騒動で再び上がった熱も翌々日の朝にはすっかり下がっていた。
      「はい、忍人さん、あ~ん」
      「匙も椀も、自分で持てるのだがな…」
      何でも言うことを聞くと言ってしまった手前、逆らう訳にもいかずに忍人は大人しく口を開ける。
      「あ~、楽しい~。こんなこと出来るのって、今だけだよね~。う~ん、残念。でも、忍人さんが元気な方が嬉しいから、我慢しなくっちゃいけないよね~」
      心底楽しそうに忍人の世話を焼いていた千尋は、今日はさすがに執務に向かった。
      代わりに風早が忍人の看病にあたっていたが、特にやるべきことは何もない。念の為にもう一日大人しく寝ているようにと言う千尋の言い付けを、忍人はきちんと守っていた。何しろ、ここで言い付けを破ろうものなら、今度こそ本当に柊の世話になる羽目になりかねない。気力も体力も低下している時に柊が傍に居て何かと手出しして来るなど、その不快感にはとても堪えられそうにないし、看病にかこつけて何をされるか想像すらしたくない。
      「まさか千尋が、あそこまで恐ろしい真似をするとは思わなかった」
    思い出すだけでも身が凍りそうだと言った顔でそう零す忍人に、風早は苦笑しながら告げた。
    「そのことなんですけど……あなたがあんな格好で泡喰って千尋の部屋まで駆けて来たりするものですから、妙な噂が立ってしまったんですよ」
    「妙な噂…?」
    「ええ、柊に不埒な真似をされそうになった葛城将軍がほうほうの体で陛下に泣きついて難を逃れた、って…。何でも、あなたの悲鳴を聞いて近くに居た者が部屋を覗き込んだ時、柊は寝台に頭突っ込んでたらしくて……しかも、あなたは熱の所為で頬が上気して目元も潤んで何度も転んでボロボロになっていたでしょう。それらが組み合わさって、そんな噂になったみたいです。勿論、本気にしている者は居ませんけど……”不埒な真似”以外が全て事実なのが反って怖いですよね」
    忍人は真っ赤になった。あの時は夢中だったが、確かにとんでもない醜態を晒してしまった。外に居た見張りの者達には、忍人が千尋に必死になって柊を止めてくれるよう頼んでいたのが聞こえていたことだろう。あの時外に居たのが、気心の知れている中でも口の堅い者達で良かったと、忍人は今更ながらに安堵の息を漏らす。
    「それから千尋は、あなたの申し出通り、回復したら存分に償ってもらうつもりで居ますから、覚悟しておいてください。当分、千尋に頭が上がりませんよ」
    「……肝に銘じておく」
千尋を本気で怒らせたらどんなに恐ろしいことになるかが身に染みた忍人は、風早の忠告に素直に従うことにしたのだった。    
-了-
《あとがき》
千尋を本気で怒らせると怖いことになると言うお話(^_^;)
    忍人さんの元には柊を送り込んだ千尋でしたが、風早や柊に怒り狂った場合は多分口きかないし顔も見せない、那岐にはお昼寝禁止だと考えています。
    サザキには三食『土筆の玉子とじ』で、アシュヴィンには天岩戸。
    かなりの威力の鉄拳を持ってるとは言え腕力では敵わないので、全て精神攻撃です。
    布都彦や遠夜は、そもそも千尋をそこまで怒らせはしないでしょう。
尚、この時点での2人は婚約中で忍人さんと千尋の部屋はかなり離れている設定です。
    獣並みの速さで走れる忍人さんと人並みの柊では足の速さが違い過ぎるので、追いつかれるまでには結構時間の余裕があります(^_^;)


