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 米ブッシュ大統領に追随、憲法を無視してイラク派兵を強行した小泉首相は、一方では新自由主義構造改革によって、一部の富めるものをますます豊かにし、競争に敗れた物は自己責任論で見捨てる政策を進めましたが、安倍晋三新首相はさらに右翼的政治と競争の徹底を主張しています。真に憂鬱な秋ですが、しかし東京地裁の良識ある判決に日本の民主主義はまだ死んでいない、の思いを新たにされた方も多いことでしょう。
丁度1年のご無沙汰になりましたが、会員各位に於かれましてはそれぞれの場で平和と民主主義、日中友好のために奮闘のことと思います。

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興隆行2006年春
  見えない八路軍の跡を辿る

 

 1997年以来7回、教材を抱えて授業をしながら興隆の山間部を訪ね、無人区政作の犠牲者の話を数多く聞きながら、抵抗に立ち上がった人々の不屈の戦いも知りました。その抵抗する民兵を組織して指導した八路軍の姿を求めて3月、私たちは山道に入ってみました。五指山の一角、南大台の根拠地をめざすことと、李運昌将軍の脱出路を辿ることです。とはいえ、今は通る人のない山道ですから、夏は下草と蔓が繁茂して歩行困難とのことで、氷が溶け草木の芽吹く3月ということになったのでした。
 県および郷当局は、山を歩きたいという私たちのために大変な気の使いようで、下見をし、道しるべをつけるなどの準備をしてくださっていました。私たちは気軽に一緒に山に登りませんかと申し入れてあったのですが、メンバー1人1人に先生1人がサポーターとして配置され手を取るように歩いてくださいました。
南大台へ向かったのは山に慣れているAさん(千葉)とIさん(熊本)、それに通訳をかねた北京師範大学のKさん、中国側は若い体育の先生2人と案内役の張さん(モクイ郷における理科担当の指導主事、このルートを見つけ出した方)でした。

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Iさんの報告

 

 登り始めは、まあ今でも農民が使っているであろうと思われるような道である。一番先頭を歩くのは、趙さんだった。…しばらく登っていくと、もう道らしい道とはいえなくなり、枯れた藪をかき分けかき分け払いのけながら、遅れを取るまいと進んでいった。何しろすごい藪で、顔にぴしぴし枝が当たって、蚯蚓腫れになりそうだし、足にも枝が絡みついたり、刺さろうとしたり、バシッと当たったりして、風呂に入る時に見てみれば、きっとあざになっているよなあと思った。実際そうなっていたのだが。「農民が今でもこの道を使っているんですか。」と聞くと、「使っているなら、こんなになってないよ。」とのこと。…傾斜がきついところにくると、つい周りの枯れた枝をつかみたくなるのだが、張さんから「とげがあるから、むやみにつかまないように。」と注意された。
 普通私が日本で登る山は、そんなに坂が続くわけではなく、アップダウンもあるが、ここではとにかく、登って登って登るしかないわけで、そうすると今度は下りが心配になってくるのだった。
 周囲はとにかく藪だらけで、その藪は、小さな桃のような実がなる木だそうで、八路軍の兵士達が、その薮の中に身を隠していたそうである。また「当時は、この道を、夜に、しかもたくさんの兵器などを背負って登っていったのだ。」と聞き、恐れ入る。黙々と登りつつ、自分がその八路軍の兵士の気持ちになっていくのを感じた。まさに愛国戦士としての気持ちである。自分達自身を、自分達の土地を、祖国を守るための闘い、そしてこの山道を登る、…そんな一兵士の心意気を味わったような気がした。
 その日の反省会で、王さんが、「I先生達が頑張って登っていくのを見て、自分も頑張らないといけないと思いつつ登った。」という意味のことを感想として述べられた。お世辞も少しはあるとしても、うれしい言葉だった。八路軍の足跡を実際に辿るという意味の山登りではあったが、日中の教師達がそういう意味のある行動を共にしたということにも、とても意味があったと感じた。…日本社会の現状を見てみれば、相変わらず過去への真摯な反省も何もなく、それどころかますます右旋回していっている。しかも、まず手を付けられるのが教育内容、教育現場なのである。私たちが築き上げてきたこの人間としてのつながりを、どう生かしていけばいいのだろうか。八路軍と農民達が一体となった闘い方を、この日本で広げていけばいいのだろう。難題である。

