陳さん(唐山市党弁公室元主任)たちの話

2001年8月22日

於:唐山市唐山賓館会議室

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Nさんの挨拶

 金さん,周さん、それから陳さん、李さん、ご出席ありがとうございます。座談会の形になっているようですが、私どもは学習会と思っております。唐山の歴史、特に抗日戦争時代の歴史について学習したいと思っていますのでそのことをお話ししていただきたいと思います。特にこの町は、さっき高秘書長さんが工業の発生地と言われましたけれど、確かに工業の発生地であるのでしょうけれど、私自身の認識では、ここは労働運動の発生地だと思っているんです。すごい戦いを20年代の初めにやっていますが、そこからずっとやってますからね、そういう意味でも学ぶことが多い土地なので是非よろしくお願い申します。

周さん(唐山市中国共産党委員会党史研究室副主任)

 私と金さん(同)はこの会に出てくることができましてとても嬉しいです。この唐山市の中国共産党委員会の党の歴史の研究室には全部で20名います。今日はその20名の同僚を代表して皆さんに対して歓迎の意を申し上げたいと思います。

 両国は、一衣帯水の隣国で、2000年の友好の歴史を持っております。私たち歴史を研究している者はこの友好の歴史を非常に大切にしております。このような大事な機会を借りて、日本の教育界の皆さまと交流を深めたいと考えております。先ほど中国共産党委員会の副秘書長の高さんが私たちのこういうような考え方を既に述べました。私たちもこの場を借りて私たちが共通に関心を持った問題について十分で深い議論をしてお互いの理解を深めたいと思います。

 皆さんのご希望を満足させるために、私たちは特に私たちの元の主任の陳さんと李さんをここに誘って、皆さんに話をすることをお願いしました。彼らは中国共産党史に非常に詳しい人です。ですから、皆さん、何か質問がございましたら遠慮なくお聞きになって下さい。

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周さん

 それでは、李さんに話をしていただきます。

陳さん

 李さんは、この『冀東革命史』という本の編集委員です。

李さん(唐山市党史弁公室前主任)の話

 日本の先生方が中国にいらっしゃいましたことに私は歓迎の意を表したいと思います。冀東の当時の抗日戦争の時の状況を皆さんに紹介したいと思います。

 1931年9月18日、日本軍が、皆さんご存知のように柳条湖事件で、中国の東北の3省の黒竜江省、吉林省、遼寧省を占領しました。

 1932年の5月、日本は清王朝のラストエンペラーの愛新覚羅溥儀を利用して満州国を作らせました。

 1933年の1月、この近くにある山海関を、つまり今の万里の長城の東の端を、占領しました。

 1933年の3月4日、日本軍は承徳市を占領しました。それから長城を越えて、その年の5月16日にここの唐山を占領しました。それから5月31日に溏沽協定を結びました。冀東というところを非軍事地帯にしました。

 1936年の5月、日本軍は北平(北京)と天津を占領しました。

 その前の1935年の12月、日本の指示の下でこの辺りでは、防共自治政府が成立しました。この防共自治政府が成立した後、中国の中央政府ともう関係がないことを宣告しました。その後、冀東というところは中央政府から離れて中国の地図からも離れて、第二の満州国とも言われるところになりました。

 1つの主権を持った国ですから、外国から侵略をされたら必ず抵抗します。抵抗する方式つまり手段としては、大体2種類あるだろうと思います。

 1つは、政府が軍を作って抵抗することです。特に1937年7月7日、廬溝橋事件の以後、こうした政府間の軍の間の戦いが多くなりました。もう1つの方法としては、民衆からなる遊撃隊が地方でゲリラ戦をすることです。この2種類の抵抗とも、当時の侵略者に対して大きな打撃を与えました。

 しかし、政府による戦いは、当時は国民党の政府なのですけれども、人民の支持が得られなくてだんだん敗北しました。もう一方、人民による、普通の民衆による遊撃戦は大きな効果があって、根拠地も作って敵に打撃を与えました。ですからその時から日本政府は、国民党政府つまり当時の中華民国政府の軍隊との戦いから、中国共産党が存在している、つまり北の方ですね、今私たちがいるところなんですが、そういうところに目を向けるようになりました。民衆による戦争に目を向けましたから日本政府はいろいろな手段を使って民衆を弾圧するようになりました。

