会報2004年秋
CONTENTS

2004年の秋の報告とお願い
昨年秋の報告から1年がたちました。今年は中間報告をしませんでしたから、5月の報告からです。

  1. 温州からの客人
  2. 2004年夏の訪中
    1. 大田図書館に本を届ける
    2. 山奥の馬架溝
    3. モクイでの交流
    4. 劉杖子で任さん、王さんに再会
    5. 沙峪でのこと
    6. 碾子溝
    7. パンジャープー
    8. 西南の国境線の西半分
    9. 黄華先生を囲んで
  3. 今後のこと
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温州からの客人

 温州から温州山地教育振興基金会の副会長・張さん、同秘書長・黄さん、同執行委員長・李さんの3人がいらっしゃいました。
本来、関東大震災から80周年の9月にお迎えしたかったのですが、SARSへの懸念からご招待を清明節の頃と延期しておりました。結局第7回平和教育研究交流会議にあわせてお出でいただきました。
 5月11日夜成田着、22日平和教育研究交流会議へ参加し、記念講演を同時中継のビデオで聞いていただき、また温州山地教育振興基金の報告をしていただきました。23日は歓迎とお別れを兼ねたレセプションの後、大島町の事故現場を訪ね、24日は横浜市内をご案内しました。25、26日は京都で、日中の長い文化交流の跡を見ていただきました。25日は広島へ向かい県教組の方々の歓迎を受けて、温州で授業をしたことのあるSさんの計らいで、平和記念資料館を高野副館長のご案内で見学していただきました。
 張さんは被爆の遺品などを熱心に見てまわり、正視に堪えられないという表情で首を振っていました。
別府ではミシンの授業に参加したIさん、Sさん、Uさん、宮崎からかけつけたHさん、Nさんが出迎え、大分高教組のお世話になりました。
 28、29日は、「立命館アジア太平洋大学」・身体障害者作業所「太陽の家」の見学、地獄、高崎山、水族館、中国渡来の僧が彫った臼杵の石仏などを見学し、大分高教組の退職者の総会に出席し、10年前のカンパのお礼と温州山地教育振興基金会の報告を張さんが述べました。
 30日、阿蘇山経由で熊本へ。熊本城見学の後、熊本の会員有志が集まってお別れの宴を盛り上げ、31日福岡空港から帰国されました。成田から福岡までの通訳とお世話は、温州から日大附属宮崎高校に留学し、今、日大で数学を専攻している劉さんでした。

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大田図書館に本を届ける

 今回の興隆訪問の目的の第1は、興隆第1小学校に建てられた大田図書館に本を寄贈することでした。呼びかけに応えて皆様から寄せられたカンパ100万円をお届けしました。そのうちの大口は昨年亡くなった山住正巳理事長のご遺族からいただいた30万円です。
  上海の少年児童出版社の協力で、この30万円で、60万円分の本を買うことができました。他にこの出版社自体が、寄贈してくれました。中国福利会の出版社も寄贈の協力の輪を広げてくれました。大田さんは言われます。「興隆はいなかだけれど、あそこにいくと、中国で出版されているいい本はみなみることができるよという図書館になるといいね」山住さんは、戦後東大に教育学部ができたときの大田先生の学生でした。今回大田図書館に、皆様のカンパをもとに3234冊の図書と、70万円の図書購入費の贈呈の役を果たしてくださったOさんは、都立大で山住先生の学生でした。教育三代の壮挙です。
 大田こども図書館は、土・日は、父母が子どもづれで訪れているということです。

