時は失くしても


どれほど離れていようとも、千尋に何かあれば風早にはすぐに解る。そして、突然弾かれたように風早が駆け出したなら、柊も迷わず後を追うだけだ。
二人が行き着いた先は橿原宮の書庫の奥だった。その床には棚から落ちたと見られる竹簡が山となって盛り上がっている。
「千尋! 大丈夫ですか、怪我は…!?」
竹簡の山から千尋を発掘し、具合を確かめた風早は、特に外傷は見当たらない様子に安堵した。程なく、千尋は目を覚ます。
「……風早…?」
「良かった、千尋。何処か痛むところはありませんか?」
「ん……足、捻ったみたい」
立ち上がりかけて、千尋は顔を顰める。それから辺りを見回し、風早を見て不思議そうに言った。
「ここ、何処? 風早、どうしてそんな格好……って、あれ、何これ、私まで何のコスプレ?」

朦朧とした状態で一時的に記憶が混乱しているだけかと期待された千尋だったが、意識がはっきりしても元には戻らなかった。
「記憶喪失、ですか…」
風早は、深く嘆息する。
それでは遠夜にも治せない。神子に忘れられてしまったばかりか、何も出来ないと解って、遠夜は泣きそうになった。それでも、すぐに打ち解けてもらえただけ、まだ良かっただろう。
問題は、忍人である。
「また勝手に一人で出歩いた上に、怪我をして倒れていただと!? 何をやっているんだ、君は…。発見したのが風早だったから良かったものの、一つ間違えれば攫われたり命を落としていたかも知れないんだぞ」
忍人は寝室へ駆け込んで来るなり、いつもの調子でそう怒鳴った。その結果、千尋からは怖い人だと認識されてしまう。
「忍人…千尋を怯えさせないでください。柊から、聞いてないんですか?」
「何をだ? 奴の話によると、千尋が怪我をして倒れていたのを風早が見つけた、とのことだったが…」
女王の異変を知る者は少ない方が良いと思って柊を行かせたのが間違いだったと、風早も今更ながらに思う。
ただでさえ忍人は柊の言うことなど話半分以下にしか聞かない。柊のことだからそのくらい解っていてちゃんと前置きなどしているはずだが、そんなものは碌に聞いてやしなかったのだろう。それでいて千尋が怪我をしたという話には過敏に反応し、皆まで聞かずに駆けて来て、その挙句がこの始末だ。
「後で、俺から改めて説明します。とりあえず、千尋の為にも、今は出ていてもらえますか?」
忍人は訳が解らなかったが、千尋が怯えているのは目に見えて明らかだったので、渋々とだが前の間に引き上げる。
そして風早の口から改めてきちんと説明を受けた忍人は、事態を正しく理解すると同時に愕然としたのだった。

ただでさえ自分を取り巻く環境に混乱している千尋をこれ以上刺激しないように、忍人はひとまず千尋の部屋を出て隣室へと移る。同様に、息子の忍継もしばらくは千尋と顔を合わせぬようにと千尋がかつて半ば隔離されていた隠宮で暮らすこととなった。例え事実でも、千尋の感覚では出会ったばかりの怖い人と実は結婚していてしかも間に子供までいるなど、いくら何でも受け止めきれないだろう。理解の範疇から掛け離れすぎている。今は、こちらの生活に慣れるだけで手一杯のはずだ。
こちらの世界に戻った当初のように、千尋はかなりの適応力を発揮して、水道も電気もガスもない今の生活に順応していった。それでも、いきなり女王など務まるはずもない。
柊は机仕事ならどうとでも補佐出来るが、表舞台には出られない。そこで狭井君にも事情を話して、協力を取り付ける。
相手が何を言っているのか解らない千尋は、朝議は聞き役に徹し、謁見は全ての案件を一旦預かりとして、後で狭井君や柊と協議してから返答した。護衛としてその場に身を置いていた忍人も、朝議や謁見で見聞きしたことを淡々と柊に語る。
「では、そのように計らいましょう」
狭井君と柊、適任と思われる方がそうして上手く取り計らってくれることに助けられて、どうにか千尋は女王としての日々を過ごして行ったのだった。