 私は抗日戦争の歴史を研究する者として、皆さんにその時の事情を説明する責任や義務を持っていると感じています。

 これから事情を説明します。第一に、無人区のことです。この無人区というものは長城沿線で作られまして、東は山海関から、西は独石口まで大体1000華里、500キロの距離です。長城の南の遵化、遷安、長城の北のネイジョウという辺りのその間、まだ山の山もあって大体5万平方キロの地域は無人区になっています。

 この5万平方キロの中の160万人が人圏に入れられました。その人圏の数は2606個です。そのプロセスの中で殺戮された中国人の農民は10万人ぐらいです。このことについて、私たちの陳さんと日本の姫田先生と一緒に本を作って、『もう一つの三光作戦』という本を出しました。そこで詳しい事情を説明しています。N先生の本も詳しいことの説明がありますので、私はここでもうこれ以上説明しません。

 第二に、この冀東というところで多くの惨案を起こしました。例えば1941年と42年、ここで20人以上をいっぺんに殺した事件は200くらいありました。例えば、去年皆さんが行きました潘家峪というところの惨案です。この惨案は1941年の1月25日のことでした。殺戮された人は1237人でした。今日皆さんは唐山市内の烈士陵園でその写真をご覧になったと思います。すべての家が壊されました。

 1941年の4月から1942年の6月まで、冀東の中部にある魯家峪というところでは合わせて220人殺戮されました。

 1942年、日本は当時の華北政府、さっき言った自治政府を利用しまして第5回第6回治安強化キャンペーンをやりました。そういうような過程の中で157の村が駄目にされました。このような治安強化キャンペーンは盤山あたりでやりました。盤山というところは非常にきれいなところで、お寺が非常に多かったのですが、この時72のお寺が壊されました。また飛行機から爆弾が落とされて、2万人がその爆弾で亡くなりました。

 1942年の12月、日本軍は鉄道の南の方の、明日皆さんが行きますけれども、潘家戴庄というところでは、いっぺんに1280人を殺しました。惨案は非常に残酷でした。銃殺された人もいれば、生きたまま埋められた人もいれば、山の洞穴の中で毒ガスで死んだ人もいます。70歳、80歳のおじいさんおばあさんもいれば、女性の方もいれば、子どももいれば、妊娠した女性の中から出された、まだ子どもになっていない胎児もいました。

 第三ですけれども、強制連行です。つまり、日本軍は八路軍など抗日の軍隊や政府を消滅させるために、討伐隊を作っていろんな郷や村に行って若者を捕まえて、当時の満州国の方に連れて行き、強制労働をさせました。1941年から1944年までで強制連行された人は22万6000人でした。これらの人は炭坑を掘らされたり、それから秘密のところで軍事要塞を作らされました。軍事要塞を作った人は、日本軍がその秘密を守るために、作った後この人たちを殺しました。私たちの不完全な統計によれば22万6000人の中、結局帰ってきた人は10%未満です。

 第四に、軍事による弾圧です。1940年から44年まで大体7万人の日本軍がここで支配しました。大体いつも7万人の兵力をここで保ったわけです。1944年の年末、世界の規模から見ると第2次世界大戦はそろそろ終わろうとしていた時なのですけれども、そろそろ明るい日が来るんじゃないかなと思った時なのですけれども、しかしここは非常に暗い時期でした。何故かというと、日本軍と中国人による警察や討伐隊、それは合わせて17万人もいました。軍事による支配というのは、いろんな溝を掘ったり、拠点を作ったりして人民は非常に不自由でした。こうした状況はずっと1945年の8月15日抗日戦争が勝利した時まで続きました。ここには冀熱遼という根拠地があります。冀は河北省の略称です。その河北省の北つまり長城を越えて北になると熱河省でした。それで山海関の東に行くと遼寧省ですね。つまり、冀熱遼というのは河北省の東の部分とその熱河の部分とそれから遼寧省の西の部分からなるところです。ここの冀東の人民は、全国の人たちと同じように日本の圧迫に途中で抵抗をやめたりすることはなく最後まで闘争を続けました。正義の戦争は結局勝利を勝ち取りました。非正義の戦争は必ず負けるでしょう。1945年の始めころから根拠地はだんだん大きくなって、軍の人数も多くなりました。日本の拠点はだんだん縮小していって道の沿線になったり大きな都市部にしか駐在できないようになりました。当時日本軍の63師団の中佐,野副昌徳は自分の日記にこのように書きました。「私たちは、1つの点なり線なりを占領しているが、しかしどこに行っても難しい。まったく海洋の中に浮かんでいる真珠のようだ。状況は非常に厳しい。」これは当時の日本軍の状況でした。これが日本の非正義戦争の結果となっています。先ほど私が話しました当時の日本軍による支配の状況は歴史的事実です。私たちは日本の新しい歴史教科書問題は、単に中国の人たちを傷つけることだけではなく、日本の青少年に間違った道を歩かせるというか、進んで行かせてしまうという危険性があるから、私たちは関心を寄せています。時間の関係で簡単にまとめて以上の話をしました。何か質問がございましたら遠慮なく出してください。ありがとうございました。

