日中戦争証言 石仏

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石仏での証言  1999.8.18
大杖子中学校にて

証言者

王さん(87歳)の話

 今、中国と日本は友達となりました。皆様はこの友情のためにも私たちを訪ねてくれました。しかも長い旅をたどって、私たちの村を訪れて下さって、私たちは心より歓迎します。かの時期、中国に来た人々のことを、私たち自らの経験をもって少しお話をさせていただきます。

 私がお話ししたいのは1941年〜42年のことと、43〜44年の間についてのことです。とりわけ43〜44年については重要な要素を持っているのではないかと思います。私は元々ここの出身ではなく、ここから10キロ以上離れた所が故郷ですが、当時の無人区と人圏政策によってここに無理やりに入れられたのです。私たちが元々住む村は70世帯ぐらいの村でしたが、そこにどうしても住ませてくれないということで、ここの石仏村に無理に来ることになりました。

 家は焼き討ちとなりました。家から追い出されて、家は焼かれてここへ移ってきました。まず、1回目入ったところ(永合南溝)を焼かれて次のところ(永合堂村)にまた入れられて、ここには短い時間いて、最後に石仏村に来ました。そこでも家を焼かれてしまいました。さっきの70所帯の村、2番目の村、それ以外にも途中、周りの私の知っている複数の村がいずれも焼かれて、全部無人区になりました。

 私の記憶は1943年のことですけれども、その時は家が焼かれたり、人が殺されたり逮捕されたりしました。殺されるというのは、例えば私の知人の張志国という人がいますけど、この人のお父さんはやはりどうしても自分の村から離れたくないと言うと、離れたくないなら殺すと言われました。こういうことで殺されたことはすぐそばにいる人なのでよく知っています。それからいろんな形でまた人を逮捕しました。私の義理の兄弟とその奥さん、私の友達の李其功さんのお父さんなど、私が逮捕されたその場で見たのですから逮捕されたことはよく知っています。

 それから私の姉のことですけれども、私には2人の姉がいて、2人とも同じように人圏の中に入れられたのですが、上の姉は、食糧もなく住む家も全くない状況でしたから生活することが出来なくて、餓死してしまいました。もう1人の姉は両親が同じで義理の姉ではなくて自分の姉なのですが、元々結婚で石仏村に入ったのです。今度は日本軍が来ると、この人の家の土地を全部占領して、その目の前で人を逮捕したり人を殺したりするということで、精神的にも耐えられなくて、精神異常になって1944年に死んでしまいました。

 2番目の兄の王福のことなのですが、家が貧乏ですから、他の村で他の人の羊飼いとか動物の面倒をみる仕事で稼いでいました。彼は非常に生真面目で無口であまりしゃべれない人なのです。それで日本軍に逮捕されて、事情をよく説明出来ないので、八路軍と疑われて、今度はひどく殴られたのです。銃で殴られると石仏の家に運ばれて、2日の後死んでしまいました。

 私の家は先程話したように、1回目まず家を焼かれて、2回目も焼かれて、それでこの石仏も焼かれました。それから二人の姉は死んでしまいまして、兄の方も死んでしまいましたから、これは私の家の経験したことです。私は今は私の親族と周りの人の知っていることだけを話しましたが、少し離れたものは話を聞いただけでも無数のものがありますから、ここでは全部お話出来ないと思います。

 皆様は今は、私たちの話を聞きに来まして、私たちもこの時の状況を皆様にお話ししますけれども、その当時の日本軍による犯罪はかなり厳しいもので、ひどいものと思っております。皆様は今はわざわざ私たちの話を聞きに来まして、それから中国と日本は今は友達となってきました。皆様は本当に大きな代価を払ってこちらに来ましたから、私たちは両手を上げて皆様を歓迎したいと思います。これからは戦争は全くないようにしたいと思います。中国と日本の間には再び戦争がないようにと思います。

