日中戦争証言 朱家溝

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2001年8月21日
於:朱家溝

崔(74歳)さんの話

トウさんから紹介

 崔さんは当時とても有名な民兵であって、建国後30年ほど共産党の書記をしていました。

崔さん

 今日来てくれている皆さんは友達ですけれども、昔の日本人は敵でした。私が昔のことを紹介することは失礼なことになるかもしれませんが、しかし昔は確かに敵でした。敵は敵、友人は友人ということで分けて考えていただきたいと思います。

 私が紹介したいのは村の惨案、惨めな事件です。私が自ら体験したことです。

 私たちのところでは1940年から戦争が始まりました。42年から人圏を作り始めました。ここの村の人は「全部、五道河の人圏に行きなさい」と言われました。そういうふうに命令されましたが、私たちは人圏に行っても死ぬだろうと思いました。また当時は、貧しい農民を捕まえて、東北地方の黒竜江省や遼寧省などに石炭を掘るために連れて行かれる、強制連行があって、私たちはそこに行きたくなくて、結局山を下りることはなかったのです。

 八路軍は38年の時からもう私たちの村に来ています。彼らは1万人でした。宋とトという2人が部隊を率いて来たわけです。その後八路軍はこの村で活動していました。

 当時は六道河というところには日本軍が駐在していました。42年に人圏を作った時に私たちは山を下りなかったのですけど、ここは無人区とされました。三道溝というところより上は無人区の範囲に入ります。三光政策をやりました。全部焼いてしまい、殺してしまい、全部物を奪ってしまうことです。

 当時我が村は71世帯でした。314人でした。1945年戦争が終わった時点で村で亡くなった人は137人でした。その中で日本軍に兵器で殺された人は87人でした。1943年の旧正月の25日に私たちの家は全部焼かれました。住むところが ないので洞穴に入りました。

 狗背嶺の1つの洞穴の中では7人殺されました。2世帯の人たちです。1つの世帯は7人家族でしたけれども1回で5人殺され、もう1つの世帯は3人家族でしたけれども2人殺されました。女の人は強姦されてそれから殺されました。服も全部焼かれました。翌日我々が行った時には、もう何人かが裸で死んでいたのです。死んだ人のところは火災のような感じで火があがっていました。見ている時にまた日本軍がやって来て、そこで戦いがあり、私たちは長城の南の方に逃げました。私たちはその翌日また戻って来て、ほとんどの物は捨てて焼きました。こういう状況は我が村ではここだけではありませんでした。六道河というところに山下隊という日本軍が駐在していましたし、中国人の劉という人が率いるもう1つの討伐隊があって、彼らは私たちのところで残酷なことをしました。人を捕まえたら別のところで殺すのではなくて、現地ですぐ銃剣でやったり刀で頭を切ったり、銃殺したりしました。

 41年から43年の間に家はほとんどなくなりました。当時は共産党もここに来て民兵を組織していたのです。どのくらいの戦いがあったかは、私はもう詳しくは話せないのですけれども、しょっちゅうありました。2、3日おきに1回あるという感じでした。六道河、四道峪、三道河、四道河、五道河、南の方の塔ケイやもっといろいろなところでありました。特に盤山、四座楼というところなど、共産党と民兵がよく活動していたところは幾度も戦いがありました。

 私は15歳の時に民兵としてゲリラ戦に参加しました。当時民兵の中隊長は6人死にました。1945年の旧暦の5月5日、端午の節句でしたが、私は第7代の中隊長になって、その後しばらくして解放されました。私は生き残ったのです。

 いろいろな惨案があったのですけれども、例えばさっき言った女の人とか子どもとか、銃を持っている人ではない、つまり民兵ではない人が殺された事件は沢山あるのですけれど、それを全部言ったらかなり時間がかかるので簡単にしたいと思います。

 我が民兵はゲリラ戦を続けました。当時は私たちは遊撃戦をやって、もし勝てると思ったら戦い、勝てないと思ったら別のところに移るわけです。この辺りは駐在している敵が多くて、例えばさっき話した六道河には山下隊、三道河には中国人でしたけれども、宋隊。劉隊もいました。87人が殺されたと言いましたけれど、山下隊と劉隊はここに近いですので、彼らが殺した人はたぶん7割を占めていると思います。私たち民兵は武器がないのですが、戦うことによって敵から武器を奪ったわけです。私たちがよく使っていた武器は地雷と手榴弾です。

