手出し厳禁

午前中の練兵を終えて、報告がてら師邸に戻って来た忍人は、そこで猛然と逃げ回る羽張彦とそれを追う風早の姿を目にした。
「待ちなさい、羽張彦! 逃げるとは卑怯ですよ。観念して、俺にぶった切られなさいっ!!」
「冗談じゃないねぇっての。殴らせろ、くらいなら観念してやってもいいが、ぶった切られて堪るかよ!」
槍を片手に羽張彦は逃げ、時に追い付かれては刃を弾き返して、柄で突き飛ばしたり足払いをかけて距離を空けてはまた逃げる。
その光景を遠目に見た忍人は、じゃれ合っているのだろうと思っていた。
「羽張彦の奴…今度は、一体、何をやらかしたんだ?」
呆れながら二人の影を見送り、忍人は師への報告を済ませる。
しかし、職場に戻ろうと外に出たところで二人の姿を間近に見て、己の不見識を思い知ることとなった。風早は、間違うことなき殺気を放っていたのだ。
「おいっ、何をやってるんだ!? 本気で殺す気か!」
迂闊に割って入ると後が怖いということは身に沁みて解っていた。何しろ先日、風早と柊の争いに割って入った結果、夜になって二人掛かりによるとんでもない報復を受けたばかりである。ここで割って入れば、また後で風早からあの日と同じ目に遭わされかねない。
それでも忍人は、さすがに平時の殺害行為を見過ごすことは出来なかった。
いくら羽張彦が体力バカでも、そういつまでも逃げ続けられるものではない。
そもそも風早の方が俊足だし、『遁甲』だって出来る。自分と違って羽張彦は、背後に誰かが出現するなり槍の柄や石突きで殺さぬ程度に攻撃出来るからこそ、今のところはどうにか捕まりも切られもせずに居られるのだろう。
「やめるんだ、風早っ!!」
忍人が二人の間に割って入ると、羽張彦はこれ幸いと逃げ出した。
「おっ、助かったぜ、忍人。んじゃ、後はよろしくな」
「待て、こらっ!! 勝手によろしくするな。事情を説明しろ~っ!!」
風早を相手取りながら、忍人は背後を駆け去って行く羽張彦に叫んだが、勿論そんなものは無駄だった。
「忍人…邪魔立てするなら、あなたも同罪です。羽張彦共々、ぶった切らせてもらいますよ」
「い、いや、とりあえず、百叩きくらいで勘弁して……ではなくてだな…俺や羽張彦をぶった切ったら、二ノ姫が悲しまれるぞ」
千尋が悲しむと言われて、風早は少し怯んだ。しかし、再び怒りを顕わに忍人に切りかかる。
「君に千尋の何が解るんですかっ!?」
「いくら俺でも、お前が犯罪者になったり姉君が恋人を失くされたりしたら二ノ姫が悲しまれることくらいは解る!」
確かに人の情に疎い自覚はあるが、忍人にだってその程度のことは解るのだ。
「とにかく事情を説明しろ。話次第では、羽張彦を懲らしめるのに協力してやるから…」
「本当に協力してくれますか?」
「あくまでも、事と次第によってはだ。さすがに殺害は認められんが……そうだな、半殺し相当までなら協力してやっても良い」
「そこまで言うのなら良いでしょう」
それでようやく、風早は武器を収めた。