 

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Aさんの報告と感想

 


山の様子
 事前にかなり脅かされたので不安でしたが、登り2時間半の中できつい坂が4つありました。ここでは立ち木につかまったり、先頭を行く方が「片手つるはし」で切ってくれたステップを頼りに這い上がるように登っていきます。…登っていると常に小枝が顔を含めた体中にビシビシと当たってきます。事前調査で付けてくださった目印(立ち木に結んだ緑色の紐)が頼りでした。但し岩場は無かったので一番心配だった落石事故の心配はせずにすみました。足下は土と枯れ葉で滑ることもほとんどありませんでした。唯一滑る心配があったのは沢を渡る時で、凍結していたので滑り落ちる危険がありました。ここでは中国側は手を取ってくださいました。凍結した沢以外は滑るような道ではないのですが、細いところをバランスよく通らねばならない所も何ヶ所かありました。斜面を転げ落ちてしまう危険性がないとは言えません。単独で登り転落した場合を考えると極めて危険であり、亡くなった方がいることもうなずけます。


目的地
 県政府の机にした石のあった場所は山の頂上ではありません。斜面の一部が20平方メートル強位でしょうか、平坦になったところです。机にしたと言われる石と3段の石垣がありました。石垣の高さは50センチメートル程度と低く、幅は5〜6メートル程度はあったと思います。当時はこの石垣が木で組まれていたそうです。また5分ほど歩いた所に小さな湧き水の出る場所がありました。


感想

 


 …水場である小さな泉に来た時には八路軍の生活の跡を辿った気分になれました。飲料水を汲むのがせいぜいの小さな泉です。物を洗うことは出来なかったでしょう。暗闇の薮の中を歩き、水を汲みに来たであろう八路軍一兵士の後ろ姿と息遣いを見た気がしました。私には県政府跡地よりも水場にて、命を懸けて自分達の土地を守ろうとした八路軍の姿を垣間見ることが出来ました。
今回は一番条件の良い時に登ったのですが、それでも枯れた薮の中を歩くのはなかなか困難でした。様々な季節と時刻、条件の中で山はいっそう奥深くなります。この山の中でゲリラ戦を戦った八路軍兵士を思いながら、自分達の郷土と平和を守るとはどういうことなのかを考えさせられました。日本に帰った時、私たちに出来る平和のための闘いとは何か?。興隆に来るたびに気を引き締められる思いをするわけですが、今回はまた別の角度から思い知らされました。

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 もう一つの、マリ大嫂が李運昌と八路軍の脱出を手助けしたというルートの様子はMさん(千葉)が書いています。
「畑の中野道から少しづつ傾斜のきつくなっていく川沿いの細い道を上っていきました。」途中雪渓があって傾斜は更にきつくなり栗の木の段々畑を一段一段登っていくとマリ大嫂の住居跡がありました。更に少し登ると弥猴桃(李運昌たちを悩ませた蔓性植物)があり、地元の娘さんがとってきて見せてくれました。」さらに栗畑の途切れた斜面の上は藪こぎをしながら先導の地元の校長先生趙さんの後につづきます。足下はズルズル滑ります。私たちの危なげな足取りに恐れをなした于副教育局長はストップを命じたので、マリ大嫂がよじ登ったという断崖を見ることは出来ませんでした。私たちが息を切らせて登る道をひょいひょいと登っていく地元の人々も、その先はもう使っていないわけで、当時の闘いの厳しさに思いを馳せることになりました。