宋さん(81歳)の話

 私の方はさっきの話の継続で話しますけど、聞いた話をお話ししないで実際経験したことだけをお話ししたいと思います。

 1941年と42年、まだ人圏と無人区の政策が実施されていない時期のことですけれども、当時多くの人が逮捕されて、多くの人たちが殺されました。私はある日、板城という所に出かけることになりました。この所に行くためには石ミ堂という所を通らなければならなくて、その近くには大きな橋があります。その橋を越えようとした時、遠い所に日本軍(当時は皇軍)の人たちが中国の村民たち30数名を逮捕しているところを見かけたのです。大変怖れて離れようとしましたけれど、ちょっと見ると、30数人の人たちを全く人の住んでいない山の中に入れようとしていた様子が見えました。私はちょっと離れようとして、500 メートル位離れた所で、急に発砲の音、銃の急激な音がドンドンと聞こえるようになったのです。おそらくそれは発砲じゃないかと思いました。そこから夜戻って来てから、30数名の人が殺されたという情報を耳にしました。その時私は500 メートル近くの所で発砲の音を耳にしましたから、その時のことを今でも鮮明に覚えています。

 その後日本軍がいなくなってから、村の人々は自分の親族の死体を捜しに行きました。その時は約半分位の死体は名前がわかって、すべて帰って来たんです。それ以外の10数名の人はもう頭の形は全く見えないから、発砲で全部粉砕されて誰の死体かというのはわからないという状況にあったのです。

 それから人圏と無人区が作られて、かなりの人が逮捕されて殺されました。無人区の中で見つけられた人は、ほとんどそのまま殺されたと思います。それからこの無人区の中の状況がなぜわかったかというと、少し私自身のことを話さなければならないけれども、1944年、無人区と人圏政策が実施されてから、日本軍の方は常に中国の村民を連行して、自分達の食糧と物運びのために人を連れて行きました。私もある日家に戻りまして、やっぱりそういうふうに見つけられてそうした仕事をやらざるをえないこととなりました。

 黒岩という「悪魔」と言われている人が20数名の日本人を連れてこの無人区の中を通りかかって、この時私は物運びをさせられました。それでは今は4つの事例を話します。最初は1人のおばあちゃんをそこで見つけまして、即時にそこで発砲して殺しました。次は男性1人を見かけて発砲したが、それは死んでなかったんです。黒岩は、発砲の状況になると精神はもう落着かなくなってどうすれば良いかわからなくなって、それで更に銃を持って殺したのです。次にまたしばらく行きますと、10名位の人を見かけました。その10名の人をもまた即時に殺しました。更には次のところでも、1人の奥さんが子供をこうやって抱えている様子を見かけて、それもその場で発砲して殺して、頭の方は銃の弾で完全につぶれました。それも見ました。

 全体としては、物運びは4日間ですけれども約150キロ位歩きました。それで私は数えてちょうど25人の人をその場で殺すのを見ました。その中で一番ひどかったのは先程話した10何名の話の3回目のことですけれども、この10何名の中には、だいたい避難の人ばかりで、婦人も多くて、12〜3位の年齢の子供もいました。それでずっと避難の生活ですから、髪も身体の方も汚れていて非常に厳しいという様子は一目でわかります。この人たちはその場で日本軍に逮捕され囲まれて、私たち物運びの人は少し離れた所にいて、後ろでドンドンと発砲してそれで私たちは後ろの様子を見ると殺されたということがわかります。  それから、この黒岩という人はある所でおじいちゃんと会って、発砲ではなく日本刀でそのまま首を完全に切断して、その場で血が沢山吹き出しました。  その時私たちが運んだ物は略奪された物ばかりですけれども、その4日間物運びをしました。

馬さん(72歳)の話
 皆様は遠い旅をたどってここに来てご苦労様でした。お話を少ししたいと思います。私の自分の体験なんですけれども、この時の私のセキ村の中には謝国海、謝国江、謝国福、謝国花の4人の兄弟がいました。それからもう1人、関仁明という人がいました。これらの5人の人は八路軍と疑われて、全員が逮捕されました。謝国江だけ逃げ出すことに成功して生き残ることが出来ましたけれども、他の4人は殺されました。でも、この5人は八路軍と何も関係がないことは村の誰でも知っていることです。皆はよく村で働いて、八路軍と何も関係ないのに逮捕されて殺されました。

