会報2010年秋

 

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 韓国併合と大逆事件から100年の今年、政権交代から1年経ちましたが、植民地支配と戦争戦後責任が依然あいまいです。皆様もそれぞれの場で奮闘されていることと思います。今年の活動を報告します。

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大きな変化と変わらない友情
    3年ぶりの第11次「興隆の旅」報告

 興隆訪問は、一昨年は北京オリンピックの混雑を避けて、昨年はインフルエンザの流行期に重なったため、中止しました。劉教育局長からは「皆さんと私たちは永遠の友人です。興隆は何時までも皆さんを歓迎します」とメッセージをくださいました。そして今年3年ぶりの興隆訪問が実現しました。参加者は初参加者5人、通訳2人の総勢17人でした。




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<興隆街で>


 8月17日、成田空港から9人、福岡空港から7人、北京で1人合流して、事前学習と打合せをして、翌日バスで興隆に向かいました。途中雨の後の悪路に悩み、約3時間かかって興隆街に到着すると新任の史連富教育局長が出迎えてくださいました。
 昼食後抗日戦争展覧を参観しました。かつては街の片隅にひっそりとあった文化館は今、繁華街に建つ文苑大厦の一部として整備されていました。人圏の模型があり、人圏や無人区の実態を展示しています。今回は若い女性説明員が5人次々と交替で説明してくれました。エレベーターのない建物の5階でしたが、小中学生がたくさん参観に来るのだそうです。経済発展の一方で歴史教育は手抜きをしないということでしょう。



 ついで興隆第一小学校を訪問しました。ここの子ども図書館(大田図書館)は大田先生の願いを受け止めた狄校長(現副局長)の努力で開放型図書館として毎日開館され、55,000冊の蔵書があります。閲覧室には新しい備品と多数の新刊書が入り、専門の指導員が4人配置されて、明るく使いやすいように工夫されていました。教師用の書籍にも力を入れているようで、自前の教材もシリーズで作られていました。ここでは環境教育の教材と絵本1冊(「はらぺこあおむし」)を差し上げました。国家レベルのインターネット教育実験校にもなっていました。児童数約1,900人の超マンモス校で手狭なため図書館も含めて来年から全面建替え工事に入るということでした。

 最後に雨の中、烈士陵園を訪ね、抗日軍将軍だった李運昌(1908-2008年)さんの墓前に献花をしました。
  李さんはわたしたちの団に2度に亘って解放の戦いを語ってくださった方です。






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<モクイ郷へ>




 第2日目は モクイへ向かいました。車はいつもとは違って興隆県の北部を東へ走り南下してモクイに入りました。

 モクイ小学校で新3年生18人が待っていてくれました。机の上に紙と鉛筆を用意して緊張気味に待っていた子どもたちも、I さんが『へびくんのおさんぽ』(鈴木出版)を読み、続けて于さんが中国語訳を読むと、たちまち引き込まれていました。“こんな子そのまま日本にいるよねえと思う風貌の男の子が、特によく反応してくれて、驚いたような顔をしたりにこにこしたりして一生懸命見ていてくれていたのが印象深い”(I さん)。続いてUさんが『ぐりとぐらのえんそく』(福音館)を読み、Mさんのリ−ドで『Hello』ハーモニーを楽しみ、『大きな栗の木下で』を振り付けつきで歌い遊びました。この学校の若い先生たちもわたしたちと一緒に楽しみました。





最後に、持参したお土産の絵本を校長先生にお渡ししました。今回は日本の絵本と児童書で中国語訳のあるものを北京で60冊調達し、それにE.H.カールの『はらぺこあおむし』中国語版を加えました。在校生78人のこの小さな学校にも第1小学校にある「大田図書館」のミニ版ができていましたから、きっとあそこに収納されるでしょう。Mさんは“絵本の読み語りに目を輝かせて聞き入っていた子どもたちが思い思いに本を読む姿を想像すると私は嬉しい気持ちになる”と書いています。


