日中戦争証言 柵子溝

証言目次へ戻る

CONTENTS

柵子溝小学校証言

  1999.8.19---上石洞郷柵子溝小学校

 証言者

 

トウさんの説明

朱さん(通訳)の説明

先頭へ戻る

トウ さん(柵子溝の党支部書記長)の挨拶

 皆様お疲れさまでした。中国と日本の民間友好を発展させ、そして、今まで行われた悲しい歴史事実を明らかにし、当時戦いを続けた方々の土地の教育を支援し、また当時の歴史の証人から証言を聞いて当時の日本軍の事実を知るためにここを訪れた皆さんを、私はこの町の人々を代表して歓迎し、友好の気持ちを表したいと思います。
 この町の面積は15万平方キロです。抗日戦争の時の八路軍の抗日政府の所在地でもあります。しかも日本軍の無人区政策が徹底的に行われた場所として、大きな悲しい代価を払った村でもあります。多くの村は1941年から45年にかけて126人(全人口の42%)の人たちが殺されました。家々は全部焼かれました。村民は皆家を失って、山の中で暮らさざるをえなくなりました。徹底的に人圏の中に入らないという抵抗をしたのです。農業生産は全く出来ず、食料も困難な状況になりました。それでも人々は多くの抵抗を続け、抗日戦争の勝利まで日本軍の侵攻に何度も何度も戦い続けました。非常に優れた民族の抵抗精神を発揮できた地域です。
 抗日戦争の後、我が村の人々は党の指導の下で戦争の被害を克服し、新しい村を作ることになりました。経済の発展にも力を注ぎました。今の村の人口は730名です。総生産は318人民元で、人々の生活は益々向上しました。福祉の状況も改善されました。戦争が終って数十年の歴史が経っています。中国人としてその悲しい歴史を思い出したくもないのですが、しかし日本においては、過去の歴史を認めず、教科書にも正確に事実を記載しないで、しばしば靖国神社への参拝も行われているようです。戦争を美化し戦争を賛美する世論もあるようです。軍国主義の夢を見ている人も一部います。ガイドラインの設立も含めて、中国の人々の感情に加害することが今もあります。こうした軍国主義の復活に対して中国の人々は懸念しており、このようなことは自分による自分への危害になるであろうと信じています。
 皆様は友好の大使であると信じています。世界の平和を愛する人々だとわかっています。皆様も戦争に反対する人々です。日本は第2次大戦勃発の発動者であり、しかも敗戦を経験しており、日本は被害者でもあります。広島と長崎で落された原爆の被害は、日本の人々にも多くの被害を与えました。日本も戦争のために多くの被害を受けました。今までの歴史を忘れずに、これからの歴史に生かすようにしたいものです。中国と日本の人々の友好を発展させ、世界中に平和と愛を深めていきたいと思います。最後になりましたが、今回のご訪問の成功を祈っています。また再び私たちの町をお客さんとしても考察としてもお訪ね下さい。 日本の、戦争を起こした侵略者に対しては恨みを持っていますが、日本の平和を愛する、しかも平和に対して力を注ぐ日本の人々を愛しています。中国と日本にはこれから末永く戦争がないようにと祈っています。中国と日本の友好万歳。

