葛藤
-前編-
夜風にあたろうと天鳥船から降りた千尋は、小さな光を見つけて追いかけた。そして、当然のごとく忍人に見つかる。
		  「千尋、また君は供もつけずに…。しかも、こんな時間に何をしている?」
		  夏祭りでの願い通りに名前を呼んでくれた忍人に、千尋は笑み崩れそうになったが、慌てて踏み止まって訳を話した。すると、忍人は意外なことを呟いた。
		  「蛍か…。そう言えば、この辺りには群生地があったな」
		  「そうなんですか!?そこ行きたいです!」
		  忍人が失言に気付いた時は、手遅れだった。千尋の心は蛍が群れ飛ぶ光景への憧れに支配されている。
		  「忍人さんが一緒なら、危険なことなんてありませんよね?だから、連れて行ってください」
		  そんな風に強請られて、忍人はつい承諾してしまったのだった。
蛍の群れ飛ぶ光景を目にして、千尋は本当に嬉しそうにそれを見つめた。
      「綺麗ですね~」
      「そうだな。だが、俺の目には…」
      そこで忍人は慌てて口を噤んだ。
      俺は今、何を言いかけた?
      自分の口をついて出そうになった言葉に、忍人は動揺する。
      嬉しそうに蛍を見る千尋と、その姿に見とれていた自分。そして今、自分は千尋に「君の方が綺麗だ」と言いそうになったのか。
      「どうかしました?」
      「いや、何でもない」
      忍人は冷静さを取り戻そうと千尋から目を逸らし、何度か静かに呼吸した。そして、嫌な気配を感じる。荒魂、しかも複数だ。普段の忍人ならばもっと早く気付いたのだろうが、千尋に見とれている間にかなり近くまで寄られてしまった。
      「千尋、天鳥船に戻るぞ」
      「えぇっ、もう帰るんですか?」
      驚いたものの、忍人の声の変化に何かを感じ取った千尋は大人しく戻ろうとした。しかし、忍人は突然千尋を抱え上げて走り出す。
      「えっ、ちょっと…忍人さん?」
      幼い頃に風早に抱き上げられた時のように、寧ろそれより高い位置に、膝が肩に乗りそうな形で抱き上げられて千尋は戸惑いを隠せなかった。しかし、忍人は構わずに言い放つ。
      「弓を構えろ。敵が見えたら射て」
      「こ、こんな体勢じゃ、狙いも威力も…」
      「まともに当たらなくても構わない。追いつかれなければ、それで良いんだ」
    「…解りました」
天鳥船の中でくつろいでいた風早が、何かに弾かれたように立ち上がって外を見た。
      「千尋…?」
      「おや、我が君がどうかされましたか?」
      「今、天鹿児弓の…千尋の弓声が聞こえた気がするんです」
    そう言うなり、風早は外へ飛び出す。一緒にお茶を飲んでいた柊も、すぐさま後に続いた。
何度か千尋の威嚇射撃に助けられ、忍人は追いつかれることなく森を抜けた。船の姿が見えるところまで来ると、前方から風早と柊が駆けて来る。
      兄弟子達と合流した忍人は、千尋を降ろすと彼らと一緒に荒魂を迎撃した。
      浄化を終えると、千尋は緊張が解けた所為かよろめいて風早に抱き留められる。咄嗟に駆け寄ろうとした忍人だったが、その前に柊に呼び止められた。振り返ると、その頬に平手が飛ぶ。
      忍人を張り倒した柊は、容赦なく叱責を浴びせた。
      「あなたが付いていながら、我が君を危ない目に合わせるとは何事ですか。そもそも、このような時間に二人だけで船を離れるなど言語道断です。自分が付いていれば、問題ないとでも思っていたのですか。それを慢心と言うのです。その驕りがこの様な事態を招いたのですよ。挙句にこの様とは、何と不甲斐無いことでしょう。万一のことがあったら、あなたは責任が取れるのですか」
      忍人は一言も返せなかった。