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 今回は山登りの前後に2人の鄭さん、?さんから興隆県における八路軍の活動の部隊「老八区」についてそして、解放戦争について講義をしていただきました。以下、Mさん(熊本)の感想です。

 


 日本軍は興隆の3分の1の耕作地、しかも良い耕作地に阿片を作るよう土地の人々に命令し、それを納めさせ、売りさばいて得た金を戦費に充てたとのことです。旧満州では禁止事項が多かったのに住民が阿片を吸うことは自由で、阿片によって体を壊した人々が大変多かったという酷い話も聞きました。…(日本軍が敗退した後の)黄方剛蜂起や解放戦争について無知な私には理解できないところがありました。「10年も興隆に来て」と言った人がいるとも聞きましたが、10年来ても知り得ていないことがたくさんあるとつくづく思いました。

次は初参加のMさん(京都)の感想です。
 モクイの民家を訪れ、中に入れていただいたことも忘れ難い思い出です。年老いて顔に深いしわを刻んだおばあさんが、懐かしくなるような笑顔で迎えてくださいました。戦争のつめ跡を忘れるわけはないのに、それを乗越えようとする強い意志があのようなやさしさとなって表れるのでしょう。書ききれないくらい多くの思い出を胸に抱いて、日常に戻りました。私が身を置いてきた研究の世界も、内部から崩壊していくような気配を感じます。抵抗することの意味を教えられた今回の体験を力に生きていきたいと願っています。

 このときの興隆訪問では、モクイへの移動の途中、大帽峪の韓さんを訪ね、今まで聞けなかったお話をすることが出来ました。また、帰途には?子峪に寄って、2004年にカンパで建設された中学校理科教室を見学しました。途中道路工事のため大きく迂回しなければなりませんでしたが。興隆は建設ラッシュです。モクイでの宿舎は、今回は中学校の寄宿舎ではなく、新築の「除家旅館」でした。

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O先生北京で語る
「民主主義の石垣を支えるために」


 O先生とご一緒に9月6日皆さんより早く北京に入りました。憲法や教育基本法改正、靖国参拝などと騒ぐ日本の為政者の考えは近隣諸国に不安と反発を与えるものですが、一教育学者として状況解明に行かれたのです。
 7日、中央教育科学研究所、中国教育学会の呼びかけで中国の教育研究者たちが中央教育科学研究所の講堂に百数十人集まっていました。O先生は言われました。

 「為政者の言動を申し訳なく思うこと。彼らを選んだ国民に責任はあること。今の状況は民主主義の未熟さの現れに過ぎない。名古屋の城の上に輝く金のしゃちほこは、下を見れば、大小のさまざまな石を組み合わせた石垣にがっちり支えられている。今の日本の弱点はこの石垣がばらばらになってしまっていること。立派な憲法はあるが、実は軍隊が存在する。教育基本法はあっても、競争原理の中で他人をしのごうとする状況に追い込まれる。今は、一人ひとりが民主主義の精神を身に付けて、固い団結を図らなければならない。憲法も教育基本法も砂上の楼閣の上にある危うさである。
 私は第二次大戦の生き残り、皆さんは交通戦争の生き残り。すべての人間はかけがえのない価値を持ち、存在理由をもち、種を支える力を持つ。今必要なことは、違いを認め合って、民主主義の石垣を支えるために連帯を強めること。もうひとつ、生命は、自ら変わる力を持つ。その気になると人は変わる。そこに教育の本質がある。」と具体例をひきながら話されました。
最後に発言を求められてNさん(埼玉)は「その気になると人は変わる」を、中国の教育の具体例で補い感謝を述べました。「戦争は人を鬼にする。その日本鬼子を撫順の戦犯管理所では、人として再生させた。そこには鬼としての自分の所業を見つめることが出来るようなるまで待つ、その気になるまで待つ、管理所職員の長い忍耐と許しと奉仕の歳月があった。彼らは帰国後中国帰還者連絡会を結成し、50年間反戦平和、日中友好の旗印のもとに、証言活動を続け、若者たちが「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」を名乗って一緒に活動を始めている。」
 8日は、北京大学で、日本語のわかる大学院生たちと、9日は、精華大学で、台湾から急遽帰ってくださった教育学会会長顧明遠先生その他重鎮クラスの教育学者の皆さんと討論がつづき、O先生は心満ちて、午後、興隆からの車に乗られました。

