李さん(元八路軍将軍)の話

2001年8月24日

於:北京の李さんのお宅

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李さん(元八路軍将軍)の話

  • 李さん
  • 夫人の劉さん
  • 張秘書(男性)さん
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Nさん

 私どもは5回目になりますけれども、興隆の山の中で子どもたちや先生たちと一緒に活動しております。そしておじいさんたちの話を聞いて歴史を学習しております。今度は唐山の烈士陵園で李さんのお写真をたくさん見てきましたから、今日はお目にかかれて、本当にみんな嬉しいのです。

 唐山は今年は潘家戴庄に行きました。去年は魯家峪と潘家峪に行っています。そして興隆との関係を今勉強しているところです。「北京にいらっしゃらなかったら、だめよ」ということでみんな諦めていましたら、今朝電話が通じましたからみんな喜んで、予定を変更して参りました。

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李さん

 何人で来ていますか?

Nさん

 17人。2人は初めて中国に来たので別のところを見に行きました。ここには、5回来ている人も何人かいます。

Jさん

 ここにいる小学校の先生たちはみんな興隆で授業をしてきました。

Nさん

 熊本の方みんな立って。この人たちが毎年音楽の授業をしました。楽器をあげて、その楽器の使い方を先生に説明するためには使い方を見ていただく方がわかるから、授業をしました。

 大分の人たち、前に出て。算数セットをあげて、それを使って授業をしました。

劉夫人

 皆さん、とってもお若いですね。

Nさん

 日本に帰って子どもたちに、興隆の状況を、紙芝居や何かを作って、伝えています。そして、今の子どもたち同士の付き合いをさせるため、日本の子どもたちの描いた絵や写真を持って来て交換しています。こちらはだいたい高校の教師ですが、授業をする時助手をします。そして、子どもたちや先生たちと交流をした後、おじいさんたちから戦争の時の話を聞きます。だから興隆はどこに行っても李さんの名前が出てきますから、李さんはまぼろしのあこがれの将軍でした。

李さん

 興隆は貧しいところです。

Nさん

 心の温かいところです。今は歴史の教科書の問題とか、靖国の問題とか、申し訳ないことをしていますけど、私たちは興隆でお話を伺ってきて、今回がんばって右翼の歴史教科書が採択されないように止めました。これからも戦っていきますけれども、こんな状況の中で戦う姿勢はみんな興隆のおじいさんたちから学んで力を得ています。

李さん

 興隆を見てどのような関心を持ちましたでしょうか、皆さん。

Jさん

 貧しいところだけど、皆さんとても前向きで、がんばり屋さんの人がいるなと思いました。昔は民兵だった方とお会いした時、特に姿勢の正しい目の美しい人たちだと思いました。李さんのお話を伺いたいので、質問していいですか。

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李さん

 皆さん潘家峪とかそのようなところに行ってご存知と思いますけれども、盧溝橋などへ日本の軍隊が入って来て、中国人民は大変大きな犠牲を払いました。特に長城沿線は、千里(500キロ)の無人区を作って、そこでたくさんの村がなくなってしまうことになりました。戦争の時たくさんの犠牲を払って、3500万人が亡くなっているのです。

 日本の軍国主義を責めるべきであって、日本人を責めるのではありません。歴史をしっかり勉強してそれを後代の人に伝えていくことは、日中友好を継続させていくということなのです。しかし、今でも日本に軍国主義があるということはこれはまた別の問題なのです。

 日本の国内の政治状況について、私たちはよくわかっています。日本の軍国主義の面と日本の人民の平和を愛する面とは、まったく別のものであるということはわかっています。私たちはあなたたちのような教育の組合の方がいろいろ告発をされているのを歓迎して、一緒に交流したいと思っています。歴史の事実というものを次の世代にしっかりと教えて伝えてやってほしいということを、中国の人民は願っています。歴史の事実をしっかりとはっきりさせて後世に伝えてやることが、日中の友好の生命線といいますか、保障するものだと思います。

