緋の傷跡
-前編-
婚儀から一夜が明けて、忍人はいつもよりも遅い時間にゆっくりと寝台の上に身を起こした。
    隣には、妻となった千尋が眠っている。忍人は彼女を起こさないようにそっと抜け出すと、手早く身支度を整えて続き部屋となっている前の間へと出て行った。
「ああ、忍人、おはようございます」
    前の間には、風早が控えている。例え千尋が他の男と結婚しようが、こうして朝から部屋にやって来て何くれと千尋の世話を焼くのはやめる気がないらしい。今更とやかく言っても仕方がないし、千尋は風早が居るのが当たり前だと思っているようなので、忍人も黙認することにした。それに、采女に恭しく給仕されるよりも、気心の知れた兄弟子に茶を振舞われる方が気が楽だ。
    卓子に付くと、風早は自作の忍人用の湯呑にお茶を煎れてくれた。千尋とお揃いの結婚祝いだというそれは、簡単には握りつぶせないように丈夫に作った自信作だそうだ。
    「あなたにしては、随分と遅いお目覚めでしたね」
    「ああ、昨日はいろいろあったし、早起きしてもやることがないからな。何しろ、3日は休暇を取らされる」
    平時においては、女王もその伴侶も婚儀から最低3日間は仕事を休み、外出を慎むのが慣習だった。表向きは互いを知るためだの何だのといろいろ理屈を並べ立てているが、平たく言えば、部屋に篭ってとっとと世継ぎを作れという意味である。
    「余計なお世話だとしか思えないのだが、努めて波風を立てることもないだろう。せいぜい、大人しくしていることにする」
    鍛錬や兵達の訓練に行きたくて堪らない忍人だったが、千尋を残して部屋を出ることは許されない。それに、千尋はゆっくりと休ませてやりたい。
忍人が、いつ起きて来てもいいようにと用意されていた朝餉に手を伸ばして程なく、柊が勝手に入って来た。
      「おや、忍人。こんな時分に朝餉とは珍しいですね」
    「お前こそ、こんな時間から起きているとは珍しいこともあるものだ。いや、それよりも…勝手に入って来るな」
    「いいではありませんか、私とあなた方の仲ですし…我が君はいつ参っても歓迎してくださいますよ」
    確かに千尋は柊が勝手に入って来ても文句など言わないだろう。しかし、だからと言ってそう簡単に入って来られても困る。少なくともこれからここで千尋と寝食を共にする忍人は、絶対に柊に勝手に入って来て欲しくはない。今後はこんなことが無いように、見張りの兵達にしっかりと指示しておかなくては、と思う忍人であった。
勝手に入ってきた挙句、これまた勝手に忍人の隣に座って、何故か常備されていた専用の湯呑で茶を啜る柊の姿を忌々し気に横目で見ながら、忍人は食事を終えた。
    「それで、一体、何をしに来たんだ?」
    すっかりくつろいでいる柊に、忍人は問うた。その目は、用があるならさっさと済ませてとっとと出て行け、と語っている。
    「大した用ではありませんよ。あなたが退屈しているだろうと思って、遊びに来て差し上げたんです」
    「お前と顔を就き合せているくらいなら、暇を持て余していた方が遙かに良い」
    そもそも、柊が来なくてもここには風早が居るのだから、話し相手には困らない。盤上遊戯の相手にしても、柊よりも風早の方が楽しめる。何しろ、柊が相手では決して勝つことが出来ないのだ。悔しいが、忍人もそれだけは認めざるを得ない。
    すると、プイッとそっぽを向いた忍人の陰で、風早と柊が何やら目で合図を送り合った。そして風早が徐に忍人に声を掛ける。
    「そうだ、忍人。千尋のことなんですけどね…」
    忍人が風早の方へと注意を向けた瞬間、横から柊の手が忍人の背中に伸びた。忍人は避けようとしたが、僅かに反応が遅れ、柊の手が背中に触れる。
    「忍人は、この手には何度でも引っかかるんですね」
    フェイントに引っかかった忍人に、風早は感心したように言った。
    そして、背後を突かれたというに留まらぬ様子で身を強張らせた忍人を見て、柊は風早に告げる。
    「どうやら、思ったよりも重傷のようですよ。僅かですが、普段に比べて動きにブレもありました」
    「解りました。忍人、服を脱いでください」
    「はぁ?」
    何が重傷で、しかも服を脱げと言われなくてはいけないのか、と忍人が困惑していると、トコトコと正面に回り込んだ風早が目の座った笑顔を浮かべて言った。
    「手当てしてあげますから……四の五の言わずにさっさと脱いで、背中を見せなさい」
    こういう笑顔を浮かべて、常とは違う命令口調の風早には逆らってはいけない。それをよく知ってる忍人は、訳が解らないまま素直に服に手を掛けたのだった。