トウさん(元興隆県党史研究室主任)の説明

 5人の話を伺う前に、事情を分かりやすくするため、簡単な説明をしたいと思います。5人の方々はそれぞれの経験を語りますが、私は全体のことについて少し触れたいと思います。
 この場所には3度目の来訪の方もいますが、初めての方も大勢いるようです。この興隆県が中国全体の抗日戦争の中で、どのように位置づけられているかと言いますと、中国全体の2000余りの県の中で、興隆県は独特な位置づけにあると思います。無人区ということと、戦うモデル、戦いを最後まで貫いた一つのモデルではないかと思います。興隆県以前の無人区との戦いはいろいろ失敗がありました。興隆県と隣の寛城県、青龍県の三つは最後まで無人区との戦いを貫きました。皆さんもご存じかも知れませんが、1936年から37年にかけて、日本軍による大規模な討伐が行われました。それは野副軍による大討伐でした。その 時は無人区の政策がとられました。この時には1年間に、抗日軍では1人の将軍王風閣が通化で殺されました。1939年から40年にかけてまた大きな討伐を行いました。その時もやはり無人区政策を実行しました。濛江地域において楊靖宇将軍が殺されました。1940年の大討伐では鶴立県の趙尚志将軍が殺されました。なぜ連続してこの3人の人々が殺されたのでしょうか。楊靖宇将軍は、最初8000人の人々を統括しましたが、次々殺害されて最後は1人になって戦っていました。趙尚志将軍は最初は数千人を統括していましたが、次々殺されて最後は4人しか周りにいなくなり、最後まで1人になっても戦いました。
 日本軍がこうして次々に人々を殺害して無人区を作る背景はどこにあるか、その1つの背景を紹介したいと思います。その日本軍のやり方は孫子兵法からきたものです。孫子兵法の中にはこの言葉がありました。人を討伐する時は一番上の方策としてまず計画をやめさせるということにあります。次には人々の応援者を無くすことにあります。まさにその当時の中国の庶民たちは八路軍を応援する立場にある訳ですから、日本軍は普通の庶民の人々を徹底的に殺そうとしました。なぜこの興隆県をモデルと言っているかというと、日本軍のこうした計画はすべて破綻になったからです。
 興隆県においては、2万6000人にものぼる人々が山の中で抵抗を続けました。無人区の中に人々はいたのです。大小黄崖という二つの村(大は向かいにあり、小はここです)、このあたりには5000人位いました。柵子溝という村では200人位いました。127人の人が殺されてもまだ大勢の人がいました。人々が戦いを続ける中で、「背篭家庭」の人々が生まれました。背篭というのは、家は焼かれ、物は全部奪われて、残されたものは簡単な篭で、その篭の中に簡単な生活道具と、衣服・簡単な食糧などを持ってあちこち転在して流動的な生活をおくる(篭の中に家具を入れてそれを背負って移動すること)ということです。人哨もありました。この村は長さは40キロ、幅は30キロで、人々は歩哨を立てて、日本軍が入って来たのがわかると、人から人へ「羊が来た」という言葉で伝達し、25キロの範囲に非常な速さで情報は伝わり、人々はすぐ山の中に逃げて行きます。もう一つは山の中に撤退して穴の中で暮らす「花市大街」ということです。人々が山に撤退して山の中で暮らす人が多くなると、一つ一つの穴が全部つながり、それが2キロ3キロと続き、数百人の人々が山の中で暮らしていました。夜になると木を燃して明かりにするのが北京の花市のように見えるので、人々はそれを「花市大街」と名付けました。これを「野食穴居」と言います。原始時代のような生活をしていました。中国の人々の、非常に高い愛国の精神を表しています。人民というのは殺されるものではなく、侮辱されるものではないという真理を証明しています。人民を恫喝する人、暴力する人は必ず失敗することになる。この国の中では興隆県はモデルですが、この柵子溝はモデルの中のモデルです。