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関東軍第7大隊 兵卒として日本軍の暴虐を謝罪


 撫順戦犯管理所で侵略戦争に加わったことを悟って反省し、許されて帰国した後も一貫して反戦平和と日中友好のために闘ってこられたNさん(岐阜)は積年の思いをとげて興隆を再訪することになりました。関東軍独立守備隊第7大隊に所属して、主には憲兵を支援する役目、時には討伐隊に加わるなど興隆一帯を歩いた記憶を持つNさん。9日興隆に到着すると、県政府関係者を前に謝罪するとともに次のような話をしました。
 戦犯管理所に「王興」さんという方がいました。彼はここ興隆の出身で少年時代、日本軍の惨案によって家族8人の中でただ1人生き残りました。仇討ちをするため、八路軍に入り解放軍に加わった後、戦犯管理所職員になりました。日本人戦犯の傍若無人な振る舞いに思わず腰の銃に手が行くことがあり、管理所の方針では戦犯を人間として丁重に扱わなければならなかったため、仇討ちをしたい個人的感情との狭間に苦しみ自室に駆け込んで激しく泣きました。これを知った管理所の上司は職員全体の問題として2週間かけて全員で討論し、「戦犯が本当に反省することが真の仇討ちになる。」という認識にいたりました。その後も私たちは人道的な扱いを受け、白米が食べたいといえば、職員は粟やコウリャンを食べているのに私たちには白米を食べさせたのです。このような人道的厚遇によって戦犯たちは反省するようになったのでした。「王興」さんの本名は李さんというらしいです。是非お会いしたいとずうっと機会を待っていました。この「王興」さんこそ興隆の人々を象徴するものであり、「王興」さんの心は興隆の心、と思っています。
 これに対して羅副県長が県人民政府を代表して挨拶され、Nさんの謝罪こそ日本人民の歴史認識を示すものであり、日本人民も戦争の被害者であったので今後とも交流を深め相互理解を深めていこうと述べられました。
翌日はレントゲン贈呈式終了後、モクイ殺人坑(万人坑)跡を訪ね、記念碑に献花して被害者の霊に祈りを捧げました。更に教育局のご好意でNさんの記憶に残る土地を案内してもらいました。白馬川ではかつて日本軍が駐屯したという建物(今は学校)の裏手のトウモロコシ畑に案内され、ここでの事件についてトウさんのお話を聞き、今はかぼちゃのつるが這っている石積みに献花して参加者全員が黙祷しました。

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明るく開放的な図書館

 


 興隆の子どもたちに中国一素晴らしい図書館を!O先生のそんな願いは多くの人々の共感を呼び、故山住先生のご遺族、上海児童出版社、中国文物研究所などの支援も得て、興隆第一小学校の子ども図書館は、明るい図書館として整備されていました。4階建ての図書館の1階部分は館内閲覧用で、2階部分は広い部屋にテーブルが並べられた開架式の閲覧室、子どもたちが借り出して利用していることは本に挟まれたカードからわかりました。「たくさんの本を読むことで遠くまで行くことが出来る(読万巻書行万里路)」「本を何度も読めばおのずから意味がわかる(書読百篇其義自見)」などの標語が掲げられていました。

