おつとめ、おまいりとは 私たちの信仰することを言っていると思います。おつとめ、お参りの仕方というと、作法、きまりを言うように考えがちです。しかし、それだけではありません。やはり、心の信仰が大本になければただの猿真似です。ここでは、家で手を合わせるのをお勤め、それ以外をお参りという程度に区別しておきます。おつとめの仕方を通して、さらに、信仰に親しみ、信仰の世界に入られますことを念じてここに記したいと思います。

  

    目 次

一.おつとめ、おまいりの意味、目的

二.おつとめ・おまいりの仕方 
     
1.念珠

2.輪袈裟

3.合掌

4.線香

5.礼拝

6.お経

@日常の時 A葬儀の時 B法事の時 C神社の時 D他宗教の時 
Eお遍路の時 Fその他

三.おつとめ、おまいりの究極
                  
                                      以上
  






一.おつとめ、おまいりの意味

禅にこういうお話があります。
「仏の教えには、いのちあるもの皆、仏の性があると説く。されば、なぜ修行をしなければならないのか。修行することはないのではないか」
このように疑問を持ったお坊さんは、ある日のこと、瓦屋さんが、懸命に瓦を磨いている姿に出くわします。その時、そのお坊さんは、はたと悟り、
「瓦は、どれも瓦だが、磨かなければ、用をたさない。人には皆、仏の性があるのだけれども、その性に気づかない。あの瓦と同じく、この人生を本来の自己として生きて行くためには、自らを磨かなければならない。そのために修行があるのだ」
このように悟ったのでした。
さて、悟る悟らないと言えば、私たちと関係ないようですが、私たち自身の問題として考えますと、自分が、自分らしく生きること、そのためにおまいりするのだ、ともいえましょう。私たちの毎日を考えますに、昨日の朝と、今日の朝との朝の迎え方が同じでしょうか。ず―と同じ人がいるとは思えません。それは、日々いろいろなことがあるからです。朝いる人が、夕にはおらず、昨日決まった事が、今日にはくつがえされる、そういう日常の中で私たちの心は日々揺れ、迷い、興奮し起伏を持つのではないでしょうか。
おつとめは、私を私らしく私を見失わないため、心を養うための修練である気がします。そうすることは、仏前が心のよりどころとなり、支えともなりましょう。

例えば、戦後の首相の中で沖縄返還などで有名な首相と言えば佐藤栄作氏です。想像するにその首相職たるや激務であろうと思われます。その佐藤氏は、在職中、毎朝写経をしていたと聞きました。多分、この写経にて心を平静に保ったのではないでしょうか。また、ある大きな会社の社長さんが曰く、社内の三時間の会議より朝の十五分のお勤めのほうがよい案が浮かんでくるともいってました。どちらにしろ、決断を迫られる日々にあってお勤めが二人にとり大きな支えであったと思います。

ところで、甲子園高校野球大会などで、監督や選手が、「平常心で行きます」と言うコメントをよく言っているのを耳にします。この平常心に関して思いますに、老子の言葉にこういう言葉があります。『千里の道も足下より始まる』。このことが意味しているのは、大きな災いも大きな目標も小さなことから始まっている、災いは小さなうちに手を打ち、目標には一歩一歩を慎重に行く、ということです。
私はこのことから、日々の生き方として、絶え間ない根気、努力、さらには、慎重さを感じます。そして、人生における大きな目標に向かう時、また、災難にあったときも千里先を見据えているために、今を動じず、落ち着いて行動することができるのだと。『平常心』は、常に落ち着き払うことであるかもしれませんが、それは、千里先の目標があればこそ、毎日を丁寧に生きていられるのではないかと思います。千里先を見据える人こそが、平常心になれると思います。

そこですが、お勤め、お参りの目的として、私が言いたいことに、信仰により心安らかな自分になれる、ということです。お大師様は、それを「即身成仏」(そくしんじょうぶつ)と言いきりました。先に言った、本来の自己、私らしい私、これは心安らかな己を言うのだと思います。私たちは、この世の中にあって、この環境にあって、この条件にあって、この人生にあって、皆等しく心安らかに生きることができると言われたのでした。その言葉を千里先の目標に置いたならば、そして、その目標に向かって日々お勤めに、お参りにいそしむならば、必ずや、その人に、平常心たる信仰のおかげがあるでしょう。その言葉は、人生の災いの渦中にある人であっても同じことです。さんざんに苦しみ、ちぎれそうな心であっても、そのままにお勤めをすれば良く、ありのままに自分が散々な自分でお参りをすれば良いのです。それらは、一時的な心の迷い。しかし、千里先を見、仏前にいて心静かな自分を味わっている人にとっては、この心の嵐に惑わされることはないのです。迷いの道もすべて一つの道にかなっているのです。人皆すべてが、仏に招かれ得る道にいるのです。
だからこそ、困った時の神頼みでも、都合のいい願いでも、お勤めに代りありません。私たちは、その信仰の道によって導かれていることを、お勤め、お参りのよって、感じていくことができるのではないでしょうか。
以上が、私の思うお勤めの意味、目的であります。