 私たちが作った地雷は、「地雷戦」という有名な映画があるのですけれども、映画で描いた地雷とは全く違っていました。大きな石に穴をあけて、そこに火薬を入れて導火線を下に置く。上に置いたらばれますから。そして、下からまた小さな洞穴を掘って導火線を下から出して、引くわけです。地雷は500キロのものもありました。

 1944年の旧正月の日、劉隊はここに掃討しに来て、地雷を踏みました。負傷した人は別にして、死んだ人は11人でした。

 私は毎日地雷を作っていましたから、こういうことが沢山ありすぎたので、例としてこの1つを言いました。当時の人たちの気持ちとしては憎んでも憎みきれない思いで、1日も早く終わりにしてしまいたいという気持ちで戦いました。

 この近くに全部で3つの村があって、民兵は50人ないし60人いて、時には集まりますけれども、普段は集まらないのです。というのは集まると規模が大きくてばれてしまうから、10数人であるいは20数人で活動していました。私たちはもう何年も戦い、こういうことはとても多いのですが、あまり時間がないので簡単に致しました。

 戦いはこれくらいにして、これから少し当時の農民たちの生活について説明したいと思います。例えば食べ物のことを言いますと、春私たちがせっかく植えたのですがしばらくすると討伐隊が来て農作物を全部刈ったのです。3年間何も農作物ができませんでした。鍋などの調理用の道具は全部なくなりました。臼は没収されました。当時は洗面器等は銅や鉄のものはほとんどないのです。10人に1つぐらいあるような感じです。私たちは袋を背負い、その中にはトウモロコシが入っています。敵がいない時にはそのトウモロコシを石の上に出してもう1つの石で打ち砕いて粉にしたのです。ご飯を食べる時は敵がいない時に川辺などの水のあるところで、洗面器のようなものの中に水を入れて、トウモロコシの粉を入れて火で暖めて食べました。次のご飯をいつ食べられるか、どこで食べられるか全く予測できない時期でした。

Iさん質問

 3年間刈り取られて、食べ物は、トウモロコシはどこで手に入れたのですか?

崔さん

 食料は普通、2つの方面から来ました。1つは八路軍が長城の南の方から運んでくれるのです。もう1つは人圏のところから、敵のところから盗るわけです。例えばそこの責任者がいて、張郷長とか敵の方の組織なのですけれども、遊撃隊がその責任者を捕まえて「食料を出せ」と言うのです。「もし出さなかったら殺すぞ」「出してくれるなら後で返す」ということで、敵の方からもトウモロコシなどを奪ったわけです。だけど人圏からも八路軍からもそんなに沢山の食料が入るわけではないので、餓死する人は非常に多かったのです。ですから今日は食べられても次回はいつ食べられるかはまったくわからず、苦しい時期でした。

 当時は敵が来なくても、もう充分困難な時期でした。もちろんまた敵が来て封鎖戦をやったりしましたので、着る物はあまりなかったのです。冬になると綿入れですけれども、春になると綿入れの中の綿を抜いて山の上に隠して、それを秋になるとまた入れるわけです。だから3年間その着物1枚で生きてきました。今は着物、服といったら、今日何を着るかといって着替えるのですけれど、とてもそういう事情ではなかったのです。

 当時は非常に困難な状態にありましたけれど、しかし我が村の人たちは民兵であろうと普通の村民であろうと、私はこんなに食べられないのだから山の中での生活を続けられなくて、じゃあ人圏に行こうとか、じゃあ敵に降参してご飯をもらおうとかそういうことは一切なかったのです。

 さっき駐在所の討伐隊のことを言ったのですが、あれは全部、中国人の討伐隊でした。その中に副隊長として日本人が1人います。山下隊は全部日本人でした。

 45年の時点になると敵の方が怖くなってだんだん来なくなったのです。小さな道を歩く勇気は無くなっていました。1945年の3月か4月、劉隊がいったん来ました。山の方に行ったのではなくてさっき私たちが通ったところ、そこまで来たのです。当時は大砲じゃない、小さいのですけれど火薬を入れて沢山の死傷者を出したというような武器でしたけれど、その時は大砲を使って劉隊に死傷者を出しました。その隊長のお尻の部分を大砲で傷を付け、怪我をさせました。さっき言った地雷は石の石雷ですね。45年の時、私たちは鉄の地雷を作って、車が通ると爆発するという仕掛けをしました。先ほど言った11人の死者を出した戦いの時に、私たちは14キロの地雷を使ったのです。その11人はどういうふうに死んだかというと、地雷を、もう冬ですから乾燥したトウモロコシの中に入れて、敵も寒いから火をつけてそこで体を温めたのです。それで地雷が爆発して死んだのです。劉隊長はお尻を傷つけてしまいました。45年には来られなくなったのです。

