鷽の混迷

森の奥、一人で鍛錬に打ち込んでいた忍人は、手を止め刀を収めて小休止に入るなり、近くの木を拳で殴った。
「……っ…!」
「おや、おや、随分と荒れているようですね」
反対の木陰から柊が姿を見せ、剣呑な目付きで睨み付ける忍人に言う。
「私の前では幾らそのような態度をとられても構いませんが、部下達にまで気取られるようではまだまだ修行が足りませんね。帰った早々、あちこちで噂を耳にしましたよ。最近、葛城将軍がやけに苛立っている、と…。陛下と喧嘩でもされたのだろう、との説と、陛下がまた何やら突拍子もないことを仕出かされたのだろう、との説が実しやかに囁かれておりました」
「……バカな話だ。喧嘩ごときで、ここまで思い悩むか」
忍人からそう吐き捨てられて、柊は腹立ちと呆れの綯交ぜになったような怪しい目つきになった。
「ほぉ、言いましたね。では、あなたは姫と喧嘩をしても思い悩んだりはしない、と…?」
「そうは言っていない。ただ、ここまで思い悩むくらいなら、こちらから謝り倒して終わりにする」
「……成程」
それはそれで説得力のある回答だった。
風早や柊よりも意地っ張りだが、忍人も結局は千尋にそういつまでもへそを曲げられて耐えられるようには出来ていないのである。
「では、突拍子もないことを仕出かされたのですか?」
「まぁ、多少はそういうことにもなるが、それ事態は大した問題ではないんだ。問題は風早だな。先月の半ばに千尋から菓子を貰ったのだが、ここ数日、その礼をしろと急に圧力を掛けて来て……礼なら、貰った時にきちんと言ったのに……」
「ああ、もしかして、バレンタインデーに菓子を貰ったらホワイトデーには3倍返し、だとか言い出しました?」
「……よく解ったな。もしかして、異世界ではそれが主流なのか? 那岐も千尋もそうは言っていなかったのだが……」
風早がそんなことを言い出してすぐ、忍人は那岐の元へと行った。
忍人があちらの世界のことを知らないのを良いことに風早が独自の規定や解釈を押し付けることを学習して以来、忍人は知らない風習を聞いたらまず那岐に確認する習慣を身に付けたのである。
そこで”ほわいとでえ”なるものには諸説あることを聞き、ならばと相談にも乗ってもらおうとしたのだが、残念ながら那岐はそこまでは面倒を見てはくれなかった。

「とりあえず、風早のことは気にしないとして……何倍返しとか、定番の品とかもこの際どうでもいいよ。あんたがくれるもんなら、千尋は何でも喜ぶんだからさ」

そのことは間違ってはいないと思う。だが、具体的に忍人はどうすればいいのか、まるで回答になっていないとも言える。
仕方なく千尋に希望を訊いてみたのだが、こちらもまた「気にしないでください」とか「何でも良いです」などの言葉が返ってくる始末だ。
この行事に詳しそうな柊を前に、忍人は溜息交じりに言う。
「この際お前でも良いから相談に乗ってもらえないものか、とすら思えてくる」
「ええ、い…………嫌です」
忍人に頼られ、姫を喜ばせる為にも「ええ、良いですよ」と言いかけて、柊は急遽方向転換した。
「何ですか、その態度は…。お前”でも良い”? ”とすら”思えてくる? 冗談ではありません。そんな風に言われて、ほいほい相談になんて乗ってあげるものですか。師君に倣うなら、面ァ洗って出直して来な、ってんですよ!」
すると忍人は、無表情に柊の顔を暫し見つめた後、トコトコと木陰に消えた。不思議に思った柊が後を追って行くと、膝をついて泉で顔を洗っている。
「忍人……あのですね…」
軽い頭痛を覚えながら零す柊に、忍人は顔を洗い終えて向き直り、数歩寄り来ると改めて言った。
「お前に是非とも相談に乗ってもらいたい。よろしく頼む」
「……わかりました」
忍人のくせによくもそんな頓知の利いたような切り返しが出来たものだ、と感心するべきか、忍人だからこそ言葉通りにしか解釈出来なかったのだ、と呆れるべきか。
どちらにしても、本当に面を洗って出直して来られた挙句、えらく平坦な声音でとは言えこうも真っ向から頼まれると、これ以上は意地悪出来なくなってしまう柊なのだった。

-了-

《あとがき》

鶯の困惑」と対で書き上げた小話で、今度はホワイトデーを前にして、また忍人さんが思い悩んでいます。
でも、今度はちゃんと問題が解決されました。

タイトルも「鶯の困惑」と対にしました。
”鷽”は三月の季語です。そして、その音は”嘘”に繋がり、最後は柊の方が混迷しています。

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