 それから陳さんという家もありましたけれど、その3人目の男、4人目の男、7人目の男3人が八路軍と疑われ、逮捕されて承徳まで連行されて、殺されました。それを私がなぜ知っているかというと、陳さんの7番目の兄弟は私のいとこと結婚しているのです。ですから陳さんは私の親戚になっていますので3人の兄弟のことは知っています。彼らも八路軍と何も関係ないです。

 もう一つ私が経験した事例ですけれども、私も宋さんと同じようにやはり連行されて物運びをせざるをえないことになりました。それで物運びの途中で、その時は物運びの人を監督、監視する人は柳河口警察署の佐藤と言われている人なのですけれども、この人はやはり街で1人の人を見つけまして、連行してその後は銃で殺害しました。私の話は以上です。

傳さん(72歳)の話
 私がお話ししたいのは、セキ村の近くの関杖子という村のことです。44年の前は人圏政策でこのあたりの人たちは全部石仏に入れられましたけれど、でも1944年の時は日本軍は物運びをするために新しい道路を作りました。道路を作る以上、それを管理するための人を駐在させなければならないので、人手が必要になり、更に1つの人圏を新たに作りました。その彼らの目的は、1つは道路を管轄すること、もう1つは女性を多く連行して、女性に暴力を振るう(強姦した)ためのものです。非常にひどいことをいろいろしました。主に婦人をたくさん強姦しました。そしでその婦人の強姦の後も、いろいろ女性を軽蔑するような早口言葉を作りました。その早口言葉は女性のことを軽蔑することをこめて作られたものになっているのです。その日本軍の人たちはあちこちに行っている間にみんなこうした言葉を口にしていました。つまり、強姦されただけでなくその婦人たちの方はみんなに知られて大変きびしい恥ずかしい立場に置かれて、女性たちは大変困っていたのです。

 その人たちはその場で殺されないで家に戻されました。全部で30名〜40名くらいでした。その時の中国の村民の生活は大変悲しいものでした、大変きびしい状況に置かれていました。人間は動物よりもきびしい立場に置かれて、動物に及ばないわけです。それで男性の方は先程お話の中にもあったように、物運びをさせられたり殺されたりしましたけれども、女性の方も侮辱されたり強姦されたり、人間らしい生活は全くありえなかったのです。

傳さん(69歳)の話
 私のことですけれども、私は当時まだ子供でした。それで日本軍は入って来ると子供を含めてよく殴りましたから、子供たちは怖れていました。日本軍に会うと大変怖れていましたけれど、子供なので力もなくてよく殴られました。さっきの物運びですけれど、子供でもさせられました。私もかなり子供であっても物運びをさせられました。

トウさんの説明

 少し補充させていただきます。この石仏村は、元々は40世帯ぐらいの村でした。人圏政策が取られてから200世帯を超えていますから、160世帯くらいは連れられて来た人々です。それでここの1つの特徴は、昨日見た帳構囗の場合人圏は4キロぐらいの範囲で人は生活出来たけれども、この石仏村は1キロぐらいの範囲に生活圏が限定されたのです。先程話したように200世帯、人口は約800人ぐらいのことなのですけれども、1キロの範囲であれば土地の方はなかなか充分ではない、食糧さえ食べられない、それで病死と餓死の人たちは他のどこよりも際立っています。以上です。

Iさんのお礼の言葉

 今日はお話を聞かせていただきありがとうございました。皆さんに聞かせていただいたお話の中には思い出すのも辛いようなお話もあったかと思います。私の父や母、あるいは祖母や祖父の世代の人たちが中国に来てどんなことをやっていたか、具体的に非常によくわかりました。私たちは教員が多いのですが、学校に戻って生徒たちにこのことを事実として伝えていきたいと思っています。そして中国の方々と我々日本の人たちが仲良く出来るようにこれからも努力していきたいと思います。今日はどうもありがとうございました。