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周さん

 それでは陳先生にお話をしてもらいます。その後何か質問があったら出してください。

陳さん(唐山市党史弁公室元主任)の話

 私とN先生は昔からの友人です。どうして友人、友だちになったかと言いますと私たちは共に無人区のことを研究する者です。私たちの友情は学問的協力を超えたもので、非常に深いものとなっています。というのは、私たちは個人の友情にとどまらず、両国の研究者としての友情で結ばれております。

 皆さんは日本の教育者です。私と接している日本人は非常に多いです。私は日本の方々と会うたびにいつもつくづくと感じるのは、私たちの交流はまだ足りないということです。これからもっとやるべきだと思うのです。私は何を思うかと言いますと、過去の歴史のこの深い、重い、惨めな歴史の1ページを1日も早く終わらせたいという気持ちです。つまり私たちの次の世代はもうこのような話をしなくていいというような政治社会、そういうような世界を作りたいわけです。皆さんご存知のように私はこの戦争に参加した者です。私は15歳の時に八路軍に入りました。しかしここで私はそのような歴史的事実についてたくさん言うつもりはないのです。これらの歴史的事実は確かに重要です。しかしこれよりもっと重要なのは、私たちはどういう目でこれらの歴史を見て、どういうふうにこの戦争を反省するかということです。

 1874年から1945年まで半世紀にわたって、日本は中国への侵略を続けました。その中では中国の半分以上を占領した時期もあります。このことは、天があれば天が証人になってくれると思うし、地面も私たちの証人になってくれます。全世界はみんな知っています。みんな知っていることなのに、しかしこのような重要なことを日本ではまだ議論していて、わからない状態でいるのは非常におかしいです。ここで自分自身の経験を、日本人と接した経験を、話したいと思います。

 例えば私は姫田先生と本を出しました。『もう一つの三光作戦』という本を出版しましてこの無人区のことを紹介しました。その本は日本でも出版されました。しかし出版された後、議論を呼びました。日本には1つの協会がありまして、つまり、承徳市憲兵戦友会という、当時ここで戦った日本軍の軍人がそのような会を作ったわけです。そういう承徳市憲兵戦友会の人は歴史学者を呼んだり、研究者を呼んだり、教授を呼んだりして、中国人は嘘をついていると言っています。中国はどういう国かと言いますと、李白は、皆さんご存知のように偉大な詩人ですけれども、あの人はとても文学的手法で詩を書くわけです。白髪は9000メートルの長さがあるというそういう詩があるのです。白髪三千丈、そんなに髪が長いというふうに誇張していう中国人に果たして事実が言えるかという言い方です。

 私が日本に行った時に初めに長野県に行きました。長野で講演をした時に、ちょうどその場で、その承徳あたりの長城沿線で戦った日本の昔の兵士に会いました。その3人、小林さんなど3人がその場で立って私に言いました。「私たちはその時確かに長城のところでいろんなことをやりました。無人区をやったのは私たちです。陳先生が書いた本は、その本の中で書いたものは、まだまだ不十分です。」と証人としてそういうような話をしてくれました。

 ですから私はそのような話を聞いて、いろいろ考えました。これからはもう、その細かい歴史的事実は話さなくてもいいというふうに考えるようになりました。何故そう思ったかと言いますと、右翼の人たちに対してどんな事実を言っても無駄です。もう何の効果もないです。事実といえば事実はいっぱいあります。この戦争の中で中国人で死傷した人は3500万人です。負傷した人は1500万人ですけれども、兵士として戦って死んだ人は1000万人ぐらいで、あとの1000万人ぐらいはみんな普通の市民です。

