日中戦争証言 魯家峪

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陸占山さん(元遵化市党史研究室主任)の話

2000年8月21日

於 遵化国際飯店

Nさん

 陸先生には無理を言っておいでいただきました。それはこの地方の歴史について一番詳しくご存じの方だからなんです。明日行きます魯家峪に関することを中心にお話しいただいて、明日は、ここでどのような闘いが行われていたのかということを知っている魯家峪を参観したいと願いまして、今夜来ていただきました。

陸(元遵化市党史研究室主任)さんの話

 N先生から誉め言葉をいただきましたけれども、実際は私はここの歴史にあまり詳しくありません。歴史をやる時間は少なくて、今もうすでに定年になっています。ですから今日これから話すことは、今頭にまだ残っていて、まだ忘れていないことにすぎません。

 まずここの地方のことをご紹介します。92年以前は遵化県でしたけれども92年から遵化市となりました。ここは河北省の東の方に位置しておりまして、河北省の省略語は「冀」という字ですので「冀東」と呼ばれています。中日戦争が始まる前にこの河北省の東には、つまり冀東には21県ありました。遵化県はその中で割と大きい県でありまして、その冀東の真ん中に位置しています。

 抗日戦争の時にここは前線ではありません。後方です。遵化というところは特殊な位置にあり興隆に近い県ですけれども、しかし当時は別の国でした。というのは1931年の柳条湖事件以来,東北地方は偽満州国の傀儡政権となりました。ここの北には万里の長城がありまして偽満州国と中華民国の国境線であります。ですから、興隆は万里の長城の北に位置していますので満州国です。しかし、この遵化というところは万里の長城の南に位置していまして、中華民国です。ですからこのあたりは中国と当時は偽満州国の国境線にあります。興隆は今興隆県といいますけれども戦争が始まる前は興隆という地域の多くのところは遵化の一部なんです。そこは県ではありませんでした。

 当時孫杖子というところに孫永勤という人がいまして、そこで戦争が始まってからあの人は地方の農民を率いて暴動を起こしたり抗日運動を始めました。あの人は抗日運動を始めてから万里の長城を越えてこの遵化に来たことがあります。孫永勤は興隆でいろんなゲリラのような闘争を行いました。

 皆さんご存じのように興隆は山ばっかりで、その中で戦闘が100回以上行われました。しかし、このゲリラ(遊撃隊)は非常に困難な状況にありまして、孫永勤は万里の長城を越えて遵化に来ました。しかし、偽満州国とこの中国の国境線ですから,日本軍が国際法違反ということを理由にここにやって来て孫永勤を包囲して1日中闘いを続けて、ほとんど全部の人は犠牲になりました。

 孫永勤はその時その闘いの中で死にました。ですから1936年の、英語ではロングマーチ,中国語では長征ですが、中国共産党が南からずっと6000キロを歩いて延安に行く途中、8・1宣言(8月1日に宣言を発表)をしてこれから国民党と手を組んで一緒に侵略者に抵抗しましょうという宣言をしましたが、その中で特別孫永勤の名前を挙げました。

 孫永勤は興隆のところで抗日運動を始めたんですけれども,最後に茅山(遵化の)というところで犠牲になったんです。我々は茅山血戦と言います、ほとんどの人が亡くなりましたから。例えば1人の兵士が自分の銃で11人の日本軍の兵士を射殺した、そして最後に自分で山にぶつかって自殺しました。孫永勤は機関銃で最後に撃たれて死にました。

 どうして中国共産党中央は孫永勤のことを非常に重視して8・1宣言で彼の名前を挙げたかというと、孫永勤はこの河北地方で初めて自発的に抗日運動を始めたからです。ですから茅山血戦でほとんどの人が死んでしまったんですけれども非常に意義深い闘いでした。何故かと言いますと、この孫永勤たちは始めは自発的で何千人もいましたが最後に100人ぐらいで茅山で戦いましたけれども、これが抗日運動の種を蒔きました。そういう意味で非常に意味深い抗日運動でした。

 ここ冀東というところは日本軍にとって戦略上非常に重要なところです。なぜかと言いますと、これは偽満州国から中国の内部に更に侵略していく重要なところなんです。人間の喉のような感じの非常に肝心なところなんです。ですから、ここの戦争,闘争は非常に長く非常に残酷で、例えば今日私たちが見た潘家峪のことにしても、非常に悲惨な事件がたくさん起こったところなんです。