 昼食休憩を利用して村内の、殺人坑、人圏の跡をたどりつつ、97年民泊のお宅にもご挨拶をしました。


 午後はモクイの証言者・史さんのお話を聞きました。もう一人証言をする予定の方が数日前に亡くなったということでした。史さんには1997年から今まで5回お話を聞かせていただきました。2007年河南大峪の証言者が「何度も同じ話をさせる」と苦言を呈されたこともあって、今回は証言をお願いするのも心苦しく、むしろ私たちがお宅を訪問してこれまでのお礼を申し上げるつもりでした。しかし教育局の判断でモクイ中学校教室でお話を聞くことになりました。日本軍の撤退後は、解放軍兵士となって活動した経験を持つ史さんのお話はいつも明快でした。また人圏に入れられた人々が、ひそかに抜け道を作ったり、8里(4キロ)の標識を遠くまで移動したり、山中のゲリラと通じていたことなど抵抗の体験も語ってくださったこともありました。以下は今回のお話です。



 モクイは背後に五指山という抗日根拠地があり、抗日ゲリラをあぶりだすため人々を3つ人圏に押し込め、800戸4000人が強制的に収容された最大の人圏が置かれ、それだけに最も悲惨な犠牲を払ったところである。人圏に収容された人々はここより8里以遠から追い立てられ抵抗すれば殴られ、殺された。そのうちの陳家人圏には討伐隊約100人が駐屯し、討伐隊の隊長は姜大祥だったが、副隊長黒岩が12年にわたって実権を持ち、多くの人を刀で切り殺した。8里以遠の山中で見つかれば、その場で殺されるか、?y峪の殺人坑(万人坑)で見せしめのため殺された。「ジャガイモ」というあだ名の日本兵が、共産党の諜報員を切り殺した時、首のない死体に抱きつかれたこともあった。それらは皆自分自身の目で見た。自分ははここから3キロのところから追い出されて趙家人圏に入れられ、日本軍が撤退して人圏から出られたのは3年後17歳の時(満年齢では15,6歳)だった。出入り口が2箇所あり、朝晩決まった時間に門が開閉し、8里以内の畑で耕作することは認められたが、食料はそれだけでとても足りるものではなかった。衣類はボロボロで体を隠せるものではなく、厳寒の冬は土間に草を敷いて体を寄せ合って耐えるしかなかった。解放されたとき幸い家族に犠牲者はなかったが以前の家は追い出された時壊されてなかった。
 お話の後、参加者のHさんがお礼を述べて、Tさんからこれまでの史さんの写真アルバムを送り、会からの感謝の記念品を贈呈しました。記念撮影の後自宅まで送るというモクイ中学の先生は、史さんの甥ごさんでした。



  史さんを見送ったあと、私たちは新設の図書室を見学し、バスで興隆街のホテルまで朝と同じ道を戻りました。2時間でした。道路事情が本当に良くなり、日帰りが可能となりました。


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<ホストファミリーとの再会>


 三日目は大杖子郷へ向かいました。 前日と同じルートをたどり、最初に車を降りたのは、日本統治時代警察署があった車河堡でした。大杖子郷政府の車で来た駱(83)さん、唐(79)さん、馬(80)さんの3人にお会いしました。はじめは険しい表情でこの地域が無人区とされ、討伐隊に捉えられた人々の処刑場があって強制的に見せられたこと、また日本軍と八路軍の激しい戦闘があった場所であることなどを語りました。私たちの質問に答えて自分たちも人圏に収容された、そうでなければ今生きていないとか人圏の中でも賢そうな人は通八路と疑われて殺されてしまったなどと語るうちに表情も緩み、最後に握手して別れようとすると「どういたしまして」という日本語が飛び出し驚きました。「満州国」での植民地教育の結果のようです。


 大杖子小学校に着いた時、10時を少し回っていました。21人の新3年生が「小雨沙沙」を歌って迎えてくれました。この日はI さんが『へびくんのおさんぽ』、Mさんが『大工とおにろく』(福音館)の読み語りを行い、Mさんの指導で「かえるの歌」の輪唱を日中両国語で楽しみました。“I さんUさんMさんの情感あふれる読みに通訳のうYさんの表情豊で暖かな声に子どもたちも喜んで聞いていました”(Mさん感想)。 ここでも モクイと同じ61冊の本のセットを贈りました。校庭で子どもや先生たちと記念写真を撮ってお別れし、大杖子中学校に向かいました。校舎建設を支援したところです。立派な校舎の前には『友誼園』と名づけられた庭が造られ、桜の木が植えてありました。校庭の反対側にはモクイ中学と同様の図書室が開放されていました。