許さん(77歳)の話

 戦争の時は鳳春という別の名前を使っていました。今日は日本の皆さんは本当に長い旅をして、こんな辺鄙な所、道路のでこぼこの非常に多い所を訪ねて来て下さいました。皆さんを本当に歓迎します。
 私の率直な今の気持ちとしては、当時の日本の人々に対して恨みを持っています。当時の古い日本人はこの村によく来て討伐しては村人にひどいことをしました。そのことについて触れたいと思います。
 1941年春、農作業を始めようとした時のことですが、日本軍は南の方から入って来ました。人々を全部逮捕し、全員の名前を言わせるようにしました。これは1940年に八路軍の幹部の1人がここに来て、村人を班長と1つのグループ長という形で組織するという話があったからです。それで、共産党の八路軍の人々は3つの部落で、人々を組織しました。排長、班長を部落ごとに組織しました。日本軍に逮捕された排長が、彼の服の中に隠していた名簿を見つけられました。名簿に書いてある人々を厳しく尋問するようになりました。当時の状況を詳しく申し上げますと、許という人(グループの排長)が逮捕され、野外に連れ去られました。最初村の人たちは日本軍をそれほど悪いとは思わなかったのです。客として迎え、水を出したり、食べ物を出したりして接待しようと思ったところで、日本軍はいろいろ尋問をやりました。名簿を持っているので、あなたは何をする役目かと聞き、このように水を飲みながら、おかゆを食べながら、名前を聞き出し、次々に逮捕して興隆の方に連れて行きました。最初は興隆に連れて行かれ、次は承徳に連れて行かれ全部処刑されました。この町では3人でした。他の町でも同じように連行されました。約100人が連行されたのではないかと思います。これは1回目です。  葦子坑、東石洞、東石湖の3つの村にまた日本軍が来ました。この3つの村の家はみんな焼かれました。人々は皆山に登って木で簡単な身を隠せる家を作り、そこに隠れて徹底的に抵抗しようとしました。1942年7月15日、人々は全部追い出されました。この時のやり方は3人一組で、20数名の人々ですが、16〜7歳の子供も含めて、皆連行されました。皆さんはその人たちの名前を聞きたいですか?知りたいですか?全部覚えています。
この葦子坑の人々です。その名前は、許、許、許、許、許、許夫妻、許、許、許、許、許、許、許、許、許、許、艾、廬、劉、です。(写真の黒板に氏名がすべて板書された。)この20数名の人を全部連行して、3人一組の形で六道河まで連れて行き、六道河から興隆まで車で連行されました。人々はそこで全員ひどく殴られ、その後言わせられました。しかし人々は言わないので犬を使って責めさせました。それから殴られたりいろいろなことをやられました。体の中に水を注いだり、人間が人間の状況でなくなるまで言わせようとしました。その後皆承徳まで連れて行かれ、20数名の中で4〜5人を除いては、皆機械で殺されました。機械の形を説明しますと、壁の中に丸い穴があり、向こうに鉄で作られた装置があります。向こうでボタンを押すと、人間の首は切断されて、次にもう1人の頭を入れて切断して殺すという、殺人の機械が作られました。そしてどんどん殺されて万人坑の中に捨てられました。全部で県内で数千人かと思われます。
 1942年9月5日(旧暦)日本軍はまた多くの人々を連行して殺すことにしましたが、向こうの山でその時、許の妻、許のおば、許の妹の3人が殺されました。その時は全部女の人で、私も首の所に弾が当たりました。その傷痕が残されています。私はこの時をもって徹底的に戦うという気持ちが強められました。  また1943年正月23日(旧暦)のこと、大勢の日本軍がやって来ました。その時は山の方へ鉄砲をドンドン発砲しました。その時も20数名が殺されました。私のおじも殺されました。おじはどこかで日本軍と出遭い、そこで日本刀ですぐ殺されました。

許さん(60歳)の話

 これは鉄砲の傷です(脚を見せる)。ここから弾が入って、こちらから出ました。その時私は3歳でお母さんに抱かれていました。発砲されてお母さんはすぐ殺され、その弾が脚を抜けてました。人々に助けられました。

許さん(77歳)の話

 この許さんも私の親戚の人です。この方の母は私のおばにあたります。その後おじもその時日本軍に殺されました。日本軍は川のすぐそばの向こう側に移りました。2人の子供を連れていたおじ(父の兄)を見つけましたが、会ったその日に日本刀で3回刺され、おじはその場で死んでしまいました。また日本人は人を逮捕して、人に火を付けて、それで焼かれた人もいます。
 当時普通の人々は小さな穴の中で暮らしていましたが、日本軍はこの山のあちこちで見つけて、そこで2人のおばあさんを穴の中で刀で殺しました。おばあさんはいずれも80歳代の人です。(板書 隋の母親、隋の姑。)全部自分で歩けない人で、息子に連れて来られた人ばかりです。このおばあさんは殺されたばかりでなく、穴のような家ごと焼かれました。
 この23日は大雪の日でした。また、山で3人の年長の男性が歩いているところを見つけられ日本刀で殺されました。その時私は雪の中に隠れていたのです。その時は非常に近い距離の所にいました。1回で刺され、牛の鳴き声よりも大きな鳴き声を出して、次には音も出さずに死にました。すぐ側で見ていました。 トウさんの説明  この方の住んでいる村は70名の村ですが、こうしたことをされて50数名、70%の人が殺されました。

許さん(77歳)の話

 この日は大変寒い日でした。父も母もおじ、おば、みんな年寄りでしたので、息子たちがだっこして山に連れていって隠しました。その日日本軍はたくさんの人を殺しました。その人たちはみんな動けず、食べ物もありませんでした。次の日そこに行ったら皆死んでいました。おじもおばも皆雪の中で死んでいました。おそらく寒さと病気で死んだと思います。どういうことかというと、日本軍は1941年、42年、43年にたくさん殺しました。私たちは、1943年、44年、45年にかけて戦い続けました。日本軍は何度も攻めて来ては、来る度に食糧になるものを全部今の時期で刈ってしまいます。それは、収穫が無く、食物が無くなるので生活できなくなり、負けるだろうと日本軍は考えたからです。しかし私たちは、歩哨を出して山の中を移動しながら戦いました。移動する時は歩哨を立てました。日本軍は歩哨がいると分かると、私たちがいるだろうと捜しました。私たちは抵抗して別の所に移って戦いを続けました。「片青」とは食料を全部刈ってしまって、食物は穫れないようなことをいいます。日本軍はそこらあたりに随時来ていました。全てを焼いて、すべてを奪って、すべてを殺しました。1943年から45年までこうした状況でした。