 当時はこの遵化というところは冀東の中では中心的な役割を果たしたところです。中心地です。何故かと言いますとこの冀東というところでは農民たちが自発的に組織してきた農民部隊というか、最初は私服隊ですね、19あります。1937年盧溝橋事件が起こりました。その翌年,1938年の8月頃,この19の私服隊の農民たちは遵化、ここで集まってそして更に八路軍と結合して正式な軍となりました。この軍となってから一部の人は遵化に残って多くの人は西の方に移るという政策が出されたんですけれども,しかし日本軍が情報を得て飛行機とか軍を派遣して移動する中で大きな損失がありました。当時の最高司令官は,ここの農民の高志遠という人なんですけれども,この人は地主です。最高司令官で,今日潘家峪で見た八路軍の李運昌がいますね、あの人は副司令官です。それは何故かと言いますと中国共産党はなるべく多くの人を団結するために自ら最高司令官になるんじゃなくて例えば地主でももし抗日運動に参加するならば歓迎しますという意味で最高司令官にしました。

 この移動する中で大きな損失がありますのでこの李運昌が事情を判断して、更に西の方に行くともう損失が更に大きくなりますから部隊を率いて戻ってきました。この途中1人の若者に会って、ここの遵化じゃないですけれども遷西県というところで出会って「あなたはどうしてここにいるか。」と聞きました。「私は部隊に付いて行けなかったから,西の方に行かなかった。」「じゃあここにいるならどうして隠れなかったのですか,逃げなかったのですか。」「私は若いですけれども共産党員ですからここで最後まで抗日運動を続けなければならない。」という言葉が返ってきました(高田柱さん、この若者はこういう名前ですけれども)。彼の言葉で李運昌は大きな刺激を受けまして、別の所に行かずここで抗日運動を続けていくという決心を固めました。

 1940年,李運昌をはじめとしてこのあたりで軍事会議を開きました。軍事会議の内容は、この近くで3つの根拠地を作ることです。この3つの根拠地というのは,豊潤県の腰帯山というところと、明日見学に行く魯家峪というところと、もう1つは,盤山というところです。

 この魯家峪というところは3つの根拠地の中で非常に重要な位置を占めています。何故かと言いますと,この魯家峪は,3つの根拠地の中で真ん中にあります。だから情報も早いし,非常に便利なところなんです。もう1つの原因があります。李運昌は,直接魯家峪というところで指導してます。魯家峪というところはもう1つのいい条件があるからです。それは,そこの地主の人たちは割と積極的に抗日運動に参加するからです。というのは地主たちはお金をたくさん持っていますから、もし彼らが積極的に抗日運動に参加してくれたら非常に為になりますので、そこで根拠地を作ることにしました。

 魯家峪というところはさっき言いましたように地主たちは、つまりここの人たちは積極的に抗日運動に参加する、それから地理上非常に重要なところなんです。真ん中ですから、荷物を担ぐときに肩のような感じですね、こっちも根拠地、そっちも根拠地,両方を支える支点ですね。もう1つが地理上非常に特色がありまして、南に行くと平野,北に行くと山々、峪というのは潘家峪とか魯家峪とか、峪というのは「谷」ですね、谷ばっかりです。今、魯家峪には6つの村がありますけれども全部ほとんどの名前は〜峪とか全部峪の中にあります。当時は町がありませんでした。ですから農民たちは、山で私たちは火石と言いますが、火打石、その石を採ってそれを摩擦して火をつけます。ですからたくさんのほら穴というか山に穴をあけました。ですから,隠れることに非常に便利なところなんです。ですから魯家峪というところに中国共産党が樹立した当時の根拠地政府,抗日政府,それから兵器を造る工場,新聞社、ラジオ放送局などのほとんどがここに移転しました。そういう地理上の位置が非常に重要であるからこそ日本軍も非常に重視して猛烈にここを攻めてきました。ですから1940年から日本軍はやってきて三光政策をやってここでいろんな闘いがありました。

 日本軍は最初はいろんなことを観察、偵察するというか、事情を把握するために少人数で来ましたけれども、来たら消滅されて帰らなくなってしまうということが頻繁にあったから、日本軍はここに兵力や軍隊がどのくらい駐在してるか非常に心配しまして,ですから兵力を集めてここを重点的に掃討をやろうという計画を立てました。ですから,1941年2月14日から魯家峪の闘いが始まります。