 昼食と休憩の後、懐かしい柳河口小学校へ案内されました。民泊を引き受けてくださったホストファミリー8家族と証言をする人が入り混じって和やかな雰囲気です。I 団長から長らくのご無沙汰を詫び、ささやかな記念品をお渡ししました。校長先生には子どもたちにと、61冊の絵本児童書を贈りました。





 続いて張(75)さんの証言を聞きました。
 共産党員をかばったため母親の兄が41人の人々と一緒に殺されそのため母方の祖父が精神の失調をきたして山から転落死し、母は悲しみの余り死んでしまった。父方の祖父は家を焼かれるのに抵抗したら殴られ腕を折られそれがもとで亡くなった。人圏の中では毎日のように人が殺された。
 勾(85)さんは耳が遠くなり、会話が困難になっていましたが人圏を造るために家を焼かれ働かされ殴られたこと、人圏では鐘を鳴らして人を集めて処刑したこと、この目で見たのだと強調しました。





 参加者からはそんな酷い仕打ちを受けてつらい思い出がある日本人をどうして民泊で受け入れたのか、という質問が出ました。村人たちはしばらくがやがやして相談していましたが、ホストファミリーのお一人が現在は友好の時代であり、皆さんは昔の日本軍ではないから、葛藤はなかったと発言されました。Hさんが「聞いたお話については充分反省しなければならない。それなのに日本人を泊めてくださった方々は心の広い方だと感心しました。私たちは過ちを繰り返さないように頑張ります。子ども、孫とこれからも仲良くしてください」とお礼の言葉を述べました。双方別れがたく思い、校門のところで記念撮影をしました。Uさんは“ 私たちが泊まったお家の方はお見えになっていなくてとても残念だった。しかしご近所の方がこられて、とても懐かしみ握手を交わすことができて感激だった”と感想を書きました。

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<顕微鏡の授業>

 最終日は横河上流の大水泉へ向かいました。無人区政策により300戸2000人の人圏が作られたところです。1997年外務省の小規模無償資金によって中学校の校舎ができました。久しぶりに興隆らしい山村の景色を見ながら非舗装の道をがたがたと走り1時間で着きました。休むまもなく担当のHさんは生物実験室に入り、準備を始めました。通訳の李さんと協力してあらかじめ顕微鏡の説明を図解したものを日文、中文で用意してあります。25人の男女生徒と若い先生たちが着席しました。顕微鏡に触れたことのない生徒です。





 顕微鏡の使い方から始まって、50分の予定の中で完結したすばらしい授業でした。Aさんの感想です。
“今回は、(生物専門の)Hさんに授業をしていただき本当に良かったと思っています。現地の、或いは生徒自身の身近な標本を実験に使い授業例を示したことにより、顕微鏡その物だけではなく、顕微鏡を使った「すぐに使える授業例」を持ち込んだからです。
顕微鏡観察のサンプルとして、モクイの河に降りて緑藻を採集しましたが、Hさんがいなくては河の水のどんなところを取れば良いか適切に判断できなかったでしょう。採集したままでは「とろろこんぶ」のように絡まる緑藻に鋏を突っ込んでザクザクと切ったり、マッチ一本で口内粘膜の細胞を取るという方法も(地学専門の)私からは出て来ません。時間も手間も道具も、生物の専門家にとっては大した事ではないけれど、そのわずかな一歩が実は高い壁になり、せっかくの顕微鏡を使わなくなってしまう危険性があります。・・・・きわめて身近なところから「顕微鏡で見ることの面白さ」を提示したという点で、素晴らしい授業だったのではないでしょうか。
 興隆もどんどんと発展し、もう古い顕微鏡を持ち込む必要もないのでしょう。「顕微鏡を使った身近な実験例」をはじめとした理科実験のアイディアをお互いに交流するような時代が来たのだと思います。”