 45年の時にもう既に敵がだんだん来なくなったんですけれども、私たちの方はこの時点で、老人や子どもは凍死とか病死でもういなくなって、ほとんど私たちのような若者が生き残ったのです。子どもはもし捕まえられたら、火で焼かれてしまいました。当時の日本軍が私たちに対してやったことは、本当に残酷すぎて人道という言葉が全くないような感じでした。私たちにとってはその時の指導者は悪すぎる人という 感じです。

 時間ですので私のことはここまでしにたいと思いますが、最後に言いたいのは、戦争の中でどんな残酷なことがあっても、困難なことがあっても、私たちの戦う意志がすごく強かったということです。この戦争は希望がないからもう戦うことをやめようなどと考えたことはなかったのです。誰も人圏に入るとか、日本軍の方に行くとか、そういう人はうちの村にはいないのです。私の話はここまでにしたいと思います。

孫(75歳)さんの話

 1942年の旧暦の12月31日のことでした。その時私は16歳でまだ背がとても小さくて、民兵に入りたかったのですけれど民兵の方が私は小さいということで入れてくれなかったのです。当時の私は何をやれるかというと、民兵と村との間でメッセージを伝えるというような役をしたのです。それくらいしかやれなかったのです。その31日、村が敵に包囲され、私たちはそのことを知ってすぐ逃げたのです。逃げたら敵も撤退してもう来ないだろうと思って、また村に戻ったのです。戻ったら敵も戻って来て、私たちは捕まりました。捕まったのですけれども、敵は私たちを殴らないし、私たちに対しては何もしなかったのです。ただ日本軍の兵士が死んで、その死体を背負ってくれと言われて、私たちはその死体を背負って山を下ったのです。途中でおじいさんの家があって、おじいさんは60何歳くらいの人なのですが、その人を殴ったのです。つまり「八路軍はどこから来たのか」と聞いてもおじいさんは何も言わないので、日本軍と通訳の人が怒ってその家を焼いたのです。ついでにさらに4人を捕まえて、合わせて8人になったのです。六道河というところに、人圏の方に行きました。途中で私は死体を背負ったり、銃弾の殻とか武器の箱を背負ったりして行きました。そこまでは私に対して殴ったりなどはしなかったのですが、六道河に着いたら、すぐ私たち8人は部屋の中に閉じこめられて、「おまえたちは八路軍の幹部の誰と連絡して、どんな関係を持って、どういうようなことをしたか、早く言え」と言われたのです。言わないとものすごく殴られたのです。拷問する人は3人で、日本軍の人が1人、たぶんそこの人圏だと思うんですが郷長が1人、それからもう1人は通訳の人だと思うのですが3人から拷問されました。私は小さいから「まだ子どもだから知らない」と言ったのです。「言わないと殺すぞ」と言われて、「殺されてもわからない」と言ったのです。いろいろ拷問されて非常に辛い3日間でした。

 そこへ行く途中で現地の中国人にいろいろ聞いたら、その人は私たちに「もし明日そのまま来るとまた別のところにあなたたちを連れて行く可能性もあるよ」と教えてくれたのです。恐ろしいという思いで、辛い3日間を過ごしました。それで3日目になると拷問しなくなりました。一番殴られたのは私と60過ぎたおじいさんでした。老人とか子どもは言いやすいだろう、殴るとすぐ言うだろうと思ったのでしょうけれども。最後に、8人の中の3人は多少の情報を漏らしたのです。ちょっとだけ言ったのです。その3人を興隆の方に連れて行ったのです。その後は殺されたそうです。私たち5人は何も知らないということで、結局夜になると山下隊長の部屋に連れて行かれ教育されました。「おまえたちは今回は何も知らないと言うが、今度八路軍が来たら報告しろ!これからは日本の軍に協力しろ!」というような教育を受けました。5人は無事に村に帰ったのです。山の方に帰ったわけです。後でその3人が殺されたという情報がありました。簡単に以上のことをお話ししました。