 1941年2月14日,唐山市に駐在していた日本人の副司令官「米谷」ですけれども,この近くの3つの県の日本軍と偽軍1000人ぐらいを率いてこの魯家峪にやって来ました。その目的は3つあります。1つは八路軍の兵力がどのくらいあるか、どこにあるかということを確認することと、それからここの政権を壊します。つまり幹部やその組織を壊して,3つ目は全ての施設を壊すことです。ですからもしそういうことがあったら根拠地の皆さんは全部だめになりますから,大きな試練に直面しています。さっき申し上げましたように魯家峪には6つの村があります。その中に大荘というところがあります。それで2月14日の朝やって来て全部包囲して、その時隠れなかった700から800人ぐらいの村民を集めて、お寺の前の川辺に集中させてそこの中に八路軍が隠れているかを確認したいわけです。男の人は全部服を脱がせて調べます。物をよく使うときに手にタコができますでしょう?銃をよく使う時にここにタコができます。ここにそういうタコがあるかどうか確認することと,体に傷の痕があるかを調べる。その傷があると闘いに参加したことがあるということですね。それを確認したいわけです。「あなたたちは八路軍ですか。」と聞かれて「違います。」と皆答えました。そういう傷やタコのある八路軍はあまりいなかったようで、そういう30人を中から出して棒とか石で殴ったんです。殴っても皆は八路軍の情報を提供しなかったから、この副司令官の米谷が「もしあなたたちが八路軍の情報を提供しないと全部殺すぞ。」と言い始めてその時から火を点けました。全ての家屋は焼かれました。

 まず2つの例を挙げます。劉思号という当時65歳の人が、最初は枯れた木の中で隠れていました。しかし、全部焼きますから燃えてきて、火から逃げようとしたときに気づかれて、入り口の戸板に縛られて火の中に投げ入れられました。もう1つの例として赤ちゃんが母親に枯れた木の中に隠されました。1歳未満のようですが、火が燃えてくると煙が出てきて子どもが耐えられなくて泣き出して、泣き声で気づかれた赤ちゃんは火の中に投げられました。2人とも死んでしまいました。当時火は半日ぐらい燃えまして、死んだ人は9人です。30人くらいが怪我をしまして,焼かれた家屋は1930軒です。

 それから2回目ですが、1941年の7月16日のことでした。今回は近くに駐在していた日本軍の司令官は南木という人なんですが、周りの軍を率いてもう1回魯家峪にやって来ました。さっき言ったのは大荘というところなんですけれども、もう1回焼いてしまってそれから周りの家屋が多数焼かれました。その時逃げられなかった30人を同じお寺の前に連れて来て毒ガスで20人あまりを殺しました。3日後、1941年の7月19日のことですけれども、中隊長の佐々木という人がまた軍を率いてここにやって来ました。どうしてもう1回,3日後に来たかというと、情報が入ってきたんです。どういう情報かといいますとこの村の中には2人責任者がいるということです。1人は顔にはあばたがあるというのです。その1人が高万勝さんであばたがあります。もう1人の責任者が最近お母さんに死なれて白い服を着て、白い靴を履いているとか,これが非常に分かりやすい2人なんです。ですから急に3日後,19日にやって来て捜査したんです。その母に死なれた方はそれはすぐに白い服を脱いだらもう問題ないんですけど、しかし、あばたのある人の方は困ります。だけど,この地域にあばたのある人はまた多いんですね。7人もいます。白い服を来ている人はもういないんですから、この7人を出して、このあばたのある人の中で誰が高万勝さんかと聞きました。しかし,誰も言わなかったんです。本当は高万勝さんはその中にいます。中にいますけれども話せない、聾唖者の振りをして何を聞かれても何も言わない。ですから何を聞きたくても何も出てこないでしょう。拷問したんですけども結局誰も高さんのことを裏切ることはしませんでした。それで山に入って山の洞穴、八路軍のいる所へ連れて行けと命じたんです。7人がいろいろ廻ってあちこちいっぱい連れて行ったんですけど、勿論わざと八路軍のいないところを連れて行ったんです。ですから、結局八路軍がばれることはありませんでした。佐々木が怒ってしまってこの7人を殺したんです、高さんも含めて。更に5人の村の人を殺して、今回19日はだいたい12人くらい死にました。

 1942年のことをご紹介します。1942年の4月16日から5月1日までのことです。鈴木啓久(有名な戦犯ですけども)という人が軍を率いてその時から、「中国人を以って中国人を制す」という政策を採ったんです。それが治安軍です。治安軍とも併せて4月16日に150人ぐらいやって来ました。その時は馬という裏切り者が出てきます。魯家峪の鶏冠山という山の中に孤仙洞という洞穴がありますが、その洞穴の中には八路軍の負傷兵がそこで休養しています。村の幹部もそこにいます。馬の通報で日本軍がやって来て、だけど、中に八路軍がたくさんいるかもしれないと思って中に入るのを非常に恐れています。包囲して3日間、しかし中から人は誰も出てきませんでした。中に果たして人がいるかどうか確認するために1人の百姓を連れて来て、先に入って中に人がいるかどうか確認しなさいと命じて、その百姓が中に入ったんです。中の八路軍は怪我をしてるんですけれども、この百姓を日本軍だと誤って判断して、銃で射撃しました。銃声が聞こえた日本軍は、毒ガスを中に入れて95人が全部死にました。この事件は4月16日から21日までのことです。