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 人と人の交流へ>

 GDP世界第2位となった中国の経済発展はめざましく、それは確実に興隆にも及んでいました。高速道路が県内を東西南北に走り、北京、天津.承徳、唐山という大都会と1,2時間で結ばれるということでした。更には新幹線の予定もあってもう興隆は山村僻地ではなくなりつつあるようです。
 サンザシ、栗、桃、などの果樹栽培・加工と鉱業という従来からの産業構造から緑を資源とする観光産業に力を入れてリゾート地開発を進めていました。 
  教育面ではハード、ソフト両面で充実しつつある印象を受けました。教育予算が増え,質の高い教員の採用に留意し、校舎の建て替えも次々と予定しているようでした。第一小学校の大田図書館と同様の図書館が僻地の小中学校へ順次設置する方針だそうで、事実移動の途中で寄った小さな高杖子小学校(2001年校舎の改築を支援)にも、児童用のコンピュータ室と並んでありました。大水泉中学の生物実験室の隣も図書室でした。本をプレゼントしても鍵の掛かった部屋に大事にしまいこまれてしまう心配はもうありません。蔵書の質の問題や Hさんが気になったスポーツ施設の貧弱さなどは、これからの課題なのでしょう。
 中国政府は2012年にはGDPの4%を教育予算に組むと宣言したと聞きました。9年間の義務教育の普及という目標はほぼ達成し、格差の是正と中等教育の普及を図る段階にある中国で、政府が財政的裏づけを示して教育の発展に力を入れるということでしょう。当然興隆の教育も大いに発展するに違いありません。
 興隆街ですれ違う人々も自信に満ち希望を持って前を向いて歩いていると感じました。「興隆の旅」の初めから長い間お付き合いいただいたトウさんは「これからは物を介した交流ではなく人と人の交流が大事」と何度もおっしゃいました。Aさんの感想にもあるように正にそういう時代に入ったのです。




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第13回 「平和教育研究交流会議」
              ―in 熊本 
 5月29日〜30日  熊本市国際交流会館

 今回は熊本実行委員会が準備し、「熊本で平和と教育を語りあいましょう」の呼びかけの下、熊本だからこその内容開催することができました。

 まずI 世話人が主催者として挨拶しました。自身の体験に触れながら、日本は反省、謝罪、補償をしてこなかったことを指摘し、当会の歴史的経過を述べた上で、今日の「交流する会」が取り組むべき課題として@心と心の結びつき交流を進めること
A平和と人権をすすめる教育実践
Bその時々の課題
をあげました。ここ数年「改革」が行われるたびにむしろ平和と人権が危うくなってきた現実を踏まえ、地道に取り組みをすすめることを訴えました。

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第1部 講演「水俣にまなぶ」 原田正純さん
    医師、前・熊本学園大学教授

 熊本大学にあって長年にわたって水俣病に向き合い、患者さんに寄り添ってこられた原田先生のお話を聞きました。熊本大学から熊本学園大学に移ると同時に「水俣学」を提唱された先生は、学園大を退官されたばかりで、ご病気を抱えながらも精力的に活動されている素敵なお医者さんです。
 世界各地の公害の現場を歩いている先生は、1976年中国政府の招聘によって中国の環境問題に関わった経験もおありとのことでした。以下お話の概略(文責 J )です。


 <公害の原点水俣病> 
 医師が伝染病を疑って保健所に届を出だした1956(S.31)年5月1日が水俣病の公式発見の日ということになっているがその前から予兆はあった。54年「猫が癲癇で死ぬ」という記事が地方新聞に出たが、面白おかしい記事で終わってしまっている。最初の患者は幼い姉妹であった。海辺に接している船大工の家だった。自然の中に自然と共に生きている人たち、特に子ども、老人、病人という弱者が最初の被害者だった。医学では病像によって病気を分けることをやるため、他の病気があるからといって水俣病と認定されない患者があったが、環境汚染の怖さはむしろ病人や、子ども、老人といった社会的弱者に現れる。
 伝染病が疑われ奇病とされた水俣病の原因がわかるまでに3年半かかった。熊本大学の研究で1910年代イギリスで起きた有機水銀中毒である労働災害ハンター・ラッセル症候群がぴったりの症状とわかり、1959年熊本大学は水俣湾の魚介類を摂取したことによる有機水銀中毒との結論に達した。その後チッソ水俣工場がアセトアルデヒト(ビニルの原料)製造の触媒として使っている水銀が有機化することが証明され1968年漸く水俣病は公害と公式に認定された。毒は薄めれば毒でなくなるという原理によって、有機水銀は不知火海に流され続けた。しかし自然界には毒を濃縮していくシステムもあるというもう一方の不都合な原理を忘れていた。ビニルやプラスチックを便利に使っている私たちはこのことと無縁ではない。 
 水俣病は 一に世界初の環境汚染による中毒であり、二に食物連鎖によって濃縮された毒物が胎盤を通過して胎児性患者を生み出したことが公害の原点といわれる所以である。


