黒いところを部落帯(人圏)と言います。無人区の中には人圏がある。犬には犬小屋があるし、羊には羊小屋があるという意味の人囲いです。斜めの線を引いているところは人が入ったり耕したりしてもいけない所(無人禁作地帯)、無人区です。もう一つは部落帯(人圏)と無人区との間に、住んではいけないが耕すことは許される所です(無住耕作地帯)。だから、3つの部分に分かてている。無人区と、人圏と、住んではいけないが耕すことは許されている所。人圏という所には土の塀があり、その高さは一丈二尺、その土に鉄条網が張り巡らされている。はっきり言って、人圏は小さな土の城です。一番小さいものでも少なくとも100戸入れないといけない。一番大きな人圏は800戸。明日行くモクイの人圏は一番大きなものでした。この話の後に行く二道河は普通の人圏だったんです。学名で言うと、人圏は「集中営」と言います。人圏に入れた人は地元の一部分の人の他、ほとんど山奥から来た人です。スペースが限られているから、部屋の大きさとか全部規定がありました。庭の広さは3×3メートルを越えてはいけない。地元の人は2.7×5、他所から来た人は2×2くらいでした。地上部分はその規定の大きさですが、上から見ると、尖った形をしていて、ドアも潜り込んで入るようになっています。オンドルとかまどが一緒になっていて、豚も犬も一緒に入っていて、人も動物も一緒でした。モクイへは4000人くらいが集中しました。密度が高すぎて、人と動物も一緒で非衛生的でした。トイレと部屋が繋がっているんです。
1943年、44年、45年には、瘟疫・伝染病が流行りました。日本軍には七三一部隊がありました。承徳の陸軍病院は七三一部隊の支部でした。人圏の中では人体実験もありました。細菌の実験、毒ガスの実験などもあり、村の環境が悪化し、腸チフス、コレラ、赤痢、マラリア、敗血病、流行性出血熱などが発生しました。1943年の1年間に人圏の中で6000人くらいが死んでいます。モクイの人圏では1日に53人が死にました。大水泉の人圏では2年間に600人くらい死にました。それは人圏の中の総人口の40パーセントを占めました。柳河口の人圏では3年間で634人、人圏内の62パーセントの人が死にました。
最初は人が死んだらそれを埋める人がいましたが、死ぬ人が増えるにつれてだんだん埋める人もいなくなるから、死体が村全体に散らばって、臭い匂いが漂ってきました。
人圏の中の人は自由は全くなかったですね。昼は遠くまで行ってはいけない。夜はドアを閉めてはいけない。日本軍、警察、満州傀儡軍は勝手気ままに各家の中に入って戸籍を調べたりすることもありました。財物を見たら勝手気ままに略奪し、若い女性を見たら侮辱したり強姦したりと勝手気ままにしていました。
組合制度があり、農民が作ったものを全部役所に納めていました。そして必要なものを配給されました。一人あたり1年間の布は7尺半(2メートルちょっと)、小麦粉は一人あたり毎年900グラム、大豆油は4両、マッチは毎月各戸に1箱でした。本当に各段階にまた取られるんです。例えば、部落長とか警察長とかを通して住民に配給するから、一人あたり手に入れる布は1メートルくらいしかなかった。その布もあまり丈夫なものでなかった。すぐ破れるような布で、だから農民達はそれを、唾を付けたら穴があくと言いました。農民達は冬でも綿を手に入れることが出来なかったから、冬の寒さをしのぐことが出来ませんでした。川に入って水藻を採って、その藻を乾かして綿の代わりに間に入れて着ていたんです。食べたものは食料じゃなくて餌でした。黒くなった高粱(コーリャン)とか腐ったような食料でした。食べるものも着るものも無く、例えば布団も1軒の者が1つの布団で寝ていました。ズボンも夫婦2人で1つで、出かける方が交代でそれを穿くんです。農村の娘達も着る者がなかった。家の中に穴を掘って、誰かお客が来たらそこに隠れるんです。
日本軍と警察は支配の管理においても厳しかったです。もし、一般庶民が2、3人一緒に会って話したら、それも違法だったんですね。着るものもボタンを5つ付けたらいけなかった。5つ付けたら八路軍に通じるというように言われました。それから、米と麦のある家は、それは経済犯罪と言われて、八路軍に通じていると判断されました。六道河のある農民が町で吐き気がして吐き出したんですね。そしたら吐いた中に米粒が幾つか入っていた。それを見た日本軍がこの人は何処から米を手に入れたのか、八路軍に通じていたのではないかと判断してその人を捕まえたんです。