 この間私は1つの文章を読みました。その文章はユダヤ人による文章です。そのユダヤ人が書いた文章のテーマは「歴史は遠くない」という文章です。その文章の中で作者はこういうふうに書いています。第2次世界大戦の中ではユダヤ人は600万人殺されました。この600万人という数字はあくまでも概念的な数字にすぎません。1つの概念にすぎません。私たちはこの600万人という数字を理解するだけで戦争を理解することはできないのです。そういうふうに歴史を理解することは、まだ歴史が遠いというふうに感じます。じゃあ、どういうふうに理解すればよいかといいますと、その600万人というのは1人、1人、プラス1人、1人、1人というふうに殺された、ということをいちいち認識していかなければならないのです。そういうふうに理解すると歴史は遠くない、まだ私たちの身近にある、というふうに理解することができると思います。

 その、1人、1人、ひとりということはつまり、生きている、血も流れている、肉もついている、私たちの目の前にあらわれている生きている人間なのだ、ということを意味しています。

 私たちは生きている人です。しかし殺された人もみんな当時生きていた人です。私たちとまったく同じ人間でした。

 私は日本で、日本語で書かれていたいろいろな日本の歴史的文献を読みました。当時の日本の新聞なり、旧満州の新聞なりいろいろ読みました。しかし、私はそれを読んだらビックリ。何故かと言いますと、そこには私たち八路軍のことを「侵略者」というふうに書いてあります。私にはどうしても、どんなに考えてもわからないことです。私たちが自分の国の土地を自分の手に戻すために頑張って戦うことが、かえって侵略者になったということはどうしてもわかりません。私はわからなくてわからなくて、だんだんだんだんあやしくなってきて、おかしい考え方をするようになったのです。つまり、私は本当に侵略者になって、そういうような気分、侵略者の気分を味わいたくなったのです。例えば私は日本に行っていろんなところで講演しましたけれども、日本の方々に聞きました。「私は侵略者ですか。私は東京に来ましたよ、大阪に来ましたよ。じゃあ私は占領しましたか。」と。例えば、私は本当にある日侵略者になって、日本に入って本当に東京大虐殺ということをして、何10万人も殺して、それで歳とって「私はそういうことはしたことありません。日本の方々、そういうことはしませんよ。したことないですよ。そんな東京大虐殺があったということは言わないでください。」というような気持ちで日本人に言ったら、日本の右翼の人たちはどういうふうに考えるでしょう。

 ですからそのような確実にあった歴史を、どういうような目で見るかが大切です。私はそう考えています。そうじゃないと私はこの、歴史、歴史、抗日戦争、抗日戦争という話をいつまでも話していかなければならないのです。

 私はひどいことを言ってるでしょうけれども、しかし私は本当はこれを言いたくないのです。右翼のせいで私はここでこういうようなひどいことを言わざるを得ないのです。彼らのせいです。

 私は学者ではありませんけれども、1982年の時に初めての論文を出しました。何のためか、それはその82年に教科書問題があったからです。その1982年から私は日本の政治動向とか、日本の歴史教科書問題とか、いろいろ関心を寄せました。私は教育を受けたことがあります。しかも私は教員をしたことがあります。ですから教科書に対して非常に興味を持っています。日本の歴史教科書事件は非常に典型的な事件です。右翼の勢力が大きくなるにつれて必ず教科書問題が出てくるわけです。

 歴史を見てみましょう。1955年、1982年、2000年、この3回の教科書問題はいつも右翼が出てくる時、その勢力が大きくなった時です。この問題は厳しくなってきてひどくなった、ひどくなる一方です。例えば82年の教科書問題はどういう性格をもっているかと言いますと、事実を隠すわけです。つまり、昔侵略したということを言いたくなくて、認めたくなくてそれを隠したいわけです。しかし今回は違う。今回はそれを隠したいどころか、その軍国主義そのものを出したいんです。日本は神の国とか、神話、そういうようなことを、明治以降の国定教科書のものを、そのものを出そうとしているわけです。