二.お勤め、お参りの仕方

以上述べてまいりました事から、お勤め、お参りには、その時々の作法はあっても、大本がしっかりしていれば、それほど私はこだわりません。
お勤め、お参りすることが信仰の道であることがお分かり頂けたでしょうか。次からは、その時々においての作法についてお話しましょう。

その前に、共通のことについて解説致します。
仏式のお勤め、お参りにも宗旨宗派によって、仕方は異なります。それは、それなりに一々理由があるのですが、私は、高野山真言宗に順じた仕方を言います。しかも、南福寺流が入ってもおります。これは、師資相伝の間柄といったものでしょう。でも、まちがいではありませんから。

1. 念珠(ねんじゅ)(数珠(じゅず)ともいいます。)
   
この数珠は、仏教徒が誰でも使用する物です。百八煩悩を表したものといわれていますが、玉の数は五十四、二十七などあります。一般に、長い物、短い物、腕にはめる物があると思ってください。
 



母珠(もしゅ)=ここにお大師様が見える穴があったりたり、仏様が見える穴があいたりしています。弟子がついている大きな玉がこの母珠です。親玉とも言います。
緒留=母珠の反対側にある大きな玉が、この緒留です。文字通り数珠の紐が結ばれています。

使い方=これは、普通一重にして左腕に掛けてお勤めなどに使用します。手に持つときは、母珠と緒留を会わせて二重にし、房4本とも左手に握りこみます。置く時は、母珠と緒留が反対になるように三重にし、房を輪の中に入れるようにして置きます。お経台に置くときなど、母珠を仏壇の方へ向けます。

念珠の擦り方=念珠はジャラジャラと忙しく擦り音を立てる物ではありません。静かに念をこめればいいのです。先ず、右の手、中指に母珠をかけ、房を内側にたらします。緒留を左手、人差し指に掛け、同じく房も内側にたらします。そして、左右の手の平を合わし右手を下にし,左を上にして念珠を擦って祈念します。軽く三度ほど擦れば結構です。すりきる時ですが、
自分のお願いことだったら、右手を手前に引き、回向や、
供養などは右手を向こう側に出してすり切ります。

他の使い方=念珠にはそもそも数をくる機能があります。
よくご真言を唱える時、数として七回、二一回唱えますが、
そのとき、右手は片手合掌したままで、左手に念珠を一重
にし握りこみ、親指で母珠から数を数えるために玉をくる
のです。すると、七回が終わると小さな違う玉が出てきま
すし、二一回の時も同じく違う玉が出てきます。こうして
数を数えることができます。ちなみに、数をくる時には、
小さな玉は数に入れません。


*短い念珠・単念珠といい玉数が、二十七、二十二、十八とかがあります。

これは、母珠(親玉)しかなく、短いので擦って音を出したりはできません。

使い方=左手の親指と人差し指の間に掛けます。そして、合掌されたり、握りこんで持っていただいたりします。お勤めの時、お参りの時にでも、簡便ですが持って行くのに便利です。

*腕輪念珠・腕にブレスレッドのようにしてはめている物

これは、腕にはめておく物です。魔よけであったり、心の糧であったりします。使い方としては、それだけでして、お勤め、お参りには、やはりそれなりの念珠を持って行きましょう。

《念珠の玉の材質について》

念珠の玉は、木製、石材とあります。このことに関して、厳密に言うならば、拝む仏様、拝む法要の内容によって念珠の玉の材質は変わると申します。しかし、これは、プロのお坊さんのはなし。テレビなどで言う水晶にはパワ―がある、など、材質によっての効能の違いを信じるかどうかはそれぞれに任せます。私の念珠は木製で、材質は普通の梅を使っています。使いこんだら有り難い物です。買われるなら、値段もピンからキリまであるのでよくよく仏具屋さんで検討されると良いでしょう。