 今中国の国民が不満に思っていることは、日本の軍国主義が過去の歴史を伝えていないことです。私は一生涯日本の軍国主義と戦ってきた人間です。軍国主義者が中国にやって来てしたことは、私たちはしっかりと頭の中に覚えています。私たちは日本政府がどのように過去のことを教えて、どういう方法で伝えていくかを非常に重視しています。特に日本の文部省が歴史教科書を、歴史を修正することについては、みんなが不安に思っています。小泉首相が靖国を参拝したことに対しても不満に思っています。軍国主義が存在する限り、この世界に平和は見えません。日本人もその被害にあっています。そういうものがあれば、これから長い将来にわたって平和を保つことは、とても難しいことです。お願いしたいのは、日本の人民が力を出し切って軍国主義と戦って破ってほしいということです。靖国に対する見方も正しい態度をとってほしい。靖国に対する見方というのも歴史にかかわる見方なのです。

 日本は発達した国で、特に明治維新後成長し発達しましたけど、しかしながら外の世界、外国に対してはあまりよくないことをしています。それは私の目で見てきたことです。そのような人は隣国に対しても友好的でない人々でした。中国の一般の庶民の理解では日本は外国の人に対して、あまり良くないことをすると理解しています。特に有名なのが田中義一首相です。1927年、田中首相は天皇に対して、まず第一に中国を攻めるべきだと奏上しました。まず先に満州を手に入れなければならないということを奏上しました。そういうことがあってから日本政府は中国に対する戦争、侵略の準備を始めました。みなさんも教員ですから、こういった歴史に対してはもうご存知でしょう。1931年には東北に兵を出してきました。9・18事件、柳条湖事件です。それから7年後に盧溝橋の7・7事件、日中戦争が始まりました。中国人は皆そういう戦争の経過を知っています。

 このようなことについて、日本政府が歴史を明らかにすることが必要です。侵略について、日本の政府筋の人が反対して、教科書からその事実を消し去ったということがありました。左派の人たちがそのことに対しては反対したけれども、やはり右派の人たちが押しつぶすということをやり、侵略を認めない人たちが、他国に対する戦争に反対する人たちを抑えつけている。今も日本軍国主義者たちは、民衆の戦争に反対する勢力を抑えている。中国人は今日本の態度がどうなるか気をつけてみています。日本軍国主義に対する見方をお話ください。中日友好の人たちですから。

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Jさん

 右翼勢力が作った新しい教科書のことを申し上げたいと思います。結論を先に言いますと、先日結果が出ましたが、1%に満たない採用ということになりました。公立の学校で6校、全国で6校、生徒の数で数十人。私立の学校で6校か7校。

 それまでの経過を申し上げると、最初李さんがおっしゃったように、政府は確かにあの教科書を認めてしまいました。私たちは負けました。しかし実際に教科書を使うかどうかは、日本中の500ヶ所くらいのそれぞれの地域で決めていくことでした。そこで私たちは、それぞれの地域で採用しないようにという運動を、さまざまな形で行いました。陳情の文章を書き、電話を掛け、大小の集会をやり、署名を集め、教育委員会に圧力をかけました。全国各地で、何十人という小さな集会から、何百人という大きな集会が毎日どこかで開かれました。その結果が先ほど申し上げたような1%に満たない採用となりました。右翼勢力と直結している学校が数%です。

 ただこの戦いはここで終わらなくて、また4年後に同じ問題が起こりますから、また明日からの戦いが始まります。私たちはその戦いを続ける時に、きちんと信念を持ってできるためには、興隆のおじいさんたちにお会いすることがとても役立ちます。

Iさん

 話は変わりますが、今八路軍がいろいろなものを与えたという話がありましたけど、私は逆に八路軍が戦うために必要な食料や何やを村々から提供されて、それで軍隊として戦うことができたと思っていたのですけど、一般の人がなぜそれほどの信頼を八路軍に持つことができたのか、保護という一言で片付けられてしまうには物足りないものがあるのですけど。

李さん

 八路軍というのは農民から見れば自分の子弟、子どもが兵隊になっているのです。子弟が八路軍です。八路軍と農民との関係は、戦争の時は魚と水の関係と同じです。八路軍が魚で農民が水です。