 この21世紀の初めの年に日本にこのような事件があるということは、私は不吉、というか、不祥な感じがしています。

 申し訳ないんですがもう1つの考え方を話したいと思います。

 日本ではよく議論されていること、つまり「愛国」ということです。どのような人が愛国者と言えるでしょうか。例えば私は日本で当時の日本軍の兵士に会った時に、彼らは私に言いました。「私はそのような歴史を認めることができないんです。何故かというと、私たちは軍人です。私たちは日本軍のイメージを維持しなければならない。私たちは、日本、日本人のイメージを守らなければならない。」と言うのです。ですから「あなたたちが言ったことは嘘で、私たちは認めない。それを認めると自虐になって愛国者になれない。愛国者はそういうことはしません。」と言ったのです。私は、「それはとてもおかしい考え方で理解できないですねえ。」と言いいました。例えば、N先生は無人区の本を書きました。これは、日本を愛していないからですか?私が思うには、これはもっとも偉大な愛国主義です。何故かというと、どんな国でも、誰でも、過ちを犯すことがあります。過ちを犯さない国はないでしょう。しかしそのような歴史を正しく見て、それを直そうとして、そのような歴史と関係を絶って新しい歴史を作る、骨も肉も全部替えて新しい人間になる、それこそ愛国主義でしょう。皆さんはご存知だと思いますけれども、我が国には1人の有名な作家、文化人でもある魯迅先生という人がいます。あの人のほとんどの文章の中で、中華民国の悪いところを罵しっています。中国の悪いところを批判している文章は彼のほとんどの作品を占めています。しかし魯迅先生は、もっとも偉大な愛国者です。彼は中国を愛しているからそのような批判的な文章を書いたわけです。私はそう思います。私は日本の当時の兵士にこういうふうに言いました。「例えばあなたたちの隊長の長島さんですけれども、知っているでしょ?私たちは日本の鬼というふうに、敵ですからそういうふうに呼んでいますけれども、しかし長島さんのあだ名は、あなたたち日本軍の兵士がつけたでしょ、『鬼の中の鬼』って。これが当時のあなたたちのイメージで、あなたたちは昔、強盗です、人のものを強引に奪う人です。しかしあなたたちは今、人を騙す人です。これはあなたたちの本当のイメージです。」と。

 もう1つの考え方を言いたいと思います。

 日本の歴史学者の中には、悲観論を持つ人が多いのですね。ある学者は私に対して日本の問題は100年かけても解決できないというふうに私に言いました。しかし私はそうは思いません。

 私は日本と縁があると思います。小さい時に、日本の先生が私に教えてくれていました。15歳になったら、日本と戦っていました。晩年になったら、日本との関係史を研究して、日本の方々と多く接しています。ずっと日本のことをやってきました。私は本当にそう思います。本心から日本民族は優れている民族、優秀な民族、アジアの中で確かに優秀な民族だなあと思います。日本には私たち中華民族が見習うべきところがいっぱい、いいところがいっぱいあります。このような優秀な民族が間違った考え方に騙されるわけにはいかないでしょう。100年をかけても解決されないという考え方、あまりにも悲観的です。私は楽観論です。どうして右翼は教科書問題を起こすかというと、やっぱり優秀な日本の青少年がこういう歴史を正しく認識しようとするから右翼は怖がって歴史問題を、教科書問題をやるわけでしょう。ですから私は明るい将来を信じています。ある日本の友人も悲観論で、私に対して、「いや、私たち日本人はこういうことをずっとやって、世界で孤立して、世界孤児になるのではないか。」というような言い方をしました。私は「そうはならない。」と言いました。というのは私は、皆さんのような、多くの進歩的な日本人がいてくれて、日本には明るい将来があるということを信じております。どうもありがとうございます。皆さんの時間をたくさんとりまして、どうもすみませんでした。

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Nさん

 今、おっしゃったように、例えばこの教科書の問題でも、ここにいる者たちはみんなそれぞれの県でどうやって押し返すかということでずっと闘争を組んできているのです。そして実際に、今回「つくる会」の教科書が採用されたところは微々たる数になりました。これは思いがけない、思いがけないと言ったら悪いんですが、頑張ってる者たちがビックリするほど本当に微々たる数として出てきました。だから、今おっしゃった「100年河清を待つ」式な考え方ではなくてそれを闘ってきた人たちに、自分たちの成果として若干報告してもらいます。100年経ったって汚れた河は直らないって学者は嘆いているって言うんでしょ、だから私は書斎の学者は駄目だと思っているのです。日本の歴史家がもっと早く声を上げてくれれば良かったんだけれども、あまりにも右翼の学者たちの言うことがバカらしいから日本の学者は取り合わなかったのですよね、教育者もね。その間に彼らの考えが広がっていって、そして右翼のジャーナリストがそれを載せていったっていう経過がありますからね、だからやっぱり、右翼が何かしたら、したその時に、1人ひとりが阻止しなければいけないのだろうと思うのです。Jさん、千葉の状況を報告してください。