一方で、風早達はどうしたら千尋の記憶を呼び戻せるだろうかと頭を悩ませる。
頭を打って記憶喪失になったなら再び頭を打てば、などと言われているが、千尋の頭を殴るなんてことが風早達に出来る訳がない。そうこうしていたら、千尋は自ら近くの頑丈そうな柱に頭突きを喰らわせた。その突然すぎる行動は、風早達に止める隙など与えなかった。
直後、風早は半泣き状態で千尋に取り縋り、柊は尚も身動き適わぬままただ呆然と言葉を漏らす。
「さすがは我が君。何とも思い切りのよろしいことで…」
しかし結果は千尋が大きなたんこぶを作っただけで、それで記憶が戻ることはなかった。
ならばと思って、「何か大きなショックを与えれば」と激辛料理を作ったり、逆に「こちらで知った美味しいものを食べたら」とカリガネ直伝のお菓子などを作って食べさせてみたのだが、まるで効果はなかった。
忍人との思い出の場所へ連れて行くことも考えたのだが、今は桜の季節ではない。
「何かこう、記憶を呼び覚まされるようなきっかけになるものって、他にないでしょうかねぇ」
風早はそう零すも、事態は一向に変わらないのであった。

記憶があろうとなかろうと執務中に勝手に抜け出す癖は変わらないのか、風早がちょっと目を離した隙に千尋の姿が執務室から忽然と消えた。たまたま柊も席を外していたのが拙かった。まさか、右も左も解らないような中で単独行動するなどとは思いも寄らなかったのだが、後悔や反省は後でも出来る。危険は迫っていないようだが、一刻も早く連れ戻さなくてはと風早は焦りを隠して千尋を探しに行った。
そして、見つけ出した千尋は葦野原で大粒の涙を零していた。
「どうしたんですか、千尋?」
「ん……忍人さんって、子供居たんだね」

窮屈な空気に耐えきれずに、千尋は執務室を抜け出した。ちょっと気分展開してすぐに戻るつもりだったのだが、いざ戻ろうとすると帰り道が解らない。しかし、「絶対に俺達以外には記憶のことは言わないでくださいね」と風早に何度も念押しされていたし、「決して一人で出歩くな。君が単身で居ると見れば良からぬことを考える連中は五万といるんだ」と耳にタコが出来そうなほど忍人から説教を喰らっていたこともあって、千尋は通りすがりの人に道を聞くことはおろか見つからないように必死にかくれんぼを続ける。
そうしてまるで違う方向に進んでしまい、行き着いた先は内宮の一画だった。そこは何やら見覚えのあるところだったが、何処なのかまでは解らない。ただ、あまり良い気持ちのするところではなかった。そこで千尋は、忍継の姿を見たのだった。
「こんなところに小さな子供が…?」
不思議そうに眺めていると、ふとした折にその顔が忍人と重なる。まさか、と思った矢先、折悪しく忍人がやって来た。
「父上!」
そう子供が嬉しそうに呼び掛けて駆け寄るのが解った。その後は何を話しているのか聞こえては来なかったが、忍人が愛おしそうに子供の頭を撫でているのが目に入る。
「大丈夫です! 母上がお元気なられるまで、私はちゃんとここに隠れていられます」
子供が力強くそう言うのが聞こえた途端、胸が張り裂けそうな想いで千尋はその場を逃げ出した。忍人が「千尋っ!!」と呼ばわる声はまったく耳には届かなかったのであった。