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山奥の馬架溝

 無人区の実態として抵抗をした人々のお話を聞くため私たちは山奥の村をめざしました。前回訪問を果たせなかった驢驢叫へ行くことは今回も道路事情が許さず、直前になって比較的道路事情が良くなったということで馬架溝へ向かいました。第2回訪問団が訪れた安子嶺郷の上流羊羔峪からさらに奥の谷に入っていきました。途中道路修理中でマイクロバスは川原の砂利の上をしばらく走り、小さな小学校に着きました。教室が2つ、先生が2人、生徒が1年生から6年生まで全部で28人でした。全部の子どもたちを1教室に集めて熊本県の先生たちが鍵盤ハーモニカを使った音楽の授業をしました。教える先生たちも、教わる子どもたちも真剣そのもの、村人たちがのぞき込む中必死で取り組んだ子どもたちは5本の指を使って、「かえるの歌」を演奏しました。
 授業の後は、2人の老人の話を聞きました。候さん(73歳)と霍さん(68歳)。1940年頃ここは八路軍の根拠地となり、日本軍の掃蕩は石をひっくり返して探せというものだった。家を焼かれ、人圏に入ることを強制された。しかし人圏に入っても食べるものもなく、あまりに人口が過密になって伝染病がはやり生きていけなかったから、八路軍の呼びかけもあって山に隠れる人も多かった。日本軍が撤退した後には村の人口は半減していた。一家5人のうち20歳位の青年ひとりだけが生き残った家、全員殺された家もある。戦争中は教育も受けられず、毛沢東時代に字を教えたもらった。生活は苦しく言葉には表せないものだった。

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モクイでの交流


 力強い鼓笛隊の演奏に迎えられて2年ぶりにモクイ中学に入りました。
 グランドに焚火が燃え上がり、村人たちが幼児から老人まで円陣を組んで見守る中で、子どもたちの演奏、踊りが次々に繰り広げられます。私たちのお土産は千葉の高校から預かったリコーダー140本余りと各地から寄贈された顕微鏡や家庭科用布地教材などです。私たちも歌と踊りを披露し、子どもたちによるさよならの歌で大交流会は終わりました。どうしてもMさんに会いたいと暗闇の中で立ち尽くしている娘さんがいました。
 翌朝恒例の村内見学です。初めての参加者を中心に殺人坑跡、人圏の壁と馬道の跡を見学し、第1回の訪問時に泊めていただいたお宅へご挨拶へ行きました。あるお宅では息子さんが結婚し間もなく赤ちゃんが誕生するといううれしい近況を知りました。前回の旅でも感じたことでしたが経済発展の波が着実にこの地にも及び、そちこちで住宅が新築、改築され道路が改修されています。人圏の壁も馬道も一部壊され、記念碑も取り壊されたり薪の山に隠れて見つけるのに苦労しました。

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劉杖子で任さん、王さんに再会


 1998年2回目の訪問のとき、万人求でお会いした方たちを今度は住んでいる村まで訪ねたいと思った。しかし、前日までの悪路で車はかなり傷んでいるようで、この先峪の奥へは行けないと宣言されてしまった。再びお2人に劉杖子まで来ていただいてお話を聞くことになった。
 任さんは5人の家族の中で自分だけが生き残った事情を詳しく話してくれた。前回は感情が激して語り続けることが出来なかったが、半年後、Nさんがお見舞いに訪ねていったので、今回はにこやかに私たちの前に現れた。車河堡にあった日本の機関(黒岩部隊)による掃蕩が行われ、まず父が捕らえられ、続いて母と3人の子どもたちも車河堡に集められた。激しい拷問と虐待の末、同様に集められた村人たちとともに谷川の方に引き立てられ機関銃による一斉射撃で多くの子どもたちを含む全員が射殺された。 当時8歳(満6歳)の彼は1人の兵隊に気に入られ、殺害を免れたが、殺される瞬間振り返った母の目、とどめを刺された2歳の弟のことなどを鮮明に覚えている。子どものいない兵士の養子として選ばれたために生き延びたものの、結局軍隊の移動で母方の祖父のもとへ送られ、叔父によって育てられたとのことだった。
 王さんは娘が付き添い、兄も同席しての証言だった。兄妹は他の人々と人圏を出て収穫に行ったところ、日本軍に見つかりまとめて銃殺された。兄はトイレに行くと言ってその場を逃れて人圏に戻り、妹は3日後に埋葬のために訪れた人が生きていることを確認し、介抱されて生き残ったのだった。体のあちこちに傷の残る王さんたちの事件をめぐって甥や集まってきた村人たちが口々に補足説明をし、議論しあい村人たちの間で語り継がれていることがわかった。