Jさん

 千葉県で高校の教師をしています。30年来、主に歴史を生徒に教えてきました。だから、今回の歴史の教科書の問題は他人事ではない、自分のこととして考えてきました。

 今回の教科書問題は2段階ありました。まず、文部省が「つくる会」の教科書を認めるかどうかという段階、その段階ではわれわれは負けました。次の段階はそれぞれの地域の教育委員会がその教科書を採択するかどうかという段階です。私は教科書を文部省が認めるかどうかという段階から自分の地域で運動を始めました。千葉県の中には12の採択地区があります。ですから私は自分の地元の問題を中心にやったわけです。私は高校の教員の組合に属しており、また自分の地域の女性運動のグループに属しています。この問題が起こった時に私はまず女性たちに呼びかけて組織を作りました。そしてそれはもう少し大きな幾つかの都市の連合組織につながりました。千葉県という段階の組織もできました。そして先ほどご覧いただきました「教科書ネット21」という、全国的な大きな組織の一部にもなりました。

 第1段階では負けましたので、第2段階目に全力を傾けました。私の作った組織は何度も何度も市の教育委員会へ申し出に行きました。それからお手元にお配りしたようなビラを街頭で配って呼びかけたりもしました。労働組合やさまざまな教育運動をやっているグループを通じて署名も呼びかけました。そういうことをやりながら一方ではこの教科書が採択されそうな地域があるという情報をつかんだときにはすぐにその地域に向けて抗議や要請の行動を起こしました。文明の利器を使ってインターネットのメール、ファックス、電話、そういうモノを使って私は友人知人に情報を流し、私自身も抗議や要請文を次々と書いて毎晩毎晩眠れない夜を過ごしました。そういう呼びかけに応えていろんなところで反応が、連鎖反応的に起きていったと思います、全国的に。そして、「つくる会」の教科書を採用するかもしれないと言われた地域が次々と、採用しないと決定していきました。結果として1%にも満たない、子どもの数にすれば数十人という、それでも問題ですけれども、そういう結果になったわけです。しかし、これからまた新たな戦いが始まってゆくと思います。

Nさん

 それではもう1人、報告を。私たちは興隆に行った後で、みんなそれを学校で子どもたちに教えたり地域で語ったりしているのですが、その運動がやはり弾圧の対象になる、今までそういうことがスムーズに行われた地域にも、やはりそういう手が伸びてきている、だから、その中で頑張っている人たちです。その辺をちょっとKさん、お願いします。

Kさん

 私は大分県で小学校の教諭をしています。今回は大分から4人の仲間でこの会に参加しています。私は4回目です。興隆でおじいさんやおばあさんの話を聞くときに必ず言われるのは「帰ってから多くの人に伝えて下さい。」ということです。私たちはこの言葉を聞いて帰ってから、子どもたちや、同じ教員の仲間に広めようと、そういう取り組みをやっているところです。

 1つはいろんな学習会の場で、教員の仲間たちと一緒に興隆で聞いたことを学習するということです。2つ目は子どもたちに伝えるということで、わかりやすく紙芝居という形にして広めていっているところです。今、大分県では少しずつ、このことについて関心を持つ仲間が増えてきました。そして、今回は来れなくてもいつかは中国に来て自分の目で見たい、自分の耳で聞いてみたいという仲間も増えてきています。もう1つ広める手段、みんなに知ってもらう手段として、大分県の小、中学校の教室には必ずと言っていいほどある「カレンダー」に、ここでのことを是非載せたいと思って取り組んでいるところです。ところがそのカレンダーを教室に掲示することとか、そのカレンダーに関わることを学習するということに対して弾圧されるのです。何故かというと、日本軍がやったことを教えると、子どもたちが結局さっき話に出たような自虐的な考えを持つようになるというところから、そういう弾圧を受けるのです。けれども私たちはそういう考えでするのではなくて、子どもたちが大きくなった時本当に中国と仲良くなるためには、過去の事実をしっかりとわかった上でなければ本当の仲良しにはなれないという考えをみんな持っていて、その考えから、伝えようとしているんです。これからますます弾圧が厳しくなるんじゃないかなあと予想されるのですが、私たちも負けないで頑張っていこうと、今回の旅でその思いが強くなったところです。

Nさん

 それに一役買っているのが産経新聞。産経新聞は今の大分県だけでなくていろんな県で、平和教育を推進しようとする勢力の根をつぶすために、やたらと書き立てます。それに負けないでここにいる人たちは頑張っているということをご承知おき下さい。今言ったカレンダーもなくさせたいから、カレンダーの悪口も書き立てています、産経は。