2. 輪袈裟(わげさ)  

お坊さんが、黄色の袈裟という物を肩からまとっています。それをたとんで小さくした物が輪袈裟といわれる物です。ですから、お坊さんの黄色の袈裟と変わりがありません。この袈裟というのは、仏教徒の印でして、糞掃衣(ふんぞうえ)とも、福田衣(ふくでんえ)ともいわれるものです。お釈迦様の教えを形に表したものです。ですから、この袈裟をつけてお勤めやお参りをするのです。
この袈裟にも長い物とか短い物とかありますが、より簡略にしたのが短い物です。

使い方=表と裏、上と下を間違わないようにしましょう。いずれも、袈裟に織られている印を見ることで分かります。念珠もそうなのですが、お手洗いにいく時は、この袈裟をはずして行きます。お遍路に行ったときなど、四六時中袈裟を着けているためつい邪魔くさくなってしまいますが、お手洗いには、はずして行くものです。
毎日のお勤め、どこそこへのお参り、年忌法要、仏式結婚式などにこの袈裟を付けましょう。お葬式やお悔やみにもこの袈裟を着けてなんら差し支えないのですが、あまり見かけることはありませんね。
南福寺では、檀家さんには一家に一本差し上げているつもりです。もし、お持ちでないならお申し出て下さい。是非とも仏教徒の証として持ってもらいます。

3. 合掌

手のしわと、しわを合わせて、「幸せ」とは、どこかのCMですが、合掌には得もいわれね有り難きものがあります。
そもそも合掌は、古来インドから仏教圏内のあらゆる国家の習慣です。仏に礼拝するだけでなく、一般に世間の挨拶、感謝の表現として合掌を致しまして、相手に対して信順の態度を示します。それは気持ちの現われであり、美しい姿であります。
合掌にしろ手に何かの形を作り拝むことがあり、このような手に作る形を総称して「印(いん)」といいます。たとえば、阿弥陀如来は、両手ともにOKの形を作って右手を上、左手を下にしています。すべての仏像を良く見てください。皆何らかの形を手で作っています。その仏の誓願、主張を手の形で表現しているのです。特にこれらの印について、密教では、教学の根幹を成すほどの大きな意味があります。
では、なぜ印が必要なのか。こんな話があります。
昔、一休さんが、高野山の坊さんにこんな質問をしました。
「あなただちは、印をとても大切にしているが、なんの意味があるんだ」
と、むしろけげんそうに問うのでした。すると、質問を受けた坊さんは、何も答えず、右手で、おいでおいでのしぐさをし、手招きのような格好をするのです。一休さんは、手招きに誘われるままにそのお坊さんに近づきます。すると、かの坊さんの曰く、
「あなたは、なぜここに来た。私は、ただ手を揺らしただけだ」
といったそうです。これには、さすがの一休さんも一本とられたわけです。
印とかなんとかもっともらしいことするな、という一休さん。それに答えた高野山のお坊さんは、手招きだけをして見せた。すると一休さんは招くままに来た。つまり、印とはそう言うものといいたかったのです。手のしぐさで、何かを伝える、表す、ということができるのです。一休さんもそれに自然と応じたわけです。印を結ぶことは、私たちの心の表れです。仏の気持ちの現われです。心して合掌したいものです。
では、合掌はどんな意味なのでしょうか。

合掌の意味

主に私たちが普段行う合掌に二種類あります。それぞれを説明しましょう。

蓮華合掌(れんげがっしょう)=手と手と合わした時に、互いの手の平をぴったりとくっつけず、自然に膨らましたまんまの状態の合掌です。これを、蓮華合掌といいます。これは、蓮華のつぼみが咲いている姿をあらわします。蓮華は仏教の教えを説く花として大切です。よく言われますことに、泥の中から花を咲かせ、花を咲かせると同時にもう次の種を持っています。このことから、この世の苦しみの中からでも、花を咲せることができる私たちであり、私たちは、生まれた時から、仏の子としての種を持っているのです、ということを蓮になぞらえるのです。そこで、この蓮華合掌をすることで、仏前においては仏から頂いた種を今、咲さんとすることであり、そのつぼみをもって、仏の教えを頂き開花しようとしています。人と人においては、互いにつぼみを持っているそのことに、礼拝し敬うのであります。
普通のお勤め、お参りには、この合掌で結構です。