劉(76歳)さんの話

 何年のことか忘れましたけれども、ただ覚えているのはお正月の23日のことでした。旧暦の1月23日のことです。「敵が来たぞ」と言われて、自分のお父さんとかお兄さんとか、村の男たちは全部逃げてしまいました。残ったのは全部女性で、当時私は18歳でした。妊娠していました。お父さんとお兄さんがみんないなくなって、自分はどこに逃げればいいかわからなくて、布団を持って玄関の外で待っていたのです。どうすればいいかと迷っている時に隣の王さんというお婆さんがいて、「じゃあ東の方の山に逃げよう」と言われて、女性の人たちはそこに逃げたのです。ずうっと待ってて、そろそろ日が暮れる夕方に「もう来ないだろう、大丈夫だろう」と思って王さんというお婆さんも「もう来ないだろう、こんな時間になって。もし来るとしたらもっと早くに来てるだろう」ということで「じゃあ降りよう」と降り始めました。で、降りたらびっくりしました。軍がいたのです。すぐ足音が聞こえてきて、革靴を履いた日本軍の足音を聞いてびっくりしました。「出ろ!」と言われて私たちは出たのです。王さんは仲良くしようというような感じで、つまり殴られないために、「水を飲んでください」と敵に言ったんです。「卵もありますから殴らないでください」と頼んだのです。私は18歳で割と若いのでものすごく殴られました。「八路軍は来たか」と聞かれ、「どうして山にいたか」と聞かれたのです。で、何を言えばいいか解らなかったけど、「灯油を作るための松とかを、採りに行ったのです」と答えました。「じゃあ八路軍は来たか」と聞かれ、「八路軍かどうかは知らないけれど誰かが通ったことは確かです」と答えました。「それだけでは十分ではない、もっと言え」と言われ、「私たちは女性だからそんな詳しいことは知らないです」と言いました。「もし今度来たら教える、報告する」と言ったらそれで済みました。

 その18歳の時に私は妊娠していました。突然23日に敵が来て、今話したようなことに遭った後、25日の日におなかが痛くなって、これはどういうことだろうと年寄りに聞いたら、もしかすると子どもが生まれるのではないかと言われました。そしてその夜に子どもが生まれたのです。殴られたから早く生まれたのです。中国の農村の言葉で言うと小産でした。小さい、早く出たということです。それでその子どもを抱えて、まだ自分も体が快復していないので、お父さんに背負ってもらって、別のところ、山々の中を転々と行ったのです。あの時は夏になっていたから蚊がすごく、大きい蚊がいて、子どもの頭が全部刺されて腫れていたのです。食べ物がなくて私は乳が出ない。子どもは母乳を飲みたがります。出なくても飲みたがるでしょう。飲みたいから乳のところからも吸うし、おなかのところでも吸うし、私の肌に触れるとどこでもすぐ吸い始めるんです。私はもう我慢できなくて、もう死んでくれた方が楽だと考えました。食べ物が無くてとても育つことができないので、むしろ子供が死ぬことを望みたいような気持ちでした。

 夫は民兵に入っていました。お父さんも民兵で、男はみんな民兵でゲリラ戦をやっているのです。子どもは1歳の時に食べ物が無くて餓死しました。2人目も妊娠しましたが、産んでから8ヶ月で死にました。

 この時のことを思い出すと涙が出るのですが、子どもを連れて、ある山の奥に親戚とか知人にお願いして住まわせてもらっていたのです。民兵の人たちも夫も一緒にいたのです。ある日、夫から「おまえは寝ないで、もし敵が来たら早く知らせてくれ、私は疲れたからちょっと寝るから」と言われました。敵が来たら夫は民兵だからすぐ逃げられるように、「ちょっと様子を見てきて」と言われたのです。その当時の私はそろそろ死ぬかもしれないと思っていたのです。自分の子どもを抱いて「今晩お前とお母さんはここで死ぬかもしれない」と子どもに教えました。子どもは何もわからないですけれど。何を考えたかというと、もし敵が来たら夫は逃げられますけれども、子どもと私はどこにも逃げるところはないのです。死ぬ覚悟をしました。その時の子どもを思い出しました(泣く)。結局、幸いその日は敵が来なかったのです。