陳さん

 私の文章を攻撃する論文はみんな、産経新聞に載っています。

Nさん

 おかしいんだけれど、やっぱりそれを読む人がいるのが困ります。じゃあ、時間が遅いから、お礼を申し上げてください。

Sさん

 今日お話を聞いて、とてもわかりやすくて感動しました。さっき、李さんが教科書問題のことで、新しい教科書を使うということが中国の人の心を傷つけるというよりも、日本の子どもたちの将来のことについての話をされたのですけど、私も本当にその通りだと思います。日本の子どもたちのほとんどの学校で採用されていないのだけど、一部採用されている学校があって、その子たちがその教科書で学ぶことでどんなこれからを迎えるのかと、そのことで悲しさと悔しさと憤りを感じます。陳さんが話したことも、600万人という数字ではなくて、1人、ひとりの生きた人間を殺すということ、それがすごい問題だということがわかりました。新しい歴史教科書の人たちは、南京の殺害された人数にこだわって、何人じゃないとか、そういうようなことを言ってるんだけど、人数じゃなくて本当に、生きた人間を殺すということが私はすごいことだと思いました。

昨日、興隆県で証言を聞いて、涙を流しながら話してくれた老人がいたり、戦時中赤ちゃんに食べさせるものがなくて、その子が死んでしまった方がましだと思ったと言うおばあちゃんに出会って、本当に言葉では言い表せないくらい悲しいという思いをしました。私は、ここを訪れて自分の目で見て、自分の耳で古老の証言を聞くことが出来ました。だからせめて、自分の教える子どもたちには歴史の真実をありのまま教えたいと思います。そして、自分の教えた子どもたちが、もっともっと日本と中国が仲良くなるように、真実を知った上で交流ができる子どもたちになってくれたらいいなと思って、これからも頑張りたいと思います。

Iさん

 私は今は退職しておりますが、35年間新潟県の高校で歴史を教えてきました。17、8歳の少年少女に、これからどうやって平和な世の中をつくっていくのかという、その教育をするためには、過去の歴史を正しく知っておくことが一番大切だというふうに考えています。最初の10年間ぐらいは、例えば広島の原爆など戦争の非常に悲惨な面を伝えることで、戦争を2度と起こしてはならないという考えを子どもたちに持たせようとしました。しかしそれは要するに負けたから大変なのであって勝てばいいのではないかと、もっと強い国になればいいのではないかというような考えを若干の子どもたちに持たせるという思いがけない展開になってしまったのです。

 今から20何年か前に、中国で日本軍が何を行ったのかということを正しく伝えようとする教育運動が全国的に広がってきました。731部隊の人体実験、あるいは南京大虐殺、あるいは華北における三光作戦、そういうことで日本軍が中国の人々を軽視だけではなくて、老人から女性子どもにいたるまで、非常に残酷な殺し方をしたのだということが、いろいろな映像と共に紹介できるような教材がつくられ、私もそれを使って生徒たちに戦争とは何であったのかということを伝えることができるようになりました。そういう授業で、生徒たちは、自分たちの父親や祖父の世代がこれほどひどいことをしたのかと、家にあっては良き父親であったようなその日本人が、戦場ではそのような残酷なことをやってきたのかということを知って非常なショックを受け、日本人として非常に恥ずかしい、日本人として中国の人たちに謝罪しなければならないという気持ちをほとんどの生徒が、特に男子生徒が、もしこのような状態におかれたら、自分だって何かするのではないか、やはり同じような残虐行為をするのではないかということを考えながら、強く戦争を起こすような事態にしてはならないという気持ちを持つようになったんです。最近の右翼的な歴史家たちは、これこそ、自虐的な史観だと攻撃するに違いありませんけれど、私はこれこそ一番愛国的な、日本をアジアの人々と、あるいは世界の人々と仲良くさせる、そういう本当に日本の将来を築いていくために必要な、愛国的な教育ではないかというふうに考えています。