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沙峪でのこと

 20日は興隆を出て、北京市北西の長城の名所慕田峪に程近い沙峪に向かった。1938年6月古北口に駐屯していた関東軍第3独立守備隊第13大隊第3中隊は、八路軍掃蕩を目的にここへ進撃したのだが、八路軍側はすでに布陣を終えて日本軍を待ち伏せ撃退した。抗日戦争の第一声が放たれた土地として記念碑が建ち、愛国教育の基地となっていた。冀東大暴動の端緒となった戦いである。八路軍兵士だった程さんは白兵戦となった戦闘の状況を語った後、戦いやぶれて野に斃れた日本兵に言及して「彼らにも親や子があったろう。かわいそうに。」と言い、「我々の望みはここで平和に安全に暮らすことだから、侵略者に対しては断固戦うが、覇権を求めて国外に出ることはない。再び戦火を交えることが無いようにお国に帰ったら伝えて欲しい。」と結んだ。古北口から沙峪まで今は整備された道路をバスで走れば2時間ほど、しかし日本兵は未明に出発して飲まず食わずで走り通して午後1時ごろ到着し、そのまま日没まで戦い先遣隊はほぼ全滅している。私たちもここに斃れた日本兵のことも思って不戦を強く念じた。

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碾子溝

 人圏を記録する当時の写真はたった1枚しか知られていない。盧溝橋の抗日戦争資料館にある写真には碾子溝部落の字があるが、資料館でここはどこかと聞いたとき、説明員は知らなかった。興隆の文化館にも同じ写真があるものの誰もその場所を知らないようだった。
 今回私たちは、赤城県を訪れ党史弁公室前主任の孟さんによれば碾子溝は特別なところではない。ただ写真が残っているために有名になったのであるということだった。北から南へ流れる黒河と白河の中間に長城が南北に走っている。この長城が北へ突き出ているところが独石口で、「満州国」の西端に当たる。この長城の東側、黒河流域が満州国だったので66箇所の人圏が作られた。碾子溝もそのひとつだった。
 村は日本軍による日本占領時代の構造をほぼそのまま残し、写真が示す部落の入口は建物こそ無くなっているがそのまま今も村の入り口、人圏の壁も削られたり、崩れたりしながらも一部残っていた。その入口の監視所で逃げてしまった父に代わって見張り当番をさせられた韓さん(75歳)は、何かにつけて殴られたことを話し、八路軍と戦うために訓練に動員された。「マワリミギ」「ミギムケミギ」「バカヤロー」などの言葉と動作をやって見せた。徴税が恣意的に何度も繰り返され、ある日鍋まで持っていかれてしまったと当時の生活の困難さを語った。今も貧しいままに発展から取り残された村に、野の花が咲き乱れていた。ここまで来て中国人をいたぶって憂さを晴らした日本兵の目にこの美しい花は映ったのだろうか。

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パンジャープー

 蘆溝橋事件以後、日本軍に接収された竜煙鉄鉱の主な鉱区だった。宣化から引き込み線がしかれ、鉱石は石景山に運ばれて鉄鉱となり主に日本に向け移送された。興中公司、華北開発公司と名前が変わり、日本製鉄とともに組織された石景山製鉄所は1941年から操業を開始し、翌年北支那製鉄株式会社となった。解放後も鉱山として一時は一万人以上の労働者が働いていたが、2000年に閉山となり小規模な企業がいくつか残るのみということだった。
 94年にNさんが訪問したときに見たという記念館に案内をお願いした。斜面を登るにつれ廃虚となった労働者住宅が見渡す限り広がっている。辿り着いた頂上にあった記念館も廃虚だった。崩壊の危険があるため屋根をはずしたとのことだったが、門を入ると「階級苦を記憶にとどめ、血と涙と飢えを忘れまい」と記した大きな記念碑はしっかりと建っている。その碑の足下に頭蓋骨が数個私たちを出迎えた。さらに碑の後ろに回ると穴の中に人骨が積み重なっている。万人坑の一部であった。よく見ると周辺の夏草の間にも骨片が散らばり、斜面から突き出ているものもある。これらの骨の主一人ひとりに人生があり、家族があるはず。陳平さんの言葉を思い出し、なんとも申し訳ない気持ちになった。
劣悪な条件下で働かされ、食べ物も黒豆と水のみ、病気になっても治療を受けられないばかりか、なお働くことを強制され、伝染病が流行り毎日死者が出た。着るものも無く、餓死、凍死も多かった。
 私たちは旅の終わりに、戦争とは何かということを見た。「暴戻支那を庸懲する」「邦人保護」などその時々の政府は戦争目的を語る(ブッシュは大量破壊兵器の存在を言ったが、本音は石油と復興ビジネスの利益であることはもう世界の人々のよく知るところとなった)。しかし、その大義名分の裏にあるものは搾取への誘惑であること、その証拠がこの骸骨の山である。侵略者、占領者は被支配者を人間とは見ていない。その差別感情に乗っかって侵略は行われる、とつくづく思った。
 ここパンジャープーでは、当時を知る人の証言を聞くことが出来なかった。語るのは嫌、と断られたのである。60年の時を隔てて、胸の痛みを抱えたまま生きている人がいる、と改めて思った。