金剛合掌(こんごうがっしょう)=手と手を合わせます。合わせた手の平の右手を手前にずらして、指を交互にします。右手の親指が一番手前になります。そして、手の平はぴったと着けます。指先も一直線に並べます。これを金剛合掌といいます。蓮華合掌は、どの宗旨の方でもするのですが、この金剛合掌は、真言宗だけでしょう。まず、十の指を合わせることの意味ですが、右手は仏、左手は凡夫の私たち、これが交互に重なり、堅固にしかも一体になるという教えです。仏と私が一体であるの精神をこの合掌で表すのです。この合掌によって、自身仏に守られ、仏といつもいっしょなりの信心を固くして下さい。この合掌は、普段のお勤め、お参りにいつでもお使い下さい。

4. 線香

どの仏教国に行っても礼拝場、寺院には線香の煙が漂っています。お参りにはそれほど線香は切っても切れない縁ですね。この線香は、香りによって、身心を清らかにするそもそもの働きがありますが、精神的には精進の修行を表し、じわじわ行くことの大切さをいうようです。線香の質はなんでもいいわけですが、これも値段はピンからキリです。いろいろな香りを楽しむのもいいと思います。使い方として良く問題になるのが、本数の問題です。真言宗は、普通三本とおぼえていて下さい。本数の意味を次に書いておきましょう。

一本=お葬儀のとき、枕経から始まって、お骨になるまでは、一本です。それは、亡き人にのみにこの功徳を届けるために一本にすると聞きます。別に、大きな線香、高価な線香は、一本にします。

二本=普段に使いますが、仏と私たちがいっしょであることを願い二本にします。

三本=普段に使いますが、私の身体と口と心の三つを一つにして仏に捧げることから、または、それらの三つが一つにになるように念じてお供え致します。

5. 礼拝
テレビでチベットの人たちが身を投げ出しながら巡礼している姿を見たことがあるでしょう。五体投地(ごたいとうち)といわれる礼拝の姿です。タイのお寺でも参拝者がこの五体投地をしている姿が見うけられます。とても丁寧なやり方です。では、普段のお参り、お勤めの時にはどうすればいいのでしょうか。二つの方法を図で表します。五体投地を座ってやるやり方とただ頭をたれるやり方とがあります。
五体投地ならば、三度繰り返します。ただ頭をたれるのなら一度でもいいでしょう。そこで、なぜ三度なのかと申しますと、お勤めのお経には、必ず、「三帰依」というのがあります。仏・教え・僧の三つに帰依し礼拝します、という内容です。分かり易くくだいたならば、
仏=尊敬する人、目上の人、あらゆる命あるもの
教え=座右の銘、仏の教え、人生の指針、自分の戒め
僧=友人、友情、仲良き人々
この三つに対して先ずもって礼拝するというのが仏教者たるところです。この三つに礼拝するところから三度なわけです。しかし、実際礼拝してますと一々考えておれません。私としては、礼拝は、自らの身体と心を仏に差し出す行為だと思います。懺悔、感謝、祈願なんにしろ、仏に我が心を見ていただくという観念でいいと思います。素朴な意味でいいと思います。

6. お経

仏前では、お経やご真言、お題目、ご詠歌などをお唱えします。大切なことは、声を出すことです。出ない人は、さらに観念でお勤めする方法もあります。お尋ね下さい。その声は、できれば大きな声がよろしいです。息継ぎは、気にせずやってください。お経もなれてまいりますと、頭の中でいろんなことを考えるようになります。それは、払うにこしたことはありません。無心がよろしい。しかし、それがむずかしいものです。頭の中に浮かんだら、浮かんだまんまにしてください。コツは、物語を作るように過去を振り返ったり、未来を案じたりしないことでしょう。
では、お経を唱えることが、なぜ、お勤めにいいのか、といいますと、私は思いますに、無心になれるからだと思います。少しばかりの時間でも無心になったらいいと思います。お経の意味的内容で仏が喜んだり、亡き人が成仏したり、病気が治るわけではないでしょう。お経ということを通して私の心が仏に通じよ、と念じることでいいのではないでしょうか。一心にお経を唱えるという行為を考えますに、頭の中では、病気平癒ばかりを祈っているかもしれない。けれども、お経を唱えることで、その思いを仏に預けているのです。すると、今まで、私一人の頭の中でくよくよ考えていたことを仏さんに持ってもらうことで、私は、無心になれるのです。頭に思いはあるけど、一心であれば無心なのです。真言もそうです。お経そのものより私は、お唱えするということを大切にしたいのです。
唱えるお経の種類としては、私たちには、般若心経が一番いいと思います。しかし、お経の意味も大切です。これに関しては、また別の機会にしましょう。