<患者たちから叱られて> 
 「胎児性患者」の存在を確信した契機は、子どもたちの母親の言葉だった。大学病院にいて患者を診察している時、水俣から熊本まで出てくるだけでも患者にとっては大変なことだと知って、水俣へ出掛けていってみると、海の幸を主食としてきた漁民たちの暮らしが見えてきた。豊な海の恵みを得て海辺で暮らしてきた人々は、豊漁があれば皆同じものを食べ、同じ病気になって当然だとわかる。霞が関にいてはわからない。奇病として水俣市民からも白い目で見られ、魚は売れず病気に苦しみながら貧困の中で暮らしていた。どん底の苦しみの中で患者達は受診を拒否し、あるいはどうせ直らないなら見てもらわんでいいという。治らない病気に対してどうしたら良いのか、医師としての原点になった。
 全く同じ症状の幼い兄弟のうち兄は水俣病、弟は魚を食べていないから脳性まひという診断に母親は疑問を持っていた。そして同様の症状をもつ子どもたちが水俣病多発地帯にいた。母親は「この子が私のお腹の中での水銀を吸ってくれたから私の症状は軽くて済んでいる」と、「胎盤は毒を通さない」という当時の医学の常識に反することを言った。そして子どもたちの症例調査の結果は、他の医師の解剖結果に一致、更にはマウスの実験によって母親の言葉が証明され、自然界に無い有機水銀は胎盤をすり抜けていた。その後へその緒と環境汚染の水銀値が一致した。胎盤は環境であった。この後カネミ油症、サリドマイド児等でも胎児性患者が出るという意味でも公害の原点になる。水俣の胎児性患者が人類史上初めての経験であった。


 <宝子たち> 
 胎児性患者は微妙なところで流産や死産に至らずに生まれてきた貴重な存在。人類にとっての宝なのだが、保障金を払えばいいでしょ、と放り出されている。
 23歳で亡くなった上村智子ちゃんは、“お母さん!”とさえいわず、ついに言葉を発することなく亡くなった。では彼女は無価値な存在だったか?お母さんは智子ちゃんを「宝子」と呼び、私のお腹の毒を吸い、後から生まれた弟妹が元気なのも智子のおかげといい、上村家は智子ちゃんをとても大切にした。この智子ちゃんはユージンスミスの写真を通して世界中の何億もの人々に強烈なメッセージを残した。
 新潟水俣病では胎児性患者は一人だけ。新潟県が子どもを生むなという指導をしたため。一方、カネミ油症事件で胎児性患者が多発した五島列島はクリスチャンの地域だということが現地を訪ねてわかった。反公害運動と障害者運動が協調しにくい現象とあわせて命の意味が問われている。
 干潟は役に立たないから埋め立ててしまえという発想があるけれど、食物連鎖の頂点にいる人間の命は干潟の小さな虫の命とつながり、命はめぐりめぐっている、子どもたちの未来のために循環型の自然を守ることが大事である。


<水俣学のめざすもの>
 公害は貧しいもの、弱者の上に現れる。公害があるから差別されるのではない。社会の負の部分が弱者に押し付けられるから、差別があるところに公害が起こることは、世界各地の公害の現場を歩く中で、特にカナダの先住民を訪ねた時に確信した。彼らはまた自らが自然の恵みをいただいて生きているという認識の文化を持っているが、その文化社と会が消えようとしている。
 当初、水俣市民は迷惑な存在として患者を疎んじ排除しようとし、労働組合も革新的政治組織も患者達に冷たかった。
 そういう水俣を避けてよそへ行っていた人たちが今、高度機能障害を抱えて帰ってきているが、彼らは保障の対象になっていない。不知火海沿岸の包括的公的調査も行われていないから正確な患者の数もわからない。水俣病はまだ終わっていない。今年施行される特措法によっても幕引きは出来ない。
 水俣病という歴史的社会的事件の解決を医学の問題として矮小化したことは間違いであり、社会学、歴史学、法律学、生物学など様々な分野の学問が協力し合って総合的に取り組んでいれば今日のような事態は避けられたのではないか。そうした問題意識で「水俣学」を立ち上げた。水俣病とは現代にとってどういう意味を持っているのか。総合的な学問として、最後の仕事にしたいと思っている。