「香油……とは、御婦人方が髪や肌などに塗り込んでいる、あの香油のことか?」
「はい、その香油です」
羽張彦が風早の秘蔵の香油を盗んだと聞かされて、忍人は首を捻った。
何しろ、今も念を押したように、香油は基本的には高貴な女性が髪や肌の手入れに使うものだ。男性でも使う者が居ないとは言わないものの、およそ風早や羽張彦はそういう人種ではない。
そんな忍人の疑問を読み取ったように、風早は説明を続ける。
「酒と間違えたんですよ」
「ああ、成程…」と忍人は一応は得心した。それなら、充分に有り得ることだ。しかし、そもそもどうして風早がそんなものを持っていたのかという疑問はまだ晴れない。
すると、またしてもそれを読み取ったかのように、風早が言う。
「千尋に贈ろうと思って、俺は随分前から夜なべして様々な調合を研究してたんです。それは、ほぼ完成してました。ところが、その研究中の様子を垣間見た羽張彦は、俺が夜中にこっそり酒を仕込んでいたものと勘違いしたようで……」
それで羽張彦は風早の留守を狙って部屋に入り込み、一口味見しようとしたとのことだった。
「それは……開けて驚いただろうな」
ついポロッと言ってしまってから、忍人は慌てて口に手を当てた。しかし、幸いにも風早はそれで忍人をどうこうすることはなかった。
「驚くだけで済ませてくれれば良かったんですけどね」
「まさか、驚いて壺を割ってしまった、とか…?」
恐る恐る訊く忍人に、風早は微笑を浮かべて答えた。
「いいえ」
表情と不釣り合いなその重々しい声が、忍人の心を冷たく撫で上げる。
「それが香油だと解って、陛下に献上してしまったんです。これだけあるんだから少しくらいなら貰っても良いだろう、減ってても解らないだろう、って小さな壺に差換えて……」
確かに少しくらい減っていても解らなかった。明け方に帰って来て、すぐに壺が動かされた形跡には気付いたものの、中身を確認してもその量の変化には気付けなかった。
だから風早は、また柊が勝手に土器コレクションを触ったのだろうと考えたのだ。その為に、近くにあった壺が動かされたのだとばかり思っていた。今となっては、まったく羽張彦にしては随分と慎重に元の状態に戻してくれたものだと、その点には驚きを感じえない。
しかし、女王に祭事用の土器の完成報告に上がったところで、彼女から香り立つその良く知る香にピンと来た。
「俺が激怒した理由……羽張彦には解らなくても、あなたならもう理解出来ましたよね?」
忍人はコクコクと頷いて見せた。
羽張彦は「良いものを見つけたから少しだけ貰って恋人にあげよう」くらいの軽い気持ちだったかも知れない。しかし、その恋人は女王なのだ。既成品ならともかく特製の同じ品を他の者が身に着けるなど、女王より下賜されるのでない限り、言語道断、傲岸不遜、不敬にも程がある。
おかげで風早が二ノ姫の為に精魂込めて作り上げた香油は、もはや二ノ姫に贈ることの適わぬ代物となってしまった。姉君の手から渡って二ノ姫がこの香を纏うことがあったとしても、それはもう風早から贈られる唯一無二の香ではない。
「念の為に訊くが、これからまた別の調合を研究する訳には…………いかないようだな」
忍人は途中で訊くのをやめたが、風早はその疑問に答える。
「研究はしますよ。でも、今度の千尋の誕生日には間に合いません」
キョトンとした忍人に風早は続けた。
「俺が昔住んでいたところでは誕生日に――暦の上での生まれた月日に――歳を重ねたことを寿ぐ風習があったんです。勿論、この国では誰もが一様に元日に歳を数えることは承知してますけど、俺としては千尋の誕生日に祝いの贈り物をしたいと思っていたんです」
それを羽張彦が台無しにしたのだと知り、忍人は絶望的な気持ちになった。

「さて、俺からの説明は以上です。忍人はこれから、どう協力してくれますか?」
「………………柊に相談しに行って来る」
風早の二ノ姫への執着ぶりを思えば、これは半殺しでは到底足りない。ぶった切りたくなる気持ちも解る気がした。
しかし、半殺しならまだしも全殺しは絶対に認められない。となると、それに代わる風早が納得してくれそうな別の案を出すしかない。それが出来るのは柊くらいしか、忍人には思い当たらなかった。
協力すると言ってしまった手前、風早に「柊と話し合ってくれ」と言うのは許されないだろう。それに、二ノ姫への贈り物が絡んでいるとなると、風早が柊に協力を仰いだのでは、柊は知らん顔をするか「お好きにどうぞ」と全殺しを容認しかねない。それどころか、風早に完全犯罪の手口を指南することすらあり得る。風早が捕まらなければ、二ノ姫の悲しみも半分以下に抑えられるだろう。
「やっぱり割って入るべきではなかったか」と悔やんだところで、時既に遅し。それに、あのまま見過ごすことはやはり出来なかったと今でも思う。
あの場に居合わせてしまった己の運の無さを痛感しながら、羽張彦殺害を見逃すよりは、同罪で風早にぶった切られるよりは、陛下や二ノ姫を悲しませるよりは、柊に大きな借りを作るか嫌がらせをされる方がまだマシだと自分を納得させる忍人だった。

柊の元へ赴くべくノロノロと立ち上がろうとした忍人の間近に、突如、柊が出現した。
「お話は良く解りました。本当に懲りない子ですね、君は…。先日あれだけ強かにお仕置きして差し上げたばかりだというのに、またしても風早相手に余計な手出しをして……しかもその挙句が、手に余るので助けて欲しい、と私にそう仰るんですね」
「うぅっ……まったくもって、その通りだ。返す言葉もない」
いつから居たのか、柊は遁甲して盗み聞きしていたらしい。説明の手間が大分省けたことは有り難かったが、忍人は何とも居た堪れない気持ちで居住まいを正す。
「ですが、まぁ、風早の暴挙を未然に防いだことは褒めて差し上げましょう。如何に私の知略をもってしても、私の与り知らぬところで起きてしまった殺害事件を完璧に闇に葬り去ることは不可能ですし、羽張彦を失った陛下の悲しみはそう易々とは癒せませんので……」
ちょっと待て、と忍人は思う。それを言葉通りに受け取り更に裏を返すならば、自分が起こすか目の前で起きた殺害事件に関しては、やはり完璧に闇に葬り去れるのか。
「ああ、心配しなくても、姫や陛下を悲しませるような真似は致しませんから安心なさい。我ら同門に何事かあろうものならば、姫がお嘆きになられるのは必定。それに、誰が相手だろうと、忍人だけはこの私が決して殺させやしませんから…」
少なくとも柊達に殺される心配だけはなくなったものの、忍人は全身から冷たいものが吹き出ては流れ落ちて行くのを感じていた。