許さん(60歳)の話

 その時私たちの家族は4人で、23日は山の雪の中にいました。日本軍はあちこちから侵入してきました。弾があちこちから発砲されて、母と私に当たり、母は即死でした。父と兄は弾を受けませんでした。父は私と兄を連れて山を下り、村の方へ帰りました。

于さん(71歳)の話

 私はこのことを話すと大変悲しいです。これは1943年のことです。日本軍はまた討伐にやって来ました。その時私の親戚の戞文栄老人を逮捕し、山のところで尋問していました。その時私たちは山の中に隠れていましたが、日本軍と戦おうと思っていました。その中の1人は、私のおじで共産党員でした。皆は戦おうとしたけれど、おじは戦えば皆殺されるからと、私たちをとりあえず抑えました。この時は大変厳しい尋問をしていました。「あなたの息子は共産党員ですか?」と尋問して、「違います。」と答えるとまた尋問し、ひどい殴り方をしました。それでも「そうではない。」と言うと、頭に火を付けました。頭に火を付けても答えないと、足に火を付けました。それでも答えないと、最後は体全体に火を付けて焼かれました。実際はおじの息子は共産党員ですが、最後まで告白しなかったのです。
 この時、トウ、夏、崔の3人の男性と全部の女性が捕まりました。その時は足の下に沢山柴を敷き、その上に3人を立たせて、トウに告白させて告白しなければ刀で7回刺し、それでも告白しないと頭に火をつけて、その次に足元の柴に火を付けて、それで死んでしまいました。夏も同じように尋問されましたけれど、同じように告白しなかったので、頭の上から大きな石を押しつけられて、石で頭をつぶされて死んでしまいました。崔は学校の教員でしたが、この人と他の婦人たちは他の所に連れて行かれました。崔たちは同じように尋問されました。崔の殺され方はもっとも悲惨なものでした。刀で一回一回と皮膚をはぎとって、肉の塊を削いで削いで、最後まで徹底的に削がれて死んでしまいました。他にも沢山の人がいますが、ここでは省略させていただきます。言おうと思えば当時殺された人と、殺された事件の話は明日の朝まででも終わらないぐらいで、今も名前と当時の様子を覚えています。時間の関係で省略したいと思います。

夏さん(67歳)の話

 私たちの町に遠いところから来て下さって、私は大変歓迎します。私は今の日本人のことではなく、かつて侵略してきたその時の日本人のことを話したいと思っています。皆さんのことは大歓迎したいと思います。
 当時日本軍は中国で、家を全部焼きました。多くの人を殺しました。その食糧を全部奪いました。ここに来ている人たちは皆生き残れた人たちばかりです。この地域は来ていただくと分かりますが、北の方は北双洞子、東の方は大好地子、南は六道河子、西の方は三道河子と、いずれも日本軍の占領の拠点があったところです。その時期には日本軍はほとんど毎日のように討伐にやって来て、ほとんど毎日人が殺されました。
 私は自分の目で見たことを話します。1943年3月11日と12日のことです。多くの人が殺されたり、殺害されたりしました。その日は多くの人たちが連行されました。承徳まで連れて行かれ、その後は遼陽という所に連れて行かれました。男性は全部殺されて、1945年に戦争が済んだ時には極く僅かの人しか帰って来ませんでした。その人たちは、当時の連行された経緯を話してくれました。女性はほとんど暴行を受けました。戻って来た僅かな人たちは非常に若い人たちばかりでしたが、連れて行かれる時は皆黒い髪でしたが、戻った時はほとんど髪の毛がなくなって坊主頭になっていました。男性も女性もいずれもそうでした。