 今は子どもがいますが、当時は私もいろいろな病気にかかって。当時はとても子どもを育てられる時代ではありませんでした。

トウさんから補足

 何年のことだったのか言わなかったのですが、年齢で計算するとたぶん42年の時です。 

張(77歳)さんの話

高通訳さんの説明

 地雷の作り方を今説明してくれました。鉄の地雷でトラックとかを爆破させる場合とその他では埋め方が違うということです。

 つまり鉄の地雷を埋める時の方法と石の路雷を埋める方法と、方法は2つあるのです。目的が違うからです。1つはトラックとかをやるため。1つは兵士をやるためです。だから入れ方は全く違うということです。導火線の引き方も違うということで、どういうふうにすればもっと集中的に効果が上がるかということを説明してくれたのです。

史(80歳)さんの話

 私は老齢です。いろいろなことを経験したのですけれどもあまり覚えていないのです。ただ覚えているのは、自分の家族が5人死んだということです。2人の女性は連れられて行き、1人は殺されて、1人は凍死しました。家に残された子どもは餓死したのです。2人の女性は連れられて行ってから戻って来ませんでした。合わせて5人です。

王(76歳)さんの話

トウさんから紹介

 この方は崔さんの奥さんです。ご夫婦で来てくれました。

王さん

 もう皆が言っているから私は話をしないつもりだったのですが、夫から話すように進められました。私たちは、まだ戦っているうちに結婚しました。私は17歳で夫は15歳の時でした。

 私の経験ですけれども、何年のことかわからないのですが、ある日敵に捕まえられました。自分の兄の奥さん、義理のお姉さんと一緒に遊んでいたときに捕まえられ、お姉さんの方はずいぶん殴られました。「八路軍はどこにいるんだ」とかそのような拷問を受けました。私は殴られませんでした。というのは、私はいろいろ調べられて「あなたは名字は何で、名前は何か、じゃあお母さんはどうしていないのか」とか聞かれました。「お母さんは興隆の方にいます」と答えると、「お母さんはどういう名前か」などいろいろ聞かれました。そのまま事実を言いました。「お母さんは王という人で興隆に住んでいます」とかいろいろ言ったら、その警察の人がちょうどお母さんのことを知っていて、「これは合っている、これは正しい」ということで、殴られなかったのです。

 夫の話によると、その日私たちを捕まえたのは、劉隊ではなくて、もう1つの宋隊、宋軍の部隊、警察です。あの部隊はあまり人を殺さなかった部隊でした。後で聞いた話ですが、あの部隊は共産党の方に降参したというか共産党の部隊に入ったと聞きました。もしその日宋隊でなくて劉隊に捕まえられていたら、たぶん殺されていただろうと思います。まあ、あまり時間がないのでこのへんにしたいと思います。

于さん

 時間の関係で今日の懇談会はこのへんにしたいと思いますけれど、日本の方々で何かお話になりたいことはありますでしょうか。

Kさんのお礼の言葉

 今日はお話を聞かせていただいてありがとうございました。

 いちばんショックだったのは、おばあちゃんがご自分の産まれた子どもが死んだ方がましだと思ったということでした。それほど戦争って酷いものなんだなぁということを改めて感じました。日本に帰ってから子どもたちに戦争というものはとても残酷なものなのだということを伝えたいと思います。

 今、私の学校の周りではそういうことを教えようとすると、攻撃を受けるというか弾圧を受けることがあります。とても困難な状況の中でおじいさんたちが戦ったように、私も頑張って、難しい状況の中でも少しでも多くの子どもや職場の仲間に今日お聞きしたことを伝えたいと思います。ありがとうございました。

Iさんのお礼の言葉

 一言どうしても言いたいのです。今日お話を聞いて涙が止まりませんでした。申し訳ない気持ちでいっぱいです。その頃本当に辛かったと思いますし、今話してくださるのも本当に辛かったと思います。それを話していただいて本当にありがとうございます。

 私は日本で小学校の教師をしていますが2度とこんな悲しいことがないように学校で教えたり運動していきたいと思います。今日はありがとうございました。

張さんの言葉

 私も一言付け加えたいと思います。昔は、以前は悪いことがあったけれどこれからはいい日が来る、これが私たちの希望です。昔悪いことがあって、これからもまた悪いことが来るような日はもう迎えたくないと思います。謝謝。