以上がお勤め、お参りについての共通するところです。
では、次に、お勤め、お参りの種類によっての仕方を述べましょう。

@日常の時
お家の仏壇でのことを述べます。
お勤めの順序としては、お勤めとして仏前に座る前に、お茶、お水、ご飯、お花の水換え、など準備します。こういう準備が先です。それからお勤めです。掃除は、いつでもいいですが、たまには致しましょう。
朝のお勤め、夕のお勤めとありますが、自分のできる時間にすればよろしいのです。また、お勤めは、これをしなければならないという規則はありません。時間に余裕がなければ、短くてもいいのです。ここには、先ず、普通のやり方を述べてみましょう。

お勤めの式次第
線香、ろうそくをお供えします。
礼拝。五体投地でもいいのです。正座できなくても構いません。
威儀を整えます。落ち着いた心持になりましょう。
念珠を擦ります。仏への挨拶の意味。また、心中の祈願をこめます。
金を打ちます。三回打ちます。
お経本を開けます。
読経。これは、どの経本いいのです。南福寺には、南福寺で編集した経本がありお持ちでない方どうぞおしゃって下さい。
読経の際は、項目が終わる度に金を一回打ちます。
すべて読み終わったら金三回打ちます。
念珠を擦ります。心をこめて念ずるところを祈念します。
経本を閉じます。
礼拝。
ろうそくの火を消します。口で吹き消しません。

それぞれの仕方に関しては、以前の項をご覧下さい。経本の内容の意味に関しては別の機会にしましょう。
次に忙しい時を考えてみます。先の次第の中から、2.3.6.8.11.を止めまして、
7.の部分を縮めます。7.は、例えば、般若心経だけとか、最も短くして、ご宝号だけにします。真言は、三回、七回、二十一回、百八回、その後無数、とあります。回数で時間をくぎってもいいでしょう。このようにすれば、ずいぶんと時間の短縮ができます。

A葬儀の時
葬儀の時、通夜の時、とありますがそう違わないでしょう。
礼服に、念珠、お香典を持ちます。お香典について言えば、「御香典」「御霊前」とかくのが普通です。水引は、黒白の不祝儀です。銀色でも構いません。このときに、書く墨の色は、薄くするといいます。
焼香は、結構その場の様子を見ながらやってることが多いです。葬儀屋さんのいうことを聞いていたり、前の人のやる通りにしてみたりで、これといったのはないとおもいます。むしろ、これだけは自分はするといってやっているほうが、おかしいでしょう。例えば、大声で宗旨の違うお題目を唱えるなど、我を通すのは考え物です。あくまでも施主のための儀式でもあるのですから。また、その地域独特の風習もありますから一概にお参りの仕方は言えません。私からは、気がついた点を挙げておきましょう。

枕経、お通夜、葬儀、これらの時に線香をたてることがあるならば、一本です。お骨になる前までは線香は一本です。
お通夜、葬儀、火葬場のときの焼香は、一回です。別れの焼香といって一回だけです。
お通夜、葬儀の時、なんと言って拝むのか、は個人次第です。自分の宗教の真言、お題目を念じたり、言葉として別れを言ったりして、心を伝えることでいいと思います。そちらの家の宗教のお題目を唱えることもいいと思います。心をこめて、ご冥福を祈ることに変わりありません。
会葬御礼として、今は「お清めの塩」は、廃止されつつあります。これは、死人が穢れを持ち、その穢れを受けて、また重ねて死に人を出さない為に塩で払ったということです。死は、穢れではなく、別れです。個人の感性にもよるのでしょうが、私も必要ないことだと思います。

B法事の時
亡き人を偲び思い返し追慕の念を捧げます。これといって、仕方はないとおもいます。焼香は、三回でいいです。香典は、白黒でいいです。地方によっては、白黄を使うところがあります。

C神社の時
真言宗は、神仏一体の教えです。ですから、神も大切にします。神社にお参りした時は、常の如しですが、
深い礼拝(二拝)、手を打つ(二泊手)、深い礼拝(一拝)の順にします。