人圏の中にはそれぞれ牢屋がありました。日本軍、警察は簡単に人圏の中の人間を死刑にすることが出来たんです。死刑にはいろんな方法がありました。その中の1つは「倒栽蓮花」、要するに蓮の花のように、頭を逆さまにして生き埋めにした。もう1つは「 綉球」釘を付けた籠の中に人を入れてコロコロ転がすもの。もう1つは「雷磨粉身」、特別製の電気摩擦器で人間の肉の細切れにするものなどです。双 という所で、ここは孟副県長の義理のお父さんが住んでいる所ですけれども、当時日本軍の中川さんという人が生きた人の心臓を取り出して50くらい食べました。人間ではなくもう狂気じみていました。人圏という所は、中国人の言い方では人間の地獄ですね。無人区はどうだったでしょう。当時は無人区の中に入ったら、人も動物も何の姿も見られなかった。無人区には当時7910戸が入っていて、人口は26230人いました。彼らは高い山と森林の中に入り込んでいました。彼らは山を根拠地にして闘いました。当時の無人区にはすべて共産党と抗日政府の指導がありました。無人区には八路軍の遊撃隊の指示もありました。無人区の26230人は、みんな日本軍と闘う兵隊となりました。中国の兵士になりました。この人達は、男性は鉄砲を背負い、女性は籠を背負いました。籠の中はナベとか食器などを入れて、どこでも自分の家のような感じにしました。午後、私たちも見学することになりますが、「朱家溝」という所では、みんな自分の村を戦場にして闘いました。山の中に洞窟があって、その中に隠れたりしながら日本軍と闘ったのです。その後その洞窟は英雄洞窟という名になりました。
もう1つの村は「成功村」と言います。各種の地雷を利用して日本軍と闘いました。もう1つの村は、「小西天」と言います。この村は馬蹄形の山の上にあり、日本軍はなかなか上がれませんでした。この村の人々は高い険しい山の上にいるから、長城の上の銅製の大砲を持ってきて、日本軍と闘いました。銅製の大砲は1メートルくらいの長さで、30キログラムの重さがあり、1.5キログラムの弾薬を使いました。
日本軍は山の中で沢山の人を殺しました。山の中は、人は居ることが許されなかったから、見付かったら殺されるんです。1944年1月21日、日本軍の2つの討伐隊に山の中で包囲されて、雪が降る中、全員裸になれと命令されて、心臓を取られたり、目をくりぬかれたり、生殖器を取られて死んだ人もいました。妊娠中の人は腹を割かれて、胎児を取られて死んでしまいました。賈成富という人は、白骨が出るまでシェパードに噛まれました。
沢山の人が殺されたのでその地元の人の反抗は激しかった。圧迫があれば、反抗も激しくなるのです。日本軍が来て、村民たちはみんなの山の洞窟に隠れているんですが、子どもを連れている人が居て、子どもは何も判らず泣き出すんですね。それで、泣き出したらみんなばれることになる。それでお母さんが子どもに乳をふくませて、呼吸を出来なくさせて、子どもが死んだ例もありました。興隆県の中で、四、五、六の3つの区の中で、そういう形で多くの人を守るために自分の子を死なせた人が11人いました。
五指山の裏に張さんという女性が居りました。彼女は八路軍の道案内をするときに、自分の子を氷の上で産んだんですね。だから、その子どもの名前を「氷児」と付けました。
柵子溝で日本軍に21人が捕まえられました。その内の3人の老人を縛って、下に火を燃やしてあぶりながら、八路軍は何処へ行ったかと拷問しました。3人の老人とも口を固く閉ざしました。その内の1人が日本軍に銃剣で7回突き刺されて死にました。
劉杖子という所の陳広起という人は、人圏に入らず、山に隠れて、洞窟の中で3年間生活しました。髪が1メートルくらいに伸び、中国の物語の「白毛女」のようでした。
興隆県が抗日戦争に勝利をおさめたことは、そうたやすいことではありませんでした。抗日戦争の中で中国側は3500万余人、興隆県の中でこの13年の間に5万人くらいが殺されました。全中国の死者の700分の1です。県の統計資料によると、興隆県で最後の4年間で15400人殺されました。興隆県公安局の1954年の7つの区に対する不完全な統計によると、人圏の中の住民が疫病、凍死などで死んだ人が11400余人いました。1941年日本軍の統計数字によると全県の人口は16万人くらいいました。日本軍が投降後、全県の人口は10万人くらいになっていました。6万人くらいが殺されたことになります。