興隆県における日本軍無人区政策の実態

トウさんの講義

1997.8.17 於:興隆県政府招待所

 

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右の写真はトウさん
トウさん写真
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トウさんの紹介
 トウ先生は、最終的には興隆県の党史研究室主任をされていて退職された方ですが、中国が解放されたとき、河北省・熱河省・遼寧省・チャハル省の連合大学の学生さんでした。そして会報最初に熱河省主席になった方が200人の学生を連れて赴任して来て、トウさんは元々錦州の方なのですが、興隆県の教育関係者として分配されました。それからずっと興隆県に住んで、教育関係の他にも水利の大きな仕事や文化関係の仕事をしていらした方です。県下のいろいろな支部の書記もなさってらして、地方に入って農民の目の高さでものを見ることができる立派な方だと思います。何処へ行ってもその方の立場に立って話しかけられるので、私が連れて歩いていただいたときも、トウさんの話しかけによっておじいさん達が心を開いてくださったのです。50年前の日本人と違う日本人が来たから安心して話していい、酷い目にあったこと、大変だったことを黙っていては行けない、日本の人たちはこちらのことを知らないのだから思い切ってみんな話していいよと、おじいさん達が話せるようにして下さったのです。そういう人柄の方だということを始めに申し上げておきます。

 

トウさんの講義 -------------------------

 日本の友人の皆さんがおいでになったことに対し、折衷より歓迎の意を表します。それでは、興隆県の歴史についてご紹介させていただきます。
古人曰く「前のことを忘れず、これからの戒めとする。」という言い方があります。私がここで皆さんと昔の不愉快な一時期の歴史を振り返るのは、今後こういうことを二度と起こさないようにするためであります。中日両国の友情がいつまでも続けられますよう期待しています。

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無人区とは

 皆さんご存知のことと思いますが、第二次世界大戦の時に南京で大虐殺という事件が起き、世界を震撼させました。そのことは皆しっていますけれども、日本侵略軍が中国を侵略したときに、他にもう一つの事件を起こしたことは知らない人がいるかもしれません。それはつまり、日本侵略軍が中国に入って、長城沿線で膨大な1000華里(500キロ)を越えた無人区を作ったということです。それは山海関の北側の綏中、建昌、凌源県境から長城に沿って独石口までつづいていました。この無人区は東西の長さは1000華里で、南北の幅は数十華里から120華里くらいありました。総面積はだいたい3万平方キロメートルくらいあります。当時の人口は約100万人居りました。世界でこのような大きな無人区を作ったのはここだけです。日本人の侵略者のこの無人区に対する支配は非常に残酷なものでした。4年間に無惨に殺された人は10万人くらいいました。無人区で10万人くらい殺されたことは、第二次世界大戦の中においても、ファシストの行為から見てもやはり唯一のものでした。

 1982年、中国人民が日本の文部省と教科書事件を批判する時の人民日報の8月12付けの記事によりますと、そのタイトルは「凄惨な人圏の無人区」でした。そしてその文章の横に無人区の位置図(日本軍が興隆県で作成)を付けました。その位置図は、日本軍が興隆県で事件を起こした時の場所をあらわしています。今この地図は北京歴史博物館の中に置いてあります。このことからも興隆県は無人区の重点地区だということがおわかりでしょう。興隆県内の、日本軍が作った無人区は東から西まで200華里ありました。南北の幅は100華里くらいありました。興隆県だけでも4年間に5万人位殺されました。それは当時の興隆県の総人口の3分の1を占めていました。興隆県内の無人区は1000華里の中の一番残酷な無人区でした。

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時代背景

 次に無人区を作った時の背景を説明します。1868年日本の明治維新以降、日本国は軍国主義の道を歩むようになり、その時から大陸政策もできました。1927年4月、田中義一内閣の時に、「支那を治めるためには満州族・モンゴル族を治めなければならない。世界を治めるためには支那を治めなければならない」と言いました。当時の満蒙、満州という所は中国東北の4省のことを指していました。黒竜江省、遼寧省、吉林省、熱河省の4省です。満州の問題は日本軍が大陸政策を実施することの前例とされました。

