おわりに

 ここまで、武満徹作曲「径」を分析してみて、多くのことが解った。作曲家は緻密な計算のもと、この作品を完成させている。しかし、私はここでその緻密に組み立てられた音構造ゆえに、彼を、この作品を、賛美するのではない。逆に緻密な計算ではない部分の閃きとか直感と思われる部分を賛美したいのである。私は常々演奏家として、そのような閃きとか直感を大切にしたいと思っている。新しい作品に出会う度、私の感性は揺さぶられ、新しい喜びに溢れる。ここまでの私の分析の目的は、そのような作曲家の計算と直感の部分を分けることにあった。作曲家の創作心理に深く踏み入ることで、この作品を深く理解したい、作曲者の心の動きを共有したいという願望からである。そして、その目的は少しは果たせたのではないかと思っている。

 冒頭のモティーフから次々と紡ぎ出される静かな感動と、その計算を越えた驚きが、淡々とした時間の中で繰り広げられる。その作業は、庭園作家が庭の中に池や樹木を配してゆくのに似ている。しかし、庭園が完璧に完成したとしても、それだけでは、その庭園の美しさを全て感じとることは出来ない。演奏家が、庭園に雪を降らせたり、雲間から一筋の光を差し込ませたりしなければ、音楽も、庭園も、人の耳(眼)には届かないのである。演奏家は、永遠の時間の流れの中で(時間の意識を止めないで)注意深くこの庭園(音楽)の構造を読みとりながら、効果的に表現(演奏)しなければならない。つまり、空間に時間の要素を加えてこそ、「庭は空間的な芸術であると同時に時間芸術であり、その点で、音楽に大変近いように思う。庭は時々刻々その貌(すがた)を変えている。だがその変化の様態は目に立つほどに激しいものではない。穏やかな円環的な時間の中で、完結することない、無限の変化を生き続けている。ヨーロッパ庭園の多くが、幾何学的シンメトリを尊重しているのとは違って、日本の庭は、一見、アシンメトリな不均衡を作庭の基本においているようだが、どの隅々も明晰で、小さな石の配置ひとつにも、広大な宇宙の仕組みを暗示するような仕掛けがほどこされている。自然の中に設けられた別の人為的空間によって、その全体が示す多義性は、私たち人間に、庭がたんに美しいものであるという以上の感慨をもたらしている。私は、自分が作曲する音楽が少しでもそういうものに近いものでありたいと思い、機会ある度に、夢窓の庭を訪ねている。」という、武満の創作姿勢に触れることにもなるのである。そうすることで、そこに深い感動が生まれるのだ。

 名曲には数々の名演奏がある。それらは、決して一通りではない。何故だろうか?そこに演奏家の解釈というものがあるからである。だがその解釈が、独善的なものであってはならない。緻密な構造の部分を、演奏者の「勝手な思い込み」で歪めてはならないのである。それは誤解とか曲解というものだ。演奏家は、注意深く緻密に計算された部分と、閃きによって書かれた部分を、選び分けながら演奏しなければならない。そして、閃きの部分では、大きな感動を持って、それを表現することに集中するべきだ。

 演奏家の解釈が作曲者の意図を確実に捉えたものであり、作曲者の閃きにさらなる感動を覚え、その自分自身の感動を研ぎすまされた技術によって表現できた時に、名演奏が成立するのである。

 昨今、音楽の複雑化によって、作曲家・音楽学者・演奏家の距離はますます拡がる傾向にあると言って良いだろう。この文章が、音楽現場に携わる一人の演奏家によって産み出されたという事にも多少の意味を感じて頂ければ、幸いである。そして、この私の考察が、少しでも多くの名演奏を生み出すきっかけになる事を、祈念してやまない。

 なお、この文章を書くに当たって、数多くの作曲家の友人からアドバイスを頂いた。末筆ながら、改めてここに感謝の意を表したい。


参考文献

*1) NHK-TV「武満徹の音楽」一柳慧氏解説

*2) ホーカン・ハーデンベルガー&サイモン・プレストン 

  デュオリサイタル、プログラムノート

*3) RCA Record の CD へのストルツマンの解説。

音楽芸術1994年12月号18P武田明倫氏の引用

*4) 武満徹著「時間の園丁」121P 日本の庭と音楽

*5) 武満徹「径」日本ショット


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