今、中国と日本は友達となりました。皆様はこの友情のためにも私たちを訪ねてくれました。しかも長い旅をたどって、私たちの村を訪れて下さって、私たちは心より歓迎します。かの時期、中国に来た人々のことを、私たち自らの経験をもって少しお話をさせていただきます。
私がお話ししたいのは1941年〜42年のことと、43〜44年の間についてのことです。とりわけ43〜44年については重要な要素を持っているのではないかと思います。私は元々ここの出身ではなく、ここから10キロ以上離れた所が故郷ですが、当時の無人区と人圏政策によってここに無理やりに入れられたのです。私たちが元々住む村は70世帯ぐらいの村でしたが、そこにどうしても住ませてくれないということで、ここの石仏村に無理に来ることになりました。
家は焼き討ちとなりました。家から追い出されて、家は焼かれてここへ移ってきました。まず、1回目入ったところ(永合南溝)を焼かれて次のところ(永合堂村)にまた入れられて、ここには短い時間いて、最後に石仏村に来ました。そこでも家を焼かれてしまいました。さっきの70所帯の村、2番目の村、それ以外にも途中、周りの私の知っている複数の村がいずれも焼かれて、全部無人区になりました。
私の記憶は1943年のことですけれども、その時は家が焼かれたり、人が殺されたり逮捕されたりしました。殺されるというのは、例えば私の知人の張志国という人がいますけど、この人のお父さんはやはりどうしても自分の村から離れたくないと言うと、離れたくないなら殺すと言われました。こういうことで殺されたことはすぐそばにいる人なのでよく知っています。それからいろんな形でまた人を逮捕しました。私の義理の兄弟とその奥さん、私の友達の李其功さんのお父さんなど、私が逮捕されたその場で見たのですから逮捕されたことはよく知っています。
それから私の姉のことですけれども、私には2人の姉がいて、2人とも同じように人圏の中に入れられたのですが、上の姉は、食糧もなく住む家も全くない状況でしたから生活することが出来なくて、餓死してしまいました。もう1人の姉は両親が同じで義理の姉ではなくて自分の姉なのですが、元々結婚で石仏村に入ったのです。今度は日本軍が来ると、この人の家の土地を全部占領して、その目の前で人を逮捕したり人を殺したりするということで、精神的にも耐えられなくて、精神異常になって1944年に死んでしまいました。
2番目の兄の王福のことなのですが、家が貧乏ですから、他の村で他の人の羊飼いとか動物の面倒をみる仕事で稼いでいました。彼は非常に生真面目で無口であまりしゃべれない人なのです。それで日本軍に逮捕されて、事情をよく説明出来ないので、八路軍と疑われて、今度はひどく殴られたのです。銃で殴られると石仏の家に運ばれて、2日の後死んでしまいました。
私の家は先程話したように、1回目まず家を焼かれて、2回目も焼かれて、それでこの石仏も焼かれました。それから二人の姉は死んでしまいまして、兄の方も死んでしまいましたから、これは私の家の経験したことです。私は今は私の親族と周りの人の知っていることだけを話しましたが、少し離れたものは話を聞いただけでも無数のものがありますから、ここでは全部お話出来ないと思います。
皆様は今は、私たちの話を聞きに来まして、私たちもこの時の状況を皆様にお話ししますけれども、その当時の日本軍による犯罪はかなり厳しいもので、ひどいものと思っております。皆様は今はわざわざ私たちの話を聞きに来まして、それから中国と日本は今は友達となってきました。皆様は本当に大きな代価を払ってこちらに来ましたから、私たちは両手を上げて皆様を歓迎したいと思います。これからは戦争は全くないようにしたいと思います。中国と日本の間には再び戦争がないようにと思います。