 先生は医者として現場に足を運び、患者に寄り添い、患者に学ぶ態度を貫かれてきた。胎児性患者達の生活拠点「ほっとはうす」にも深く関わっていらっしゃる。また、三井三池の炭塵爆発による一酸化中毒患者にも患者の側に立って関わってこられた。それだけに患者の信頼は篤い。静かな語り口の中に弱きものを大切にしない世の中に対する憤りが時折噴出するお話だった。

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第2部 実践交流

 まず宮崎のNさんが温州市瑞安との交流の経過をまとめた冊子に基づいて報告しました。今年1月かつての留学生の結婚式に招待されて行ってきたこと、 劉は日本で家庭を持って1児の母になっているとのこと。


 続いて大分からWさんとKさんが小学校での平和教育の実践報告。Wさんは地域の教材を掘り起こしながら仲間と共にいかに子どもに平和の尊さと命の尊厳を伝えていくか、試行錯誤の報告。Kさんは同様に地域教材の掘り起こしをしながらこどもたちに「平和の種」を播く努力をしているが、興隆で出会った古老たちの心を心としてたくましく成長してきた自分を振りかえる報告でした。


 市民運動からは「平和憲法を生かす会」事務局のI さんが婦人有権者同盟と協力しながら、定期的なニュースの発行、講演会の実施、本の出版を通して幅広く活動して様々な団体との共闘が出来るようになったこと。韓国忠誠南道の民主団体との定期交流も農業や公害などの分野にまで広がっていることなど報告されました。

 「平和と人権フォーラム」のHさんは日中友好協会の「南京城壁修復」活動を契機に続けてきた南京市民(南京事件幸存者など)との交流活動を報告されました。

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第3部 講演
「『赤き黄土―地平からの告発 来民開拓団―』に学ぶ 講師 吉田文男さん
     (熊本県部落解放研究会事務局長)

 タイトルの『赤き黄土』は既に絶版となってしまった本の書名で、参加者の多くが初めて知る歴史でした。侵略と差別とが表裏一帯であることを如実に示す事件として、深く考えさせられるお話でした。以下簡単に紹介します。