 1942年の4月17日、佐々木という人が別の軍を率いて北峪という村を包囲しました。さっき言ったのは東峪です。今回は北峪を包囲して80人くらい集めました。1人は小学校の先生を出しまして「おまえは八路軍なのか」と聞いたんですけど「違う」と言った。それで、じゃあ村の人たちに「この人は幹部でしょ?」と聞いて「いや違います」と答えたら、信じなくてすぐ軍刀で殺しました。もう1人はリーウーチャンという人なんです。リーウーチャンの場合は,最初全部縛られて「八路軍はどこにいるか探してくれ、連れて行ってくれ」と命じたんですけど、いろいろ廻って何もないですから、言わないですから、戻って来るときにいろいろ操作して、リーウーチャンは「ぼくはまだ手榴弾を隠しているんです。だから、縛られて探すのが大変ですから、離して」って。ですから、離したんです。歩いているうちに1つの家を通ったときに台所のところでブタを殺すナイフがあったんで、リーウーチャンはすぐナイフを取って後ろの軍の兵士を刺して顔のところに大怪我をさせました。それからすぐ逃げて、速く逃げようとしてるんですけれども山に登っているうちに銃殺されました。

 別のところ、単陰背山というところの洞穴から80人ぐらいの村民を出して、いろいろ殺したんです。残りの人は数人、あるいは十数人くらいですけども、逃げようとしているとき、通訳の人が,静かにしなさいというような感じで「ここはもう無人区にこれからなります。で、あなたちは南に行って,玉田というところに行って農業をやりなさい,ここに住んじゃいけない。一緒に行きなさい」と言ったんです。で,農民たちはそういう言葉を信じてまた集まって軍と一緒に行ったんですけども、この村をまだ出てないうちに大きな井戸がありまして、そのところでまた殺戮を始めたんです。まず,子ども1人、張二小を腰のところから軍刀で切断して殺したんです。順番でいくんです。もう1人の張さんという人が7番,7番目です。順番でいくともう7番ですからそろそろ自分の命がなくなると思って怖くて逃げようとします。それから井戸の側で捕まえられて、綿入れを着ていますからあの襟はすごく厚いんですね、厚くて日本軍がこれを取って首を出そうとしているところを、この張さんが後ろに向かって口で兵士の手を噛んじゃった。兵士は痛くて「おまえはもうそろそろ死ぬのに、こんなに抵抗してどうするんだ。」というような感じで井戸の中に落としたんです。勿論、当時はこの人は7番ですから井戸の中にはもう何人かいるんですけども、落としてそれから中に射撃しました。張さんは射撃されたんですけども,すぐ意識不明になりました。日本軍が去ってからある農民がここを通った時に,井戸の中に人の音がするのでこの人を助けました。この張さんは、去年まで生きてました。ですから、訪中団が来るときにあの人は自ら自分の経験を話しましたけれども、今年からもうそういうことはできません。残念ですけれども。当時張さんはこういう経験があって、引っ越して別の南に行ってしまって、もうここに住まないようになりました。その後もいくつかの大きな闘いがありまして、だれがどういうような犠牲になったかお話できないほど犠牲が非常に大きいのです。

 この魯家峪は1941年から1942年まで5回ぐらいにわたって日本軍による掃討を受け、全部で800人以上亡くなりました。ですから潘家峪は一番死亡人数が多いんですけれどもこの魯家峪は2番目です。家屋は3000軒ぐらい全部で焼かれました。今日は時間ですので話はこの辺にしますが、記憶力も衰退してますのではっきり覚えられないところもありまして,ほんとに申し訳ございません。また,話はごちゃごちゃでまとまった話にならなくて本当にすみませんでした。明日みなさんは魯家峪に行かれますので、そこに記念碑もありまして事件のプロセスもまとめてありますのでご覧ください。今日はどうもありがとうございました。

Nさん

 私はその去年亡くなったという張さんというおじいさんに会ったことがあります。去年亡くなったって聞いてとっても残念です。皆さんたちに会ってもらえなくて残念です。ここのことは2年前の『世界』の5月号に出ています。鈴木啓久の証言が載っています。それから岩波から『侵略の証言』としてそれが改めて出版されてますから、日本の側から見たここのことが全く今のお話と同じことなんですけれど,お帰りになったらご覧になって下さい。