 九・一八事件が起こった後、日本政府が「熱河省を治めなければ満州国を成立させることは出来ない」と言っていました。ですから1933年2月日本軍は速やかに熱河省を占領しました。

 1938年、宋間、トカの指導する中国第八路軍が毛沢東の指導を受けて霧霊山は燕山山脈の主峰で、興隆県の中にあります。標高2180メートルです。日本軍は興隆県を無人区の重要な場所として考えていました。共産党の八路軍は興隆県を根拠地とすることで、お互いの矛盾がますます激化してきました。日本軍は一生懸命満州を守ろうと思っていました。日本軍は長城沿線で1000華里の絶縁(遮断)帯を作りました。人も生きるものもすべてなくして、八路軍の進軍を食い止めようと思っていたのです。無人区を作ったのは日本軍が満州国を守るための一つの政策として決めたものです。

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無人区を作った過程

 次に興隆県無人区を作った過程です。『興隆革命簡史』の27ページを開いてください。1943年から日本と中国の抗争は沢山の無人区を我が侭に作ることと、一生懸命に無人区を守るということに焦点を集中しました。

 何が無人区であるか、日本軍の文献にはこういう説明がありました。「冀察熱国境地区の当面の形成を考えるに、第1の要諦は、匪賊(八路軍)の活動を隔離することにある。いわゆる集家というのは、敵の遊撃区になる国境地区の住民を我が拠点及び付近地区に集結させ、住民を完全に敵(八路軍)の活動と隔絶することである。我が方がそれをすべて掌握し、敵軍のいわゆる人力・物力の動員工作を封鎖するということである。」

 満州国西南国境線上で大規模の集家を通して、この地区に住んでいる住民を全部追い出して膨大な無人地帯を作り、ここに来た八路軍に中国人ひとりも見られないようにし八路軍と人民大衆との水と魚の関係を隔絶させる。水を干上がらせて、魚を出させるという目的を達成させるためにやるのです。これは、一般の住民を追い出したら八路軍が出てくるということを指しているのです。

 日本軍が興隆県で無人区を作ったのには、3つの時期がありました。

 第1期は日本軍が小規模の集家を推し進めた時期です。早くも1939年八路軍が興隆県に入った時に日本軍が作戦のために小集家を作った時期がありました。

 第2期は、日本軍が戦略上全面的に小集家を推し進めた時期です。1941年の夏の始め頃、日本軍華北方面軍は東満(遼寧省・吉林省)の小集家を推し進めた軍隊を興隆県に移動させました。当時八路軍を討伐したことのあるベテラン岸谷隆一郎が熱河省の副省長に任命されました。武藤喜一郎は熱河省の警務庁長に任命されました。それと同時に楊靖宇、趙尚志将軍達を攻めるのに功績のあった憲兵、スパイ、特務、大量の警察と傀儡満州軍を興隆県に調達してきました。31ページを御覧になれば、興隆県ただ1県の中にもこれだけの討伐部隊が入っていたことがわかると思います。正式な日本軍の他に傀儡満州軍と討伐隊、警察を合わせて2万人くらい駐隊しました。この2万人くらいの兵隊は、当時の八路軍の30パーセント以上に相当します。

 この地帯を整理するために日本軍は興隆県で2回、検挙活動を行いました。1942年の旧正月、日本軍は興隆県で2000人くらいを逮捕しました。1943年の旧正月も1回で日本軍は興隆県の人を5000人くらい逮捕しました。

 酒河という川があります。酒河の楸木林という所は55戸の小さい村でしたけれども、44人逮捕されて、38人が殺されました。ですから、その村は後で寡婦の村(未亡人の村)になりました。茅山は20戸の村ですが、28人が連行され、第2の寡婦村となりました。