Nさん

 冀東の軍隊は子弟兵で、土地の子どもたちがみんな参加していたのです。

張秘書さん

 農民がいなければ八路軍は成り立たないし、農民からみれば八路軍がいなければ侵略者がやって来るという関係なのです。

劉夫人

 当時の農民はこういうふうに考えていました。1人とか2人の兵士が行ったからといって当時の関東軍はとても強かったので、戦って勝てるものではない。ではどうすればよいかというと、八路軍の大きな組織で戦っていかなければならないということを知っていました。八路軍の軍隊は、子弟兵と言っていますが、八路軍は貧しい人たちの軍隊であって、私たちは「一家人」と言っていますが、1つの家族の人であると考えていて、八路軍の食べるものはもちろん、着るものも自分たちで縫って八路軍にあげました。国の軍隊でなく、人民の軍隊ということで、関係が密接でした。また潘家峪とか潘家戴庄などで虐殺があったわけですけれど、そういった虐殺が起こる度に、李司令は人を派遣して、状況はどうか、生き残っている人はいるかどうか、何をすればよいかを調べていくというようなことをやっていました。実際潘家戴庄では1280人が殺されたのですけれど、子どもたちが遅れてそこに行こうとした時に、日本軍に付いていた通訳が、良心にかられて、子どもたちにもう行ってはいけないと、そこに行くと殺されるから行かないで逃げなさいというようなことがあったようですね。子どもたちは事件を知ってそれを八路軍に伝えることをやりました。繰り返しになりますが、そんなふうに八路軍と農民は一体の関係を作っていたのです。日本軍は、やってきて三光政策をやりました。大変ひどいことをやって、中国人民はとても憎んで、しかも恐れてました。一方八路軍の方は食べるものも着るものもすべて与えてやる、保護するということをやったので、人民は八路軍を支持するということになるわけです。そのようなことの1つとして、妊娠しているのに軍隊を先導した女の人や、捕まった連絡員が持っていた手紙を飲み込み、腹を割かれても大丈夫というようなことが出てくるのです。

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李さん

 中国は侵略された国、被害を受けた国です。侵略したのは日本の軍国主義。日本の軍国主義が中国の人民にしたことは、中国の人民がよく覚えています。そのやり方は非常に残酷なものです。人間のやることでない。それは野獣、獣のやることでした。

劉夫人

 そうです。それはとても人間のやることではなかった。私は当時7、8歳でしたが、親戚の人が捕まって、どういうふうに殺されたかというと、首から上だけ出して地中に埋められ、水をかけられたのです。冬の厳しい時でしたので、時間が経てば凍ってしまうのです。そこで、刀ではなく普通の鉄線でもって首をそぎ落としてそれで体が残って、首だけ見せしめにするということをやられました。

 私は15歳で兵隊になりました。そしていつも手榴弾を持っていました。その手榴弾を何のために持っていたのかというと、敵に投げるためでもありますけど、それよりは自分が捕まった時に死ぬためでした。

李さん

 日本の軍国主義がやったことは、中国ばかりか、アジア全体が知っています。そして今の日本のそれに対する見方、日本の軍国主義の現われに対して強く反対しています。遺憾に思っています。そういう被害は、アジアの人だけではなくて、日本人も今受けています。だからアジアの人々が反対するだけではなくて、日本の人民が今の日本の軍国主義に反対しなければならない。そうしなければまた戦争が起こってアジアに対するその被害は非常に大きなものになるでしょう。北朝鮮も韓国も日本の動きに反対しています。日本の人民が軍国主義と戦い、あるいはアジア全体の人民と団結して、これ以上軍国主義が復活することを押しとどめなければならない。そうしなければ、また1930年代のことがもう一度起こる。心から起こらないようにしなければならない。お話はここまでにしましょう。

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Kさん

 今日はありがとうございました。先ほどN先生からもお話がありましたが私たちは日本に帰ってから、興隆で聞いたことを子どもたちや同じ職場の仲間に伝えようという活動をしています。けれどそういうことを伝えようとすると、弾圧を受けることがあります。けれども興隆のおじいさんたちから生き方を学んで、どんなに苦しくても強く生きていくという姿勢を学んで、私たちも弾圧に負けないでしっかりと伝えていこうと思っています。過去の歴史をきちんと知った上で、本当に仲良くなれるのではないかと私は考えています。

 帰ってからしっかり頑張りたいと思っています。今日は本当にありがとうございま した。

李さん

 どうかまた来てください。私ももう高齢ですから日本に行けないと思います。今年93歳です。