 今日、陳先生、あるいは李先生の中国の戦争の歴史についてのお話、それから現在の日本の反動的な動きに対する非常な懸念をお聞きしまして、本当に私たちもじっとしてはいられないという気持ちになりました。その興隆に私も5年間通いましたがこの5年間の興隆行きが、今度の教科書問題にあたっても何もしないでいたのでは今年は興隆に行けないと、私は一応これだけのことをしましたという成果を持たなければとても興隆には恥ずかしくて顔が出せないのではないかという気持ちが強くて、それがやはり教科書を採択させない運動に私も参加する時の原動力になっていました。ご覧の通り私たち一行の世代は直接戦争の責任を負わない世代であると思いますけれども、しかし、日本が行ってきた歴史の事実に対する責任はやはり私たちにあるのですし、そして、その責任を感じて次の世代の子どもたちに隣の中国をはじめとする世界の国々と友好的に共に平和に生きていくんだと、そういう教育をしていかなければならないと思います。正直のところ、興隆に行って、子どもたちの熱烈歓迎を受けますと、私は本当に日本人の一人としていつも恥ずかしさ、心の痛みを感じます。その感じは5年間通い続けていく中で、最初の強さはだんだん弱まってきたようですけれども、しかし、やはりこれは大切にして、それをバネにして日本人の中で中国、それから日中友好の本当に草の根の運動を進めていく力としたいと思っております。本当に今日はありがとうございました。

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周さんの話

 司会をしていますが、一言言わせてください。先ほどからの先生方の話を聞いて私はとても感動いたしました。でも、私個人の意見ですが、私はいつも日本政府と右翼を区別して見ています。そして日本政府と普通の日本国民、普通の人民とは区別して見ています。私の知っている限り日中の友好関係は、民間の力によって促進されて結局国交樹立されました。それを私は知っています。今日は日本の先生方の話を聞いて私は本当に感動しました。更に日本の民間の力、日本人民に対しての理解が深まったという感じがします。歴史教科書問題と小泉靖国神社参拝問題は孤立した事件ではなくて、これは、極端に右に走っている人たちが軍国主義を復活させようとした現れの1つだというふうにとらえています。

 今日私は新聞の切り抜きを何枚か持って来ました。今私が持っているのは1996年9月18日の『人民日報』ので、そのテーマは「日本は十字路に立っている」という社説です。9月18日なのでその日は柳条湖事件の60周年なのですが、そういう歴史を振り返ってみて、歴史を勉強することは非常に意義を持っていると書いてあります。96年の時に日本は十字路、岐路に立っています。大きな選択、どういう道を選択するかというようなところにあったのです。

 では、今年はどういう道を選ぶかと言いますと、これは『人民日報』2001年8月14日の社説ですけれども、「正義に挑戦する行為」というテーマでした。その副題「小泉靖国参拝を評す」という社説でした。この最後のところに「第2次世界大戦はもう既に終わって56年も経って、歴史の足下は既に21世紀を踏みました。しかしそれなのに日本の首相が靖国神社を参拝するという行為は、私たちにもう1回注意を喚起させました。日本はどこへ行くだろうか。小泉は声明の中で、『アジアとの関係を改善したい』ということを言ったのですけれども、そういう言葉を聞きながら私たちは彼の行動を見よう、私たちは自分の目でそれを見守っていよう」ということです。

 1972年国交樹立以来、日中関係はだんだん良くなったのですけれども、しかしその中では、例えば中曽根さんが首相として靖国神社を参拝した時からこういうようないろんな緊張関係が、関係を緊張させる事件が何回もあってこういう事態となりました。しかし、そういう事態がだんだん増えたにもかかわらず、私たち中国人と日本人の民間活動は減っていないということは、私はこれからの日中友好のための重要な基礎となっていると思っております。多くの中国人が心配しているのは、日本が経済の面で大国になったということではなくて、日本がそれに満足せず、また政治大国、さらに軍事大国に走っていくことを心配するのです。明治維新から日本は近代化をして軍事の方に走って、結局、日本の国土を全部駄目にしたわけです。

 しかし逆に、戦後平和憲法のおかげで日本は大きな発展を遂げました。戦争を選ぶか、平和を選ぶか、その結果ははっきりしています。軍事に走って戦争を起こして、結局中国だけではなくてアジアの他の国々にも大きな被害を与えた日本軍国主義は失敗に終わったのですけれども、しかし、今は極端に右に走っている人がそれを復活させようとしている。私たちは勿論それを許さない。しかし、私はこの場で日本の先生方の話を聞いて心から感動いたしました。私は皆さんの、つまり正直で平和を愛する日本人の声を自分の耳で聞きました。イギリスの哲学者ベーコンに「歴史を勉強することで人間の頭をよくする」という言葉があります。私たちの昔の総理である周恩来さんにも「事実を尊重するということは真理を尊重するということです」という言葉があります。私は先生方が、これから日中友好のために頑張る、正しく歴史を伝えることに頑張るということを聞いて、慰めになっています。私たちもそういう方向を目指して頑張っていきたいと思います。皆さんのたくさんの時間をとって申し訳ございません。どうもありがとうございました。

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