パネラー/大林宣彦(映画監督),藍川由美(声楽家),片山圭之(丸亀市長・香川県離島振興協議会会長),日下公人(東京財団会長)
コーディネーター/明石安哲(四国新聞社論説副委員長)

日時:2002年9月28日(土)午後2時〜5時
会場:丸亀市生涯学習センター・ホール


鹿島踊りが現存する地域を説明


丸亀城と大手門

 話すことが本当に苦手な私だが、故郷のあり方を考える恰好の機会ととらえ、シンポジウムのパネリストをお引き受けした。そして、シンポジウムまでの期間、さまざまなことを考えた。
 最近、お荷物として語られることの多い瀬戸大橋だが、はたして経済的側面だけで論じてよいものだろうか。そもそも瀬戸内海のことを行政単位で考えているところに問題があるのではないか。etc.
 琉球の三線が南洋のニシキヘビの皮を輸入して作られていたように、かつては国境に関係なく人々が船で交易をし、文化的交流が盛んに行なわれていた。日本国内においても、北前船が進出する18世紀以前に、京都祇園まつりの宵山の山鉾に提灯を飾るスタイルが、珠洲の「キリコ」、魚津の「たてもん」、秋田の「竿燈」、青森の「ねぶた」などに影響を与えていたと言われている。北上するにつれて飾り山が簡略化されてはいるものの、囃し方、曳き方、車方などにそれぞれ共通性が見られるそうだ。なお、「ねぶた」が歌舞伎などを題材とした灯籠になったのは文化年間(1804-18)で、現在のように大型化したのは戦後のことだという。
 いま私達は、つい鉄道や道路に目を奪われがちだが、かつては海路の方が重要だった。そして、海に囲まれた島国で生まれ育ったわれわれにとって、琉球や奄美などに残るニライカナイ(来訪神)信仰を無視することはできないだろう。
 沖縄・八重山地方の鹿島踊りは、ニライカナイとして描かれる弥勒の面をつけて踊られるため、弥勒(ミルク)踊り(ウドゥリ)とも呼ばれるが、そこにはシャーマンの存在がある。一方、茨城県・鹿島神宮の鹿島踊りは、事触れ(シャーマン)が各地にその年の豊凶などの御神託を触れ回ったのが発祥とされている。両者が同時発生したのか、海上の道を通って北上したのかは未だ明らかではない。
 鹿島踊りは、寛永年間(1624-44)に疫病を鎮めたことで広く知られるようになったが、その起源は古代たたら製鉄に関するものといわれ、祭礼神事の踊りとしてはずっと古い歴史を持っている。現在は、鹿島神宮のほか、相模湾西岸や小田原西部から伊豆北川までのいずれも石材産出にかかわった地域の22社で行なわれており、悪疫退散、大漁、海上安全を祈願して踊られるが、祭事や踊りの態様にはそれぞれ違いが見られるという。
 この「鹿島踊り」の名称が、なぜかわが故郷・宇多津に残っており、しかも私の中学時代くらいまでは宇多津の盆踊りとして踊られていた。しかしながら、この盆踊り唄を歌える人がいなくなり、盆踊り大会もなくなってしまった現在、同じ綾歌郡の岡田で「鹿島踊り」が「島踊り」として継承されていたことを私は知った。2002年9月22日、五色台の瀬戸内海歴史民俗資料館の野外ステージで伝統芸能を見た折、自分の目と耳で、岡田の「島踊り」と宇多津の「鹿島踊り」の囃子言葉と振付が同一だと確認できたのである。現在の市町村区分だと、綾歌郡宇多津町から丸亀市土器町、さらに綾歌郡岡田となるため分かりづらいのだが、かつての鵜足郡宇足津村から鵜足郡土器村、鵜足郡岡田村と、土器川沿いに上流に伝わったと考えれば何の不思議もない。
 かくなる上は、土器川沿いに「島踊り」の実態調査を行なうと同時に、瀬戸内海の島々の中に似た盆踊り唄があるかどうかを確かめ、さらに八重山の「弥勒踊り」や、各地の「鹿島踊り」との関連性を調べるために、それぞれの祭りを見て歩きたいと思う。中には三年に一度しか開催されない祭りもあるので、調査は数年にわたる可能性もあるが、単に宇多津の盆踊り唄のルーツを辿るというだけでなく、かつて金毘羅詣りの船で賑わい、文化の交差点でもあった瀬戸内の歴史を知る一助として「鹿島踊り」の謎を解いてみたい。郷土の歴史を掘り下げることでこそ故郷への誇りも生まれるし、地域の独自性を打ち出せれば、多くの方々が足を運んで下さるのではないかと思えるからだ。
 シンポジウムでは時間の都合でこうした思いを十分にお伝えできなかったことをお詫び申し上げるとともに、この写真を撮ってお送り下さった岡山県のM様に感謝申し上げたい。なお、丸亀城の写真は私が撮影したもので、丸亀市生涯学習センターは、この門の手前に位置している。

足踏みオルガンによる童謡演奏


お堀端から望む丸亀城


近況へ   トップページへ   故郷発見9へ