朱さん(通訳)の話

 皆さんが板書の名前を書いている間に説明します。夏さんはその当時の被害の状況をかなり詳しく話しています。この方のお父さんも3月11日に連行され、殺されました。かなり詳しく説明しているので、トウ先生は時間のことを心配して女性に振るわれた暴力について重点的に話してもらいたい言っているのです。証言者の方たちはその時の状況を話したいと言っていますが、取りあえず省略するということになりました。  多くの女性が連行されました。(板書 11名の氏名)日本語でぴったり合う語は無いけれど、配給という言葉で言っています。皆女性は奪われて、性の道具にさせられて、1回の強姦ではなく、1ケ所に集められた女性たちが性の道具にさせられたことを「配給された」と言っているのです。軍人たちに配給されたのです。昨日何度も配給という言葉が出て来たけれど、訳しにくかったです。1人の男性に1人の女性を配給するやり方がありました。配給され人は奥さんと母たちで、ここに書かれた名前は一人ひとり女性の名前ですが、この人たちは当時捕まえられ連行されて、いずれも配給された人たちです。

呉さん(69歳)の話

 皆様は大変長い旅を辿って私たちの町へ来て下さって、私たちは大変歓迎しています。私は1943年6月12日のことを話したいと思います。当時我が町に共産党の1人の審察員(偵察員という立場の八路軍)がいました。その人が3人の歩哨と一緒にこの町にいました。日本軍がやって来て、3人の歩哨を全員逮捕しました。どんなことをやる人かと尋問されました。この3人の中に、私の父親がいました。そしてこの3人は全員連行されて、それで何をしているか尋問されましたが、皆答えませんでした。それほど多く尋問しないで日本刀でどんどん刺しました。そのやり方はひどいもので、何度も何度も刺していたので、体は網のような状況になっていました。父の内臓は全部出ていて、頭から足まで全部網のように刺されていました。田布春という偵察員がいました。日本軍が村に入って来て、ここで殺された人は4人ですが、名前を書きますか。李、馬の妻、馬、李です。
 1943年6月12日、先ほどの3人の中の1人は父で、村の中に入るとまた2人殺されました。楊樹溝で5人殺されました。  1944年の春3月、柵子溝の中の小さな村の楊樹溝に日本軍が入ってきました。5〜6世帯しかない小さな村で5人が殺されました。李(父)、李(母)、李(娘)、李(娘)の一家族4人と張という人で、この人は他所から布を売りに来ていた人です。  1943年6月12日は父が殺された日です。1944年3月の布を売りに来た人を含めた5人まで、ここに9人書きましたが、他に5人も殺されて、合わせて14人が殺されました。私はその時父を亡くして徹底的に抵抗しようと思っていました。年齢はそれほどいっていなかったけれど、山の中で歩哨になって、30日間に35回ほど当番をしました。13歳でした。 トウさんが代わって説明  当時私たちは抵抗しないで殺されるより徹底的に抵抗して戦おうと思っていました。ここで1943年から1944年にかけて日本軍は大きな悲惨なことを与えました。1回の焼き討ちで20キロメートル以上続く火事が連続しました。10歳位の子供を48名一度に殺したということも分かっています。
 こうした状況の中で、5000人の人口の村で、最後まで抵抗をして、戦争の勝利まで徹底的に戦いました。彼らのこうした行動は、中国の民族の精神の中にある徹底的に戦って、いつまでも抵抗を止めないという強靱な精神を代表する人々です。彼らの行動は当時八路軍の指導者の李運昌・李子光という人たちから誉められました。今日の話はいったんここまでにします。

Kさんのお礼の言葉

 柵子溝の皆さん、5人の古老の皆さん、今日はどうもありがとうございました。歴史の証人の皆さんから貴重な証言をお聞きすることが出来ました。きっと思い出したくもない過去のおぞましいことを私たちの前にお話をして下さったのではないかと思って恐縮しています。
 次から次へと出て来るすべてを焼いてすべてを奪ってすべてを殺し尽くすという日本軍の蛮行のこと、無人区や人圏のこと、一つ一つの事実に胸が詰まる思いでいっぱいです。
 私は新しい中国が誕生した時に生まれました。いわゆる戦後世代です。私は中学校・高校・大学と参りましたけれども、戦争の被害については教えられてきましたが、加害の事実については本当に少ししか教えられてきませんでした。日本にいる戦後世代の多くの人たちがそうであると思います。こちらに参る10日前に日の丸・君が代法案が国会で法制化されてしまいました。私達はとっても残念に思っています。日本の右傾化は本当に愁うるべきことだと思います。私は教師をしていますが、歴史の真実から目をそらさないで、歴史の真実を教科書に書かせて次の世代に伝えていかなければいけないと本当に今日思いました。  そして中国や世界の人々と、忌まわしい過去を持っている日本がどうやって戦争をしないで平和に暮らしていけるのか、次の私よりもっと若い世代の人たちと一緒に考えていきたいと思っています。今日は私たちのために本当にありがとうございました。