 第3期は、大規模な集家を実施した時期です。このとき興隆県の2万人の日本軍と傀儡軍と討伐警察隊を出しました。3月、4月、5月、6月連続して、強制的に大集家をやりました。当時日本軍内の命令では、草1本も木1本も残さないという命令が出ました。

 1943年の3月19日、午後の6時から、承徳日本憲兵隊第2遊撃隊長生田大尉が率いる憲兵140名が茅山の黄崖関一帯のまだ捕まっていなかった病人、老人、婦女、幼児合わせて39名を捕まえ、山の奥に連行して、水野、植松、高橋、田中、尾崎という5人の憲兵の手によって全員を殺しました。植松兵長だけで45歳〜60歳までの女性を9名、60歳前後のおじいさんを5名、2歳くらいの女の子を1名殺しました。これは彼の自供記事にあり、自分でも認めています。(中帰連・植松さんが書いていることをこちら側の資料から話している)。そして、藁で死体を覆い、ガソリンをかけて火を点けて燃やしたんです。そしてその内の3名はまだ息があるのに焼き殺されたのです。

 その後の1週間くらい、まだここにいたんです。そして200名くらい(その大部分は青年)を逮捕して東北に送って、ソ連との戦いに備えるために陣地を構築させたんです。

 1943年の3月、4月、5月、6月の4ヶ月間、興隆県の山全部に火が燃え続けたんです。50キロ以内にモクモクと煙が上がりました。当時の人の話では、1000くらいの村は全部燃えた煙で真っ暗になり、日本軍は黄色い服を着ていたでしょう。だから「黄色い鬼が騒いだ」という言い方がされました。

 山奥では2000くらいの村が壊されました。興隆県の111820人が人圏に追いやられました。中国人は人圏と言い、日本人は部落といいます。111820人は当時の興隆県の人口の81パーセントを占めました。(地図を示しながら)印を付けている所が全部無人区だったんです。興隆県の43パーセントの面積を占めました。絶対、1人も入ってはいけなかったんです。

 地図の白い所に225の人圏を作りました。そこに111820人を集中させて入れたんです。土地を耕してはいけない、住んではいけないという所を作って、そして三光政策を展開したのです。

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無人区の配置と実態

 黒いところを部落帯(人圏)と言います。無人区の中には人圏がある。犬には犬小屋があるし、羊には羊小屋があるという意味の人囲いです。斜めの線を引いているところは人が入ったり耕したりしてもいけない所(無人禁作地帯)、無人区です。もう一つは部落帯(人圏)と無人区との間に、住んではいけないが耕すことは許される所です(無住耕作地帯)。だから、3つの部分に分かてている。無人区と、人圏と、住んではいけないが耕すことは許されている所。人圏という所には土の塀があり、その高さは一丈二尺、その土に鉄条網が張り巡らされている。はっきり言って、人圏は小さな土の城です。一番小さいものでも少なくとも100戸入れないといけない。一番大きな人圏は800戸。明日行くモクイの人圏は一番大きなものでした。この話の後に行く二道河は普通の人圏だったんです。学名で言うと、人圏は「集中営」と言います。人圏に入れた人は地元の一部分の人の他、ほとんど山奥から来た人です。スペースが限られているから、部屋の大きさとか全部規定がありました。庭の広さは3×3メートルを越えてはいけない。地元の人は2.7×5、他所から来た人は2×2くらいでした。地上部分はその規定の大きさですが、上から見ると、尖った形をしていて、ドアも潜り込んで入るようになっています。オンドルとかまどが一緒になっていて、豚も犬も一緒に入っていて、人も動物も一緒でした。モクイへは4000人くらいが集中しました。密度が高すぎて、人と動物も一緒で非衛生的でした。トイレと部屋が繋がっているんです。