 1945年8月17日 つまり敗戦の日から2日後、「ただ一人の伝令を残して、当時団にいた275名全員が集団自決に追い込まれた」という事件は部落差別が生んだ事件である。
 伝令としての使命を帯びてただ一人1年後に帰ったMさんによって伝えられた熊本県来民(くたみ)開拓団の集団自決という事実は国策の犠牲として知られていた。しかし1987年ある差別発言をきっかけに、真相を明らかにする取り組みが粘り強く行われ、単なる国策の犠牲ではなく、部落差別がなかったらありえなかったことが明らかになった。調査の結果は『赤き黄土―地平からの告発 来民開拓団―』という本に結実した。
 なぜ部落差別が生んだ悲劇なのか。国策として「満州」に送り込まれた926にも及ぶ開拓団の中で、来民開拓団は入植者の殆どが被差別部落からの出身者であった。それは、資源調整事業という名の融和政策として強力に推し進められたことが、当時の来民町議会の会議録によって明らかになった。来民開拓団の場合、編成窓口は県社会課(すなわち融和事業、融和教育の担当課)で、他に例がない。(他は拓務課)。更に融和教育事業を推進していた元来民小学校校長夫妻の熱心な推薦があった。部落の人々は、満州に分村を作るという甘言に魅かれ、差別のない新天地を夢見て団への参加に応じた。しかし荒野を開拓するつもりだった「満州」(吉林省扶余県五家站)は、中国農民の畑を強奪した農地だった。敗戦になると土地を奪われた中国農民たちの怒りは侵略の先兵と見えた開拓農民へ向けられた。戦況を知らず、敗戦2日前に引き上げ命令が出たものの既に役人も警察も開拓団を見捨てて逃げてしまっていた。土地を取り返そうとする中国農民の襲撃の情報に応戦を余儀なくされたけれど、男たちの殆どは応召されており、老人と婦女子ばかりだった。防ぎきれない場合は自決することとし、真相を伝える任務を与えられたMさんだけがそこを脱出し、Mさん自身の幼い子どもを含む275人が命を失った。「来民開拓団は、部落を対象として編成された。したがって部落差別がなかったら来民開拓団は編成されなかったし、悲劇も起こらなかった。」ということである。
 「来民開拓団の最大の悲劇は戦争の犠牲者同士が血を流して戦わせられたことにある。」そのため、遺族は長い間遺骨収集の願いを実現できなかった。 解放子ども会の開拓慰霊祭,反戦反差別の取り組みが評価され、現地との交流を繰り返し遺骨収集が自決死後52年目の1997年に実現した。
 だが、部落差別はなくなっていない。『赤き黄土』の発行を期に新たな部落差別への不安におびえる人が出るという一面もあったが、家族総出で来民開拓団の解放劇に取り組むことで部落差別からの解放を願った来民開拓団の願いを受け継いでいこうとしている。『赤き黄土』を嫁入り道具にするという女性も現れたことは闘いの成果であり希望でもある。(文責 J )

 質疑終了後、熊本実行委員会からT さんが閉会挨拶をしました。
 第1部原田先生のお話、第3部吉田さんのお話に共通していたのは、何の反省も謝罪も補償もしていないという指摘だった。私たちは人権と平和を守るたたかいを終わらせてはならない、また来年実践を携えてお会いできることを願います、と締めくくりました。

<特別企画・水俣フィールドワーク>
 「水俣芦北公害研究サークル」(小中学校の先生たちからなる)の方々のお世話になりました。九州新幹線「新水俣駅」で、サークルの田中睦、梅田卓治、濱口尚子さんがマイクロバスを用意して待っていてくださいました。休館日なのに特別開けてくださった水俣病歴史考証館で様々な実物展示を見、上村智子さんの遺品などを納める乙女塚、水俣病の語り部・故杉本榮子さんの家族が今もイワシ漁を続けている茂道、そして胎児性患者が多発した湯堂、最初の患者姉妹が住む坪谷、百間排水口を回り、社会福祉法人「ほっとはうす」で胎児性患者の方々と交流しました。
 移動するバスの中では、サークルの方々から、示唆に富む貴重な体験談を聞きました。
 最初の患者とされた姉妹のお姉さんは、「遅刻してくる子どもや宿題をしてない子どもを頭ごなしに叱らず、わけを聞いてやってください」と言われた。自身が子どもの時弟妹の世話で遅刻をしても先生は理由も聞かずに叱り、友達には馬鹿にされいじめられた経験から搾り出された言葉で、教師としての姿勢を教えられたこと。また、勤務校の子どもたちが、胎児性患者の坂本しのぶさんの歩き方をからかったとき、いきり立って子どもを叱ろうとする先生に坂本さんは「私のことを知る機会を作って欲しい」と言い、以後学校へきて話をしてもらうことで、子どもたちも理解していった、ことなど。
 現在、かつての公害加害者のお膝元でどのように水俣病を教えるのか、チッソが公害加害者であると言う事実は事実として、だからといって親がチッソに勤務しているこどもたちが下を向いてしまうような授業であってはならない。ではどうするか仲間達と議論し試行錯誤をしている。
                        
 今年も充実した2日間でした。

 

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事務局から

  • 当会設立以来この会の活動を牽引されてこられた
    仁木ふみ子さんが『ある戦後―中国と日本のはざまを生きる』(ドメス出版)を出されました。同封のチラシをご覧ください。
  • 第11次興隆訪問団に対して興隆側から訪日の希望が伝えられました。県の教育関係幹部をお招きすることにしましたが、この間の情勢が不安定であるため、まだはっきりとは決まりません。私たちは全力を上げて歓迎したいと思います。
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