6つのことを話したい。1つは、この劉寨子のあたりは無人区です。このあたりのみなさんを日本軍は潘水泉というところの人圏に入れたかったのです。劉寨子からこっちは、全部潘水泉の人圏に入って、そちらは、だれも住んではいけない無人区です。このあたりで30人ぐらい、日本軍に協力しないで最後まで抵抗した人がいて、この30何人も全部捕まって人圏に入れられました。
2つ目の事件ですが、この人の家族は12人いまして、6人が殺されました。ここで部隊を率いている花芳というのは日本人で、孫山は朝鮮人で、2世帯を包囲しました。この人ともう1人の人が無人区を代表していて責任を持っている方で、2人は一緒の家に泊まっていたようです。日本軍がやって来て、満州国の憲兵も連れて7人が2世帯の家を囲んで、全部家に入って、そのもう1人の責任者を捕まえようとしたところ、その人は、家の後ろから逃げてしまいました。この人の義理のお父さん(さっき言った血縁のない人ですが)、その人の息子さんと娘さん、3人が殺された。銃殺された。他の人は、人圏に入れられた。当時は、最初は三光政策をとらなかったみたいですが、43年から三光政策をとって、家屋は全部焼いてしまったんですから、それにしてもどうしてそこに住んでいたかというと、たとえ壁がなくても、浸があれば中を暖めることができます。それを利用したいですから、親戚というか血縁のないお父さんたちはそこに住んでいたんです。日本軍が中に入って、その家のおじいちゃんが逃げようとしたときに銃殺されて、娘さんも同じ状況ですけれど、そのお父さんは、起きようとするときに銃殺されたということです。
3つ目ですが、さっきもう1人の責任者について話しましたが、この方も責任者の1人ですから日本軍は捕まえようとした。その時、お父さんは、別のところで日本軍のために荷物を運ぶような仕事をしに出かけた。お兄ちゃんは、銃殺されたから、日本軍がこの家族のところにやって来たときに、おばあちゃんとお母さんがなぐられたんですが、みなさんは、ひざまずいて「どうしても殺さないでください。命を残してください。」と頼んで、結局殺されなかった。その後、家族のみなさん全部は山の奥に逃げた。だけど、別の所から「この人は責任者だ。」というような情報が入ってきて、それで、憲兵とかが捕まえようとして来た。しかし、彼は警戒心が強いので、いつか来るなと別の所に行くんです。ですから、ちょうどその日に別の所に行ったときに、夏さんとか許さんとか3世帯ぐらいにが囲まれて、「この人はどこに行ったか。」と拷問したんです。「知らない。」と言うんです。彼はもちろんどこに行っても周りの人にどこに行ったかを教えないんですから、確かにみなさんは知らない。それで「部落に入りなさい。」と言われて、みなさんが山を下りて部落に行こうとするときに、その中の1人が歩き方がちょっと速くなったので、逃げるんじゃないかと判断して銃殺した。そういう人が1人います。
4つ目の話ですが、この家には2人の男の人がいて、捕まえられて監獄というか刑務所というか別の所に連れて行かれた。残された女性と子どもは、主人が捕まえられて連行されたので、非常に悲しくて、家の中で大きな声で泣き叫んでいた。お香を立てて仏様とか神様に「ぜひ生きて帰るように。」とずっとお願いしたんです。そしてろうそくも点けてお香も立てて、みんなずっとやっているもんですから、日本軍がまたやって来て「お前たちは、ひげ(八路軍)のためにご飯を作っているのではないか。」と言うんです。「いや違います。お香を立てて仏様に頼んでいるんです。」「いやそんなことはない。」ということで、この6人のうち5人を刀で殺したんです。女性の人は全部服を脱がせて殺しました。ですから夏さんは、殺してもう充分なのにどうして服を脱がせなければならないのかが非常に理解できなかったのです。家族の中の子ども1人が3カ所ぐらい刺されても死ななかったので、後で八路軍に助けられて生き残ったんです。