 1943年、44年、45年には、瘟疫・伝染病が流行りました。日本軍には七三一部隊がありました。承徳の陸軍病院は七三一部隊の支部でした。人圏の中では人体実験もありました。細菌の実験、毒ガスの実験などもあり、村の環境が悪化し、腸チフス、コレラ、赤痢、マラリア、敗血病、流行性出血熱などが発生しました。1943年の1年間に人圏の中で6000人くらいが死んでいます。モクイの人圏では1日に53人が死にました。大水泉の人圏では2年間に600人くらい死にました。それは人圏の中の総人口の40パーセントを占めました。柳河口の人圏では3年間で634人、人圏内の62パーセントの人が死にました。

 最初は人が死んだらそれを埋める人がいましたが、死ぬ人が増えるにつれてだんだん埋める人もいなくなるから、死体が村全体に散らばって、臭い匂いが漂ってきました。

 人圏の中の人は自由は全くなかったですね。昼は遠くまで行ってはいけない。夜はドアを閉めてはいけない。日本軍、警察、満州傀儡軍は勝手気ままに各家の中に入って戸籍を調べたりすることもありました。財物を見たら勝手気ままに略奪し、若い女性を見たら侮辱したり強姦したりと勝手気ままにしていました。

 組合制度があり、農民が作ったものを全部役所に納めていました。そして必要なものを配給されました。一人あたり1年間の布は7尺半(2メートルちょっと)、小麦粉は一人あたり毎年900グラム、大豆油は4両、マッチは毎月各戸に1箱でした。本当に各段階にまた取られるんです。例えば、部落長とか警察長とかを通して住民に配給するから、一人あたり手に入れる布は1メートルくらいしかなかった。その布もあまり丈夫なものでなかった。すぐ破れるような布で、だから農民達はそれを、唾を付けたら穴があくと言いました。農民達は冬でも綿を手に入れることが出来なかったから、冬の寒さをしのぐことが出来ませんでした。川に入って水藻を採って、その藻を乾かして綿の代わりに間に入れて着ていたんです。食べたものは食料じゃなくて餌でした。黒くなった高粱(コーリャン)とか腐ったような食料でした。食べるものも着るものも無く、例えば布団も1軒の者が1つの布団で寝ていました。ズボンも夫婦2人で1つで、出かける方が交代でそれを穿くんです。農村の娘達も着る者がなかった。家の中に穴を掘って、誰かお客が来たらそこに隠れるんです。

 日本軍と警察は支配の管理においても厳しかったです。もし、一般庶民が2、3人一緒に会って話したら、それも違法だったんですね。着るものもボタンを5つ付けたらいけなかった。5つ付けたら八路軍に通じるというように言われました。それから、米と麦のある家は、それは経済犯罪と言われて、八路軍に通じていると判断されました。六道河のある農民が町で吐き気がして吐き出したんですね。そしたら吐いた中に米粒が幾つか入っていた。それを見た日本軍がこの人は何処から米を手に入れたのか、八路軍に通じていたのではないかと判断してその人を捕まえたんです。

 人圏の中にはそれぞれ牢屋がありました。日本軍、警察は簡単に人圏の中の人間を死刑にすることが出来たんです。死刑にはいろんな方法がありました。その中の1つは「倒栽蓮花」、要するに蓮の花のように、頭を逆さまにして生き埋めにした。もう1つは「 綉球」釘を付けた籠の中に人を入れてコロコロ転がすもの。もう1つは「雷磨粉身」、特別製の電気摩擦器で人間の肉の細切れにするものなどです。双 という所で、ここは孟副県長の義理のお父さんが住んでいる所ですけれども、当時日本軍の中川さんという人が生きた人の心臓を取り出して50くらい食べました。人間ではなくもう狂気じみていました。人圏という所は、中国人の言い方では人間の地獄ですね。無人区はどうだったでしょう。当時は無人区の中に入ったら、人も動物も何の姿も見られなかった。無人区には当時7910戸が入っていて、人口は26230人いました。彼らは高い山と森林の中に入り込んでいました。彼らは山を根拠地にして闘いました。当時の無人区にはすべて共産党と抗日政府の指導がありました。無人区には八路軍の遊撃隊の指示もありました。無人区の26230人は、みんな日本軍と闘う兵隊となりました。中国の兵士になりました。この人達は、男性は鉄砲を背負い、女性は籠を背負いました。籠の中はナベとか食器などを入れて、どこでも自分の家のような感じにしました。午後、私たちも見学することになりますが、「朱家溝」という所では、みんな自分の村を戦場にして闘いました。山の中に洞窟があって、その中に隠れたりしながら日本軍と闘ったのです。その後その洞窟は英雄洞窟という名になりました。