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西南の国境線の西半分

 2002年夏には西南の国境線の東半分に行きました。今年はその西半分に行ったわけです。山海関から、独石口まで、1935年の熱河作戦の後、熱河を満州国に入れて、長城線を中国との国境線とします。興隆県はその時、河北省から、満州国に入れられるわけです。建国後河北省にもどります。地図で興隆県の位置を確かめてください。ちょうど西南の国境線の真ん中に位置し、南と西が長城に囲まれ、一番長く長城線に接しています。また、独石口は近代以前から、異民族の侵入に対する攻防戦の展開する場所でした。1938年延安から派遣された宋時輪、登華の率いる八路軍第四縦隊、北京の西方斎堂に終結し、沙峪を通って興隆に入り?子峪から、将軍関を抜けて、靠山集に終結するのです。それに20万人の民衆が呼応して立ち上がるのがいわゆる冀東暴動となるのですが、私たちの今回の旅は、そのコースを逆に行ったということです。

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黄華先生を囲んで

 この2年間黄華さんは、腰の骨を傷められてコルセットの生活を南方で続けておられました。
 でも今回は回復されて、ひとりでお歩きになり、宋慶齢故居で団員たちと2時間も話してくださいました。いつも時の問題の分析はきびしく、人には暖かい方です。
 山形の御殿鞠はことのほかお喜びでした。みんなで最後に黄華さんを囲んで歌った「さよなら」の歌もご自身でメロディを口づさんでいらっしゃいました。後でお礼にお宅を訪ねた時、楽譜が欲しいと言われたので送りました。

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今後のこと

1.温州の山の支援について

 終わりにすることは前に報告をしました。
 来年の秋、温州の山の支援の後を訪ねる旅を計画したいと考えています。ご支援くださった皆様がご参加くださることを世話人一同願っています。8月は一番航空運賃が高い時期なので、秋の切符の安くなる時期を選びたいのです。具体的な呼び掛けは、5月の中間報告でお知らせします。お考えおきください。

2.興隆の支援について

 興隆の学校改築支援については終わりにします。まだ20数校の小学校の危険校舎がありますが、これは興隆県の教育局の責任で、順次改築していくとのことです。中学校の校舎については、外務省の小規模無償援助資金(1000万円前後)はすでに大水泉中と大杖子中と2か所に出ていますので、一地方一回の原則を越えていますから申請は無理です。興隆の経済事情もだんだん良くなってきていますから、これも自力で解決していくことでしょう。
 いま、問題なのは、埼玉県くらいの面積の県にレントゲンの機械が興隆の町に1台しかないことです。それでモクイの郷の病院にレントゲンの機械が寄贈できたらと考えています。病院も30数年たってあれています。この改築は県長に県の責任でしてもらうように申し入れてあります。
 レントゲンが1台ここに入れば、モクイ郷だけでなく、北の大杖子郷、西の大水泉郷、東の寛城県の王廠溝の辺りまでの人たちが助かります。ここは、あの戦争中無人区にされた五指山根拠地の一帯ということになります。
レントゲンは今中古で、300万円くらいです。それに輸送費が必要になります。中国で購入できないか、目下調査中です。1台中古の場合いくらか。新品の場合いくらか。移動レントゲン者の場合いくらか。それによって中国で買うことも考えられます。
大田こどもとしょかんを山のこどもたちも利用できるようにするための移動図書館用の車が必要になります。これは中古のライトバンくらいでいいのですが、できれば寄贈してくださるところを探しています。これも改造と輸送にお金がかかるので、中国で調達できないかと考えています。