桜散る

「ねぇ兄様、義姉様が笹百合の家でずっと泣いてるよ」
「そっとしておいてやれ、シャニ」
執務室に駆け込んできた弟に、アシュヴィンはそう応える。
「一人で思いっきり泣きたいんだろう」
笹百合の家は、庭園に設えた小さな温室のようなものだ。手入れの為の専任庭師と皇族以外は危急の時を除いて立ち入ることが許されない庭園の更に奥に位置するので、一人で泣きたい時は千尋はそこで泣く。
一人が嫌な時は、アシュヴィンの元へ駈け込んで来て「ごめん、ちょっとだけ泣かせて」と言って胸を借りる。だからアシュヴィンは、千尋が笹百合の家に居る時は邪魔をしないようにしているのだ。
「最近はかなり落ち着いてきたと思っていたのだがな…」
千尋が常世に来てから大分経ち、今は一人で泣くことは少なくなった。そもそも泣く回数もかなり減った。少しは落ち着いて来たのかと安心していたのだが、一体何があってそんなに泣いているのか。
そこで、アシュヴィンはシャニの頭に付いているものに目を留めた。
「緋色の花弁?それは…桜か?」
「あれ、ちゃんと掃ったはずなのに……庭園の桜が満開だったんだ」
それでアシュヴィンは千尋が泣き続けている理由を得心した。
確か、桜を見に行く約束をしていたと言っていた。
風に舞い落ちる緋色の花弁は、血飛沫を思わせる。
花弁が緋色でなくせめて薄紅だったなら、その花が桜でなかったなら、きっと千尋はそこまで狂ったように泣き続けはしなかっただろう。
迂闊だった。元々、庭園を散策する趣味など持たず、恵みが絶えて久しく花を付けていなかったこともあって、庭に緋桜があることなどすっかり忘れていた。
だが、今更桜の木を切り倒したところで手遅れだ。来年の為にと切り倒せば、反って千尋は気に病むだろう。

「それで、義姉様があんなに泣いてたんだ」
千尋の恐慌の理由を聞いて不機嫌な顔をするシャニに、アシュヴィンは釘を刺すように言う。
「おい、そのことで千尋を責めたりするなよ。元々、それで構わないと言って無理矢理嫁にしたんだからな」
「解ってるよ。義姉様を責める気なんかないから心配しないで」
シャニも、二人の結婚のいきさつやその際に兄が交わした約束については聞いていた。アシュヴィンは包み隠さず事情を話してくれたし、いざと言う時は次の皇になる覚悟をしておくようにも言われている。千尋と忍人の仲については、出雲で会った時にその片鱗を感じていたし、彼女が簡単に心変わり出来るような人でないこともよく解っている。大好きなお姉ちゃんをあんなに泣かせるような死に方をした黒いお兄ちゃんに腹は立つものの、それより今は目の前の兄の不甲斐無さの方が腹立たしい。
「兄さま…結婚から随分経つのに、まだ義姉様の心を全然掴めてないなんて、情けないと思わないの?」
シャニが不機嫌になった理由を知って、アシュヴィンは苦笑しながら言い訳する。
「あれは筋金入りの頑固者だからな。そう簡単に心変わりするような女なら、俺も早々に飽きただろうさ。だが、結婚当初と今とでは、一人で泣く場合と俺の胸で泣く場合の比率は逆転してるぞ」
泣く回数自体が減っている中で、一人で泣く回数は激減していた。それは、気兼ねしなくなって来たか、そこが安心出来る場所だと思えるようになって来たからだとアシュヴィンは思っている。
「だったら、もっと頑張って、義姉様が泣かなくて済むようにしてよね。僕、あんな義姉様、痛々しくて見てられないよ」
「そんなに酷い様子なのか?」
アシュヴィンも少し心配になってくる。
「うん。ずっと泣き通しで、声も掠れたのか段々聞こえなくなって来てた。あんなに泣いたら乾涸びちゃうんじゃないかって心配で……だから、兄様に知らせに来たんだ」
「そうか。声が聞こえなくなったのは、単に眠っただけなら良いんだがな。俺が行くと反って気を遣わせるから、お前、ちょっと行って確かめて来い。もしも泣き疲れて寝ていたら、起こさないようにそっと毛布でも掛けてやれ。笹百合の家に常備してあるからな。間違っても、お前の上着など掛けて来るなよ」
笹百合の家には、毛布を始め、茶器や湯沸し道具、菓子なども常備してある。全て、千尋の為にアシュヴィンが持ち込んだものだ。
「そんなもの常備しておくくらいなら、兄様が抱き上げて連れ帰ればいいのに…」
「いつかはそうしたいと思っている」
だが今はまだ、そこまでは許してもらえない。胸を貸してそっと抱き締め、せいぜい髪や背を撫でるところまで、それが現在のアシュヴィンと千尋の距離だった。
「そうだな…次に緋桜が咲くまでには、せめてそのくらいは出来るようになっておきたいものだ」
本当は一日も早く、千尋が一人で泣くことがなくなるようにしたいが、それが無理でもせめてそのくらいは……そう思わずには居られないアシュヴィンであった。

-了-

《あとがき》

妻問い」の続編です。
一応2人の仲は僅かに進展しています。
アシュヴィンがちょっと弱気になってますが、その分シャニが強気です。

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