「あはは……私ってば莫迦みたい。怖い人だって敬遠してたくせに、いつの間にか勝手に熱上げてて……忍人さんのこと何にも知らないで…。まさか妻子持ちだったなんて、考えもしなかったよ」
間違ってはいないが、その妻であり子の母親は千尋自身なのである。しかし、その記憶の無い千尋は大失恋のショックに打ちひしがれた。
「泣かないで、千尋……泣くことはないんです。それに、千尋は莫迦でも何でもありませんよ。記憶を失っても、大事なことはちゃんと解っている」
訳が解らないと言った顔の千尋に、風早が事実を告げようとしたその時、忍人が駆けて来た。
「千尋っ、やっと見つけた!」
再び逃げ出そうとした千尋を風早が引き止めると、忍人がその腕から千尋を奪い取る。
「離してください! 女王相手にこんな真似、忍人さんらしくありません」
「主君にならしない。だが、君になら…。もうこれ以上、例え風早であろうとも、泣いている君を他人になど任せてはおけない」
そう言って更に強く抱き締められて、千尋は嬉しい反面で怒りも湧いてくる。
「思わせぶりなこと言わないでください! 奥さんも子供もいるくせに…」
「やはり、そうか。君は俺と忍継を見たのだな。ああ、確かに忍継は俺の息子だ。だが、その母親は…」
「やめてっ! 聞きたくない」
千尋は必死に耳を塞ごうとしたが、忍人の腕がそれを許さない。
「いいから、聞けっ!! 忍継の母親は君だ、千尋。あれは、俺と君の子なんだ!」
「…………はぃ? 今、何て…?」
あまりにも信じ難い台詞に、千尋は頭が真っ白になった。
「だから……忍継の母親は君だ。あの子は俺と君の子供だ。君は俺を婿に迎え、忍継を産んだんだ」
「……って、えぇ~っ!! 私…私ってば、いつの間に結婚して……その上、子供まで…。しかも、忍人さんが私のお婿さん~っ!?」
あまりのことに頭がパンクしたのか嬉しさに興奮し過ぎたのか、千尋はクラクラと眩暈を起こして卒倒した。

「千尋……大丈夫ですか?」
目を覚ましたもののまだぼんやりしていた千尋は、心配そうに覗き込む風早に不思議そうに言う。
「……ここ、何処?」
まさか再び記憶喪失かと辺りはざわめいた。
「千尋…いつの間にか忍人と結婚して子供まで居たのが、そんなにショックだったんですか?」
「はぁ、何言ってんの、風早? いつの間にも何も、ちゃんと段階踏んで忍人さんを婿取りして、そこから更に段階踏んで忍継が生まれて来たんじゃないの。それでどうして、ショックなんか受けなきゃいけないのよ」
プンスカする千尋に、風早は泣き笑いした。
「良かった、千尋……記憶が戻ったんですね」
「へっ?」
「我が君は、記憶喪失になっておいでだったのです。ここ10年弱の御記憶を失くしておいででした」
「そ、そうだったんだ…」
それを聞けば、風早の奇妙な心配も泣いて喜ぶのも無理はないと思える千尋だった。そこへ、前の間からそっと声が掛かる。
「……千尋の記憶が戻ったなら、入っても良いか?」
見れば忍人がおずおずと寝室の中を窺っていた。あんな形で千尋が卒倒したので、またしても風早によって遠ざけられてしまったのである。入室を許可されると、忍人は速足で枕元に歩み寄った。
「具合はどうだ?」
「えぇっと……ちょっと状況に困惑してますけど、別に何処か痛いとかはないです」
「そうか…良かった」
忍人も腕の中で卒倒されたので気が気ではなかったのだ。目に見えて安堵した様子の忍人に、柊は微かに口元を緩める。
それから柊は、満を持したように口を開いた。
「では、御記憶が戻られたところで……何故に御一人で書庫の奥などに赴かれて、大量の竹簡の下敷きになどなられたのかをお伺いしてもよろしいでしょうか?」
柊は、この場に於いて他の誰よりも冷静だった。ずっと訊きたくて仕方のなかったことをズバリ訊く。
これには風早と忍人も、千尋に返答を促す視線を向けた。納得のいく説明を求めると言った顔だ。大した理由などなかった千尋は、返答に窮し、誤魔化すようにテヘッと笑って見せる。
「あぅっ……えぇっと……………………思い出せないや」
そんな千尋は、忍人のみならず風早からも延々と説教される羽目になったのだが、返す言葉はまるで浮かばなかったのであった。

-了-

《あとがき》

以前、旅中のお話「心の霧に惑う」で忍人さんの記憶喪失ネタを書きましたが、今度は大団円ED後のお話で千尋の記憶喪失ネタです。

夫も子もある身でありながら、そのことをすっかり忘れてしまった千尋。
幸い、周りのガードが堅いので、「一ノ宮は…」とか「ご夫君は…」とか話しかけられることはありませんが、隠し通すのは結構大変です。特に忍継くんについては、存在から隠さなければなりませんので……年端もいかぬ子供の身で、一番、割を食ったものと思われます。

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