Prism Hearts

第1話

アリオスが初めてその少女を見たとき、彼女は泣きじゃくっていた。
その前方には、困った様子のエルンストの姿がある。
「何やったんだ、お前?」
帰宅目前のエルンストから、事故に遭ったから迎えに来て欲しい、と連絡を受けて出てくれば、この有様だ。アリオスが困惑するのも無理はないだろう。
「被害者は私の方なのですが…。」
大型トランクに押し倒されるようにして尻餅をついているエルンストを見れば、彼の言った事故がどんなものなのかは察しがつく。しかし、それだけでは少女がエルンストの前に座り込んで泣きじゃくってる原因までは解らない。
「まさか、トランクの質量と速度と衝突のエネルギーがどうとか…。」
「そんなことしていません、まだ。」
まだ、が付くところに若干の問題があるようには見受けられるが、どうやらエルンストに責められて泣いてる訳ではないらしいと考えたアリオスは、エルンストの上からトランクを除けると肩を貸して彼を起こした。そして、少女に向かって声をかける。
「立てるか?」
それが自分に向けられた言葉と気づいて、少女は慌てて立ち上がった。それを見て、アリオスが続けて一緒に車に乗るように促すと、少女は素直に車に乗る。
そして3人は、坂の上の大きな洋館へと入っていったのだった。

幸い、エルンストの怪我は軽い捻挫と打ち身で済んだ。
「ホントお前って運動神経鈍いよな。俺なら転がって来たトランクくらい避けるも止めるも雑作ないぜ。」
「あなたを基準にしないで下さい。」
自分の運動神経が決していい方ではないことくらいエルンストも自覚しているが、アリオスに比べたら大抵の人間は運動神経が鈍いに決まっている。おまけに、今は夜勤明けなのだ。普段以上に運動神経も注意力も鈍っていて当然である。
そんなやり取りを聞きながら、少女は静かにお茶を飲んでいた。
「少しは落ち着いたか?」
「はい。本当にすみませんでした。エルンストさんに怪我をさせた上に、ご面倒をお掛けしてしまって…。」
洋館前の急坂で手からトランクが滑り落ちてエルンストを直撃し、彼が自力で起き上がれないと解るなりパニックになって泣き出してしまった少女は、泣き止むと今度はひたすら恐縮していた。
「そんなに気に病む必要はありません。」
「ああ。この程度は面倒の内に入らねぇ。」
2人がそう応えると、少女はホッとしたような顔で、しかしもう一度だけ謝った。
そこでアリオスは話題を変える。
「それより、お前はどこに行くつもりだったんだ?」
言われて、少女は思い出したように答えた。
「あの、実はこちらのアパルトマンに来るところだったんです。今日から105号室に入るアンジェリーク・コレットです。よろしくお願いします。」
これを聞いて、2人は目を丸くした。そして小声で話し合う。
「お前、何か聞いてるか?」
「いいえ。」
アパルトマンって何のこと?105号室って何?
お互いにそんな話は聞いてないことを、ひそひそと確認し合った後、アリオスはアンジェリークに向かって応える。
「訪ねる先を間違ってねぇか?うちはこれでも個人邸宅だ。」
そう言われて、アンジェリークは慌ててショルダーバッグから書類を取り出し、それをアリオス達に見せるように差し出しながら紙面の一部を指差した。
「これって、こちらの住所で合ってると思うんですけど…。」
指差されたそこに書かれている所在地が確かにここであることを見て取ると、アリオスは彼女の手から書類を受け取り、改めてエルンストと共にそれを吟味した。アリオスが書類の端々に目を通している横で、エルンストはすかさずそこに書かれた不動産屋の連絡先の番号をコールする。そして、すぐに首を横に振ると、アドレス帳から別の番号をコールする。
「どうか……したんですか?」
不安そうに問うアンジェリークに、アリオスは簡潔に答えた。
「詐欺だ。」
「はい?」
事情が飲み込めないアンジェリークに、アリオスは言い方を変える。
「騙されたんだよ、お前。ここに書かれてる番号は不通だし、うちはアパルトマンなんかじゃない。要するに、敷金やら先払いの家賃やらのまとまった金を持ち逃げされた上に、お前は宿無しってことだ。」
呆れたように言うアリオスの言葉に、やっとアンジェリークは事情が理解出来た。そして途端にまた取り乱す。
「騙されたって…。宿無しって…。」
おろおろするアンジェリークの目の前で、エルンストは電話に向かって話し続けていた。
「はい、そうです。被害者は若い女性で……ええ、我が家に……はい、ではお待ちしています。10分以内にいらっしゃるそうです。」
最後は電話を切った直後にアリオスに向かって発せられた言葉だった。それを受けて、アリオスは頷くと、アンジェリークに菓子を勧める。
「ほら、これ食って落ち着けって。今、警察に居る知り合いに連絡した。直に飛んで来るから、この契約書を交わすまでの経緯をよく思い出して整理しとけ。」
「は、はい…。」
アンジェリークは真っ青な顔で何度も頷くと、菓子を一口かじり、茶を含みながら記憶をたぐり寄せたのだった。

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