お経は、般若心経をあげて構いません。ただしその時は、最初の「仏説」を省いて、「摩訶般若・・」から始めます。
ご真言について。お稲荷さんは、「南無大明神」(なむだいみょうじん)、その地の氏神様は、
「南無当所鎮守」(なむとうじょちんじゅ)、他の神様は、「南無大権現」(なむだいごんげん)といいます。また、その時その時で、「南無石鎚大権現」とか「南無金毘羅大権現」などといいます。
*   もちろん、私たちが「祝詞」(のりと)をあげても差し支えありません。

**有名な大宰府天満宮は、明治までお寺が管理してまして、安楽寺といわれてました。そして、お唱えは、「南無天満大自在天神」と言われていたのです。明治以後、分離されました。


D他宗教の時
宗教によってお勤めの仕方は違います。それぞれの人が考えることですが、個人の信奉する宗教に高低はないと思います。ですから、自分の拝み方を強要することはないと思います。その時その時の宗教から学ぶべきことは多いと思います。ですから、その場を大切にすればいいのではないでしょうか。他宗教のときにどうこうしなければならないと言うことはないと思います。

Eお遍路の時
これはちょっと、このスペ―スでは言いかねるところです。別の機会にしましょう。
ただ、真言宗の者としてお遍路は、実習しなければならないこととしてかんがえております。


Fその他
わからない点は、どうぞお寺までお尋ね下さい。


三.お勤め、お参りの究極

こんな話があります。ある徳の高いお坊さんがある寺の住職の三百回忌法要に呼ばれました。そして、お説教をしております。お説教が終わりましたが、一人だけ帰らない老人がいます。老人は、二人きりになるとそのお坊さんに、「お尋ねしたいことがあります」といいます。何となく妖気が漂い尋常ではありません。そして、口を開きます。「実は、私はここの住職じゃったものだ。わしがある日のこと、狐から問答をされたんじゃ。『悟ったものは、輪廻の生死を離れることができるか』(修行を積み、悟ったら、永遠の命になれるか)とたずねられたんじゃ。わしは、『できる』と答えた。すると、あっという間にわしは狐になりこうして三百年もの間、この法要にくる坊さんに尋ねておる。どうじゃ、なんじに尋ねよう。悟ったものは、輪廻の生死を離れることができるか、どうか」高僧は、その問いを聞き即座に答えたのです。「生死を離れることはできずとも、生死を明らかにすることができる」(永遠の命を獲得することはできないが、生まれいずれは死に行くのが私であると、永遠の真理の中に生かされていることが知れる)と。その答えを聞いてその老人は煙のように消えたというのです。
さて、このお話は、示唆に富んだ話です。世の中は、個人の意思に構わず真理の動きをします。しかし、我欲は、この真理に暗くなりつい自分の思うようにならないことで苦悩致します。自分を高ぶってみたり、自分を卑下していたり、本当の自分に気づかずにいます。狐に付かれた元住職は、我欲のために死ぬことすらも解らなくなっているのでした。その住職にとってのお勤めはなんだったのでしょうか。生を死を思い通りにすることだったのでしょうか。ひるがえって、私たちは、お勤めをする時に何を願っているのでしょうか。お参りしながら何を願うのでしょうか。それは、何を願っても構わないのです。でも、その願いをもっている私を、またじっと見守っている方がおられることもまた知るべきでしょう。生きていること、生かされていること、そのことを実感できるのもお勤め、お参りにあると思います。
ですから、先達の方が言います。風の音に、谷の音に、仏の声を聞き、商人の売り声にもお経の声のごとくに聞こえ、ただ、畑を耕すことも仏道修行として身を修めることができる、と。
お勤めの仕方、お参りの仕方、これに詳しくなっても何も得る物はありません。そういうことに詳しいことが、その人の人格の向上になんら関係しないのです。ここに長々と記した内容は、実践して味わってはじめて生きていく上での助けとなりましょう。すると、生きて行くところすべてが、お勤めになって行くことだと思います。形にこだわらなくても、と言う安易なことは言いません。先ずは、やってみてください。続けることです。


  
                 仏事秘伝帖 その二
                          お勤め、お参りの仕方  



1999年秋彼岸中日法要のために記す。南福寺伝なれば、他見を好まず。よくよく質疑問うべし。誤記、誤解釈、一人よがりの越三摩耶の罪に恐れるのみ。本尊倶利伽羅不動明王、末資が微意を照覧したまいて、これを目にする人を導き給わんことを。
                                            南福寺住職 渡辺弘敦  合掌    

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