熊本大学にあって長年にわたって水俣病に向き合い、患者さんに寄り添ってこられた原田先生のお話を聞きました。熊本大学から熊本学園大学に移ると同時に「水俣学」を提唱された先生は、学園大を退官されたばかりで、ご病気を抱えながらも精力的に活動されている素敵なお医者さんです。
世界各地の公害の現場を歩いている先生は、1976年中国政府の招聘によって中国の環境問題に関わった経験もおありとのことでした。以下お話の概略(文責 J )です。
<公害の原点水俣病>
医師が伝染病を疑って保健所に届を出だした1956(S.31)年5月1日が水俣病の公式発見の日ということになっているがその前から予兆はあった。54年「猫が癲癇で死ぬ」という記事が地方新聞に出たが、面白おかしい記事で終わってしまっている。最初の患者は幼い姉妹であった。海辺に接している船大工の家だった。自然の中に自然と共に生きている人たち、特に子ども、老人、病人という弱者が最初の被害者だった。医学では病像によって病気を分けることをやるため、他の病気があるからといって水俣病と認定されない患者があったが、環境汚染の怖さはむしろ病人や、子ども、老人といった社会的弱者に現れる。
伝染病が疑われ奇病とされた水俣病の原因がわかるまでに3年半かかった。熊本大学の研究で1910年代イギリスで起きた有機水銀中毒である労働災害ハンター・ラッセル症候群がぴったりの症状とわかり、1959年熊本大学は水俣湾の魚介類を摂取したことによる有機水銀中毒との結論に達した。その後チッソ水俣工場がアセトアルデヒト(ビニルの原料)製造の触媒として使っている水銀が有機化することが証明され1968年漸く水俣病は公害と公式に認定された。毒は薄めれば毒でなくなるという原理によって、有機水銀は不知火海に流され続けた。しかし自然界には毒を濃縮していくシステムもあるというもう一方の不都合な原理を忘れていた。ビニルやプラスチックを便利に使っている私たちはこのことと無縁ではない。
水俣病は 一に世界初の環境汚染による中毒であり、二に食物連鎖によって濃縮された毒物が胎盤を通過して胎児性患者を生み出したことが公害の原点といわれる所以である。
<患者たちから叱られて>
「胎児性患者」の存在を確信した契機は、子どもたちの母親の言葉だった。大学病院にいて患者を診察している時、水俣から熊本まで出てくるだけでも患者にとっては大変なことだと知って、水俣へ出掛けていってみると、海の幸を主食としてきた漁民たちの暮らしが見えてきた。豊な海の恵みを得て海辺で暮らしてきた人々は、豊漁があれば皆同じものを食べ、同じ病気になって当然だとわかる。霞が関にいてはわからない。奇病として水俣市民からも白い目で見られ、魚は売れず病気に苦しみながら貧困の中で暮らしていた。どん底の苦しみの中で患者達は受診を拒否し、あるいはどうせ直らないなら見てもらわんでいいという。治らない病気に対してどうしたら良いのか、医師としての原点になった。
全く同じ症状の幼い兄弟のうち兄は水俣病、弟は魚を食べていないから脳性まひという診断に母親は疑問を持っていた。そして同様の症状をもつ子どもたちが水俣病多発地帯にいた。母親は「この子が私のお腹の中での水銀を吸ってくれたから私の症状は軽くて済んでいる」と、「胎盤は毒を通さない」という当時の医学の常識に反することを言った。そして子どもたちの症例調査の結果は、他の医師の解剖結果に一致、更にはマウスの実験によって母親の言葉が証明され、自然界に無い有機水銀は胎盤をすり抜けていた。その後へその緒と環境汚染の水銀値が一致した。胎盤は環境であった。この後カネミ油症、サリドマイド児等でも胎児性患者が出るという意味でも公害の原点になる。水俣の胎児性患者が人類史上初めての経験であった。
<宝子たち>
胎児性患者は微妙なところで流産や死産に至らずに生まれてきた貴重な存在。人類にとっての宝なのだが、保障金を払えばいいでしょ、と放り出されている。
23歳で亡くなった上村智子ちゃんは、“お母さん!”とさえいわず、ついに言葉を発することなく亡くなった。では彼女は無価値な存在だったか?お母さんは智子ちゃんを「宝子」と呼び、私のお腹の毒を吸い、後から生まれた弟妹が元気なのも智子のおかげといい、上村家は智子ちゃんをとても大切にした。この智子ちゃんはユージンスミスの写真を通して世界中の何億もの人々に強烈なメッセージを残した。
新潟水俣病では胎児性患者は一人だけ。新潟県が子どもを生むなという指導をしたため。一方、カネミ油症事件で胎児性患者が多発した五島列島はクリスチャンの地域だということが現地を訪ねてわかった。反公害運動と障害者運動が協調しにくい現象とあわせて命の意味が問われている。
干潟は役に立たないから埋め立ててしまえという発想があるけれど、食物連鎖の頂点にいる人間の命は干潟の小さな虫の命とつながり、命はめぐりめぐっている、子どもたちの未来のために循環型の自然を守ることが大事である。
<水俣学のめざすもの>
公害は貧しいもの、弱者の上に現れる。公害があるから差別されるのではない。社会の負の部分が弱者に押し付けられるから、差別があるところに公害が起こることは、世界各地の公害の現場を歩く中で、特にカナダの先住民を訪ねた時に確信した。彼らはまた自らが自然の恵みをいただいて生きているという認識の文化を持っているが、その文化社と会が消えようとしている。
当初、水俣市民は迷惑な存在として患者を疎んじ排除しようとし、労働組合も革新的政治組織も患者達に冷たかった。
そういう水俣を避けてよそへ行っていた人たちが今、高度機能障害を抱えて帰ってきているが、彼らは保障の対象になっていない。不知火海沿岸の包括的公的調査も行われていないから正確な患者の数もわからない。水俣病はまだ終わっていない。今年施行される特措法によっても幕引きは出来ない。
水俣病という歴史的社会的事件の解決を医学の問題として矮小化したことは間違いであり、社会学、歴史学、法律学、生物学など様々な分野の学問が協力し合って総合的に取り組んでいれば今日のような事態は避けられたのではないか。そうした問題意識で「水俣学」を立ち上げた。水俣病とは現代にとってどういう意味を持っているのか。総合的な学問として、最後の仕事にしたいと思っている。
先生は医者として現場に足を運び、患者に寄り添い、患者に学ぶ態度を貫かれてきた。胎児性患者達の生活拠点「ほっとはうす」にも深く関わっていらっしゃる。また、三井三池の炭塵爆発による一酸化中毒患者にも患者の側に立って関わってこられた。それだけに患者の信頼は篤い。静かな語り口の中に弱きものを大切にしない世の中に対する憤りが時折噴出するお話だった。