 もう1つの村は「成功村」と言います。各種の地雷を利用して日本軍と闘いました。もう1つの村は、「小西天」と言います。この村は馬蹄形の山の上にあり、日本軍はなかなか上がれませんでした。この村の人々は高い険しい山の上にいるから、長城の上の銅製の大砲を持ってきて、日本軍と闘いました。銅製の大砲は1メートルくらいの長さで、30キログラムの重さがあり、1.5キログラムの弾薬を使いました。

 日本軍は山の中で沢山の人を殺しました。山の中は、人は居ることが許されなかったから、見付かったら殺されるんです。1944年1月21日、日本軍の2つの討伐隊に山の中で包囲されて、雪が降る中、全員裸になれと命令されて、心臓を取られたり、目をくりぬかれたり、生殖器を取られて死んだ人もいました。妊娠中の人は腹を割かれて、胎児を取られて死んでしまいました。賈成富という人は、白骨が出るまでシェパードに噛まれました。

 沢山の人が殺されたのでその地元の人の反抗は激しかった。圧迫があれば、反抗も激しくなるのです。日本軍が来て、村民たちはみんなの山の洞窟に隠れているんですが、子どもを連れている人が居て、子どもは何も判らず泣き出すんですね。それで、泣き出したらみんなばれることになる。それでお母さんが子どもに乳をふくませて、呼吸を出来なくさせて、子どもが死んだ例もありました。興隆県の中で、四、五、六の3つの区の中で、そういう形で多くの人を守るために自分の子を死なせた人が11人いました。

 五指山の裏に張さんという女性が居りました。彼女は八路軍の道案内をするときに、自分の子を氷の上で産んだんですね。だから、その子どもの名前を「氷児」と付けました。

 柵子溝で日本軍に21人が捕まえられました。その内の3人の老人を縛って、下に火を燃やしてあぶりながら、八路軍は何処へ行ったかと拷問しました。3人の老人とも口を固く閉ざしました。その内の1人が日本軍に銃剣で7回突き刺されて死にました。

 劉杖子という所の陳広起という人は、人圏に入らず、山に隠れて、洞窟の中で3年間生活しました。髪が1メートルくらいに伸び、中国の物語の「白毛女」のようでした。

 興隆県が抗日戦争に勝利をおさめたことは、そうたやすいことではありませんでした。抗日戦争の中で中国側は3500万余人、興隆県の中でこの13年の間に5万人くらいが殺されました。全中国の死者の700分の1です。県の統計資料によると、興隆県で最後の4年間で15400人殺されました。興隆県公安局の1954年の7つの区に対する不完全な統計によると、人圏の中の住民が疫病、凍死などで死んだ人が11400余人いました。1941年日本軍の統計数字によると全県の人口は16万人くらいいました。日本軍が投降後、全県の人口は10万人くらいになっていました。6万人くらいが殺されたことになります。

 

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 毛沢東が言ったとおり、中国の長期戦争は、中国人民に重大な犠牲を払わせました。しかし、それと同時に、この戦争に出会ってこそ、中国人民は鍛えられたのです。この戦争は、最近100年の中国人民のいかなる偉大な闘争の中でも得られなかったような覚悟と団結を中国人民にもたらしました。ですから、今後の平和と友好のために、私たち日中両国民は世々代々友好的にやっていかなければなりません。以上で私の話を終わります。

 

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