康徳9年のお正月の14日の夜のことです。いつ日本軍が出て来るかというと、雪が降る日とか夜が多かったのです。なぜかというと昼間だと見回っている人がいます。遠くから山の上から「日本軍がやってきたぞ。」という情報がすぐ入って、みなさんに知らせて、すぐ逃げてしまう。だから、昼間は割と安全です。夜になると、おなかがすいていてご飯も食べなくてはならないし、寒くて、それに眠いし、夜になるとちゃんと情報が入ってこない。ですから夜は危険です。その康徳9年の旧暦お正月14日の夜、日本軍がやって来て、この人たちは凍っている川の上を歩いているときに遭遇しました。そのときは情報も遅かったそうです。さっきの王さんのところの2人の男の人を殺しました。同じ年齢の人ですが1人を殺して、もう1人を殺そうとするときにその人は崖から転落して自殺して死んでしまいました。もう1人は40歳の人ですが、抵抗する力がなくて何カ所も刺されましたが、死なないですみました。その中の若者夫婦2人を連れて行ったが、女の人を誰かに配給しようとした。この男の人はご主人ですから殺そうとした。やっぱり人圏に入る人がとても多くて、村ですからお互いに親戚同士で人圏の管理上の問題もあって、保証人が何人も出てきて「殺さないで。私が保障します。この人は日本人と対抗しない。そういうことを保障しますから部落に入れて生きさせてください。」と言うことがあって殺さなかった。その人の奥さんは、拠点の中に半月ぐらい入れて、半月後部落に入れたそうです。女性ですからその中でどのようなことが起こったか知らないのですが、侮辱的でした。
最後の6番目の話です。詳しくは言っていません。ここにやって来る日本人は先頭に立っているのは普通の服を着た警察というか、私服の人で、八路軍が結局3人ぐらい殺されたのですが、最初山から下りて来たときに、村の人が自分の内部の人だから手を挙げたときに、私服の人に見られてばれてしまった。ですから、続いて日本軍がやってきて、八路軍の人たちをさっき名前をいちいち言ってくれたんですが殺して、普通の百姓さん2人を殺して、大きな罪を犯しました。その中の1人孫フイテンさんという人が捕まえられて銃殺されるというときに、「銃ありますか。」と言われて、最初「ない。」と言った。圧槓子というんですが、足とか、腕とか棒に縛られて、それから圧力をかけて骨折させるようなそういう刑なんですが、そうされる前に「じゃあ探して上げる。」と言って、探して銃をあげたんです。「じゃあお金があるか。ないと刑をやるよ。」というときには、布で作った靴の中からお金(八路軍の紙幣、根拠地の紙幣)も出して、日本軍にあげた。孫さんは結局、日本軍に降参、頭を下げて、日本軍はこの人に、ここで共産党討伐大隊長というポストをあげて、日本軍は副職になりました。この人が日本軍のために一生懸命やって、だから内部の秘密の資料など八路軍のものでしたけれども、だれがどういうような仕事をやっているか、どこに住んでいるかなどそういうような詳しい資料を全部日本軍に提供して、その人のせいで色々悲惨なことが起こったのです。そういうこともありました。
昔のことは確かに悲惨なことがいっぱいで、いつ思い出しても憎む気持ちでいっぱいです。たとえみなさんに会っても何か復讐するというような気持も湧いてくるほど、自分に対して昔のことの影響がこれほど大きいということです。しかし、今になったら天皇陛下も含めて、中国人の友達になっていますから、今日のことをいろいろ見て、日本の方々が今、こんな貧しい劉寨子の中学校にいろいろ寄付してくれて大変ありがたいことです。
つらい思い出はいっぱいありますが、これからは、友好になりますので、もうそういう話をしないことにします。それで、今ここで勉強している子どもたちがここで育って、卒業して、国家にとって有益な人材になったら決して皆さまのご恩を忘れられないと思います。これからは、友好関係を保ちつつがんばっていきたいと思います。これは、今の気持です。話は以上でございます。ありがとうございます。