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激動の温州


 11日、興隆訪問に引き続き8人は北京から温州に飛び、福岡から出発した4人と合流しました。心配した台風10号の被害は私たちの行動範囲から外れたところにあったため、一度だけ壊れた橋のために迂回したことをのぞけば、被災地を見ることも行動が制約されることもありませんでした。
 先ず温州市に隣接する麗水地区青田県方山郷中心中学校を訪問しました。当会支援で建設された4階建ての新校舎は「恩誼楼」と名付けられ課外活動の拠点として利用されているとのことでした。若い葉校長先生は「教育の3本柱『知育・体育・徳育』のうち、徳育の中身は反戦平和と愛国ですが、特にこの『恩誼楼』の由来について毎学期子どもたちに話をして日中友好のシンボルとして大事にしている」と話されました。案内された部屋には温州山区教育基金会から送られた課外活動用の民族楽器などが大切に保管されていました。この地の特産品・鯉をかたどったちょうちん?で踊りを披露してくれる予定だったそうですが、あいにくの雨のため断念したとのことでした。
 この日の午後、五鳳ヨウを訪ねました。1995年外務省小規模無償援助金によって中学校の寄宿舎を建設したところです。当時100人の生徒を収容するものでしたが、過疎化が進み中学生は山を下った澤雅鎮の県で1校しかない中学校に移ってしまい、新たに小学校の校舎が建っていました。ここも児童数20人ですが、そのうち12人は寄宿生で、寄宿舎はこの子たちが利用していました。
 翌日瑞安市の湖嶺中学(1998年外務省無償援助による寄宿舎を寄贈)を見学し、芳庄中学校へ向かいました。1997年から3カ年、山村の女の子たちに技術力をつけてもらおうとミシンを使って授業をしたところです。6人の元生徒さんたちが待っていてくれました。短い時間でしたが、卒業後の生活など聞くなど愉しい交流ができました。洋装店を開いていたり、ファッション関係の仕事をしている人もいてうれしいことでした。しかし、ミシンを使った技術教育はその後指導者不足のため途絶えてしまっていました。
 ここでは、関東大震災時の大島町の惨劇を生き延びてふるさとに伝えた黄さんの遺族にお会いしたいと思いましたが、息子さんの順さんもすでになく、お孫さんに当たる方も病気でお会いできませんでした。二期作の稲が色づき始めている棚田を左右に見ながら山を下り、近代的大都会に変身した温州市街に戻ってくると、高度成長を続ける中国の格差社会の現実を痛感させられました。
 今回の温州訪問では、宮崎県のN高校に留学しマラソンランナーとして活躍した?さんが通訳として私たちを助けてくれました。湖嶺中学は彼女の母校であり、実家はそこから山越えをした向こうにあるとのことでした。
天候の関係で先送りになっていた華蓋山での慰霊祭は最終日の朝行なうことができました。シベリア寒気団のせいで連日予想外の低温に戸惑っていましたが、この日は残暑の厳しさを感じさせる強い日差しでした。
 日本の官憲の手で殺された王希天を顕彰するため、温州の人々が建てた石塔。それを侵略した日本軍が破壊して放置してあったものを見つけ犠牲になった温州出身の労働者を悼む言葉を添えて再建した碑の前で、私たちは黙祷を捧げました。たまたまここにきていた人たちに中には私たちの訪問の意図を知って好意を示す方もいました。旧市街地にある黄蓋山は市民の憩いの場になっており、土曜日のためか、太極拳、テニス、社交ダンス、などいくつものグループが活動しています。Hさんはその中に入って喝采を浴びました。
 つづいて新しい温州が見たいという私たちの要望に応えて、新市街に案内されました。4年前は整地中だった場所は、市役所を中心に図書館、博物館、科学技術館が点在する未来都市のような空間になっていました。その中の博物館では陳前副市長(現・温州市人民代表大会常任委員会副主任)自らの案内でその一部を駆け足で見学しました。浙江省の南部、福建省の北に位置する温州は、紀元前の越や呉の国があったところで、温州みかんの名で知られるように海を仲立ちとして日本と深い関係があったことがわかりました。古くからの親しい友人として心のこもったおもてなしに、恐縮し感謝しつつ、温州の人々・中国の人々の希望と自信にあふれる姿を見る思いがした旅になりました。

 

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