「それで、柊…こうして湧いて出たからには、代案の1つや2つはあるんでしょうね?」
「当然でしょう」
風早の問いに、柊は胸を張って言って退ける。
「羽張彦は、私達が3人掛かりでボコって半殺しにしたところで、碌に反省するとも思えませんからね。この場合は、精神的に瀕死状態にするのが適当と思われます。差し当たり、まずは事の次第を陛下のお耳に入れると致しましょう」
「成程。それは単純過ぎて気付きませんでした」
風早は怒りで我を忘れて羽張彦をぶった切ろうとしたものの、こうして落ち着いた上で言われてみれば、その方が羽張彦には効果的であり自分達にとっても平和的だった。
盗品を贈られたと知った女王は、さぞや激怒することだろう。しかもそれが、可愛い妹姫の為にその最愛の人が精魂込めて作り上げた品だったと聞かされたとあっては、どれだけ怒り狂うことか。
「確かに効果的だろうが……何とも卑怯な…」
忍人がそう呟くと、風早のこめかみがピクッと動いた。
「邪魔だけして碌な協力も出来なかったくせに、君は文句を言うんですか?」
「あっ、すまない……えぇっと…ごめんなさい!」
途端に正座していた膝の前に手を付いて謝ってしまった忍人を見つつ、柊は笑いながら風早に言う。
「ふふっ…これだけ謝ってるんですから、少しくらいは大目に見てあげませんか? そう、やるにしても百叩きではなく、せいぜいその20分の1から10分の1くらいで許して差し上げては如何なものかと思うのですが……だって忍人は、あなたが姫を悲しませることも邪魔してくれたのですよ」
「それは、そうですけど…」
そう風早が応じれば、柊は更に言う。
「第一、昔と違って、先日は途中で手が痛くなったのでしょう? いつまでも馬鹿の一つ覚えみたいに百叩きにしてないで、そろそろ別のお仕置きを考えた方がいいと思うのですけどね」
「そんなのは、手で叩かなければ良いだけの話でしょう。それに、わざわざ別メニューなど考えなくても、オプションを前倒しすれば済みますし…」
風早の言葉が一部意味不明ながらも、何やら物騒な話をしている雰囲気に、忍人はそのままの姿勢で固まっていた。
その間も、風早と柊は言い争いを続ける。
「容易に磔にするなど言語道断。それ以前に、私の目の届かない処では、忍人への手出しは一切許しません」
「別に、君に許してもらう筋合いなんてないでしょう」
「おや、そうですか? 許しなく何かしたら、全て姫にご報告させていただきますけど……それでも構わないと仰るんですね?」
「ああっ、千尋にチクるだなんて卑劣です。それ禁じ手ですよ!」
「卑劣だなどと、何を今更……そんなことは遥か昔からよくご存じの筈でしょう。とにかく、あなたのおかげで姫が満たされ大変逞しくなられたからには、私は忍人にこれまで以上の愛情を振り向けさせていただきます。他の者から忍人を守る為なら、どんな手だろうと使おうではありませんか。そもそも、これは禁じ手どころか定石です」

意味不明な言葉と聞くに堪えない言葉の数々。それが忍人の頭の上を飛び交っている。
忍人は、そろそろと動いて手で耳を塞ぎ、ゆっくりと背中を丸めるように縮こまった。そして、心の中でそっと呟く。
「羽張彦より先に、俺が精神的に瀕死状態になりそうだ」
「そこまで悪いことはしてない筈なのに…」と嘆いても、もうどうにもならない。その事実をひたすら噛み締めながら、忍人は嵐が過ぎ去るのをジッと待ち耐え続けたのだった。

-了-

《あとがき》

風早EDを迎えて風早の方が新入りとなったとしても、風早と柊の争いに割って入った忍人さんの運命は他の小話と変わりません(^_^;)
柊千小話「堪忍袋の緒は切れて」や「禁断の書」(豊葦原)の「漏れる声」の記述とほぼ同様になります。

うちの忍人さんは、既定伝承から解放されても、貧乏籤体質からは解放されません。
それでも風早が来る前は、羽張彦と柊の間でちょっとした諍いが起きたり、柊が忍人さんにちょっかい掛けたりするくらいで済んでいたものと思われます。
ところが風早が来てからは、風早と柊との間で白熱したバトルが繰り広げられたり、千尋絡みで風早が柊とタッグを組んで忍人さんを責めたり単独で暴走したりして…。
風早が来て、柊が時の輪の中に居た頃の調子を取り戻したこともあって、忍人さんに降りかかる火の粉は質・量共に軽く10倍くらいにはなるものと思われます(*_*;
単純に1人増えたから倍増とか、風早・柊・羽張彦の組合せの増加分で3~4倍増などでは到底収まりません。

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