日中戦争証言 モクイ

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CONTENTS

1997年---

  人圏・満軍駐屯地・殺人坑の跡

 殺人抗の跡

・証言者
趙さん(67歳)
陳さん(67歳)
趙さん(77歳)
趙さん(68歳)
趙さん(64歳)

・証言者
史さん(77歳)
趙さん(78歳)
趙さん(68歳)
趙さん(69歳)
趙さん(65歳)
・証言者
趙さん(70歳)
趙さん(69歳)
史さん(78歳)

 

 

人圏・満軍駐屯地の跡で 1997

トウさん

 まず皆さんに説明しておきたいことは、このモクイが当時重要な所だったということです。モクイは興隆県の東の方にあって、とりでのような役割がありました。ここから南は全部部落(人圏)で、北と西は全部無人区でした。この塀をご覧になって下さい。東西は100メートルくらい、南北は50メートルくらいあります。長方形の庭のように周りを壁で囲んでいたのです。

 1940年代、ここに非常にひどい討伐隊が泊りました。当時の隊長は姜大将で、彼を指導した人は日本の副隊長の黒岩です。彼はここの副隊長を兼任しながら、傀儡承徳県の警務科の警防班長でした。こっちに南向きに20間くらいの家があり、南向きと北向きの両方に50くらいのオンドルがありました。討伐隊の人員は300人くらいいました。東側に台所と浴室があり、こっち(西側)は幹部たちの食事をする所でした。95年にF.Nさんと一緒に来たときにはまだかまどが残っていましたが、その後、洪水で流されました。この壁にはまだ鉄砲を撃つための3つの穴が残っています。

 当時ここを重要視したのは、ただモクイの人圏を監視するだけでなく、あの3つの山の頂上に大砲が置いてあって、無人区を監視したんです。なぜこの辺を監視したかというと、ここから西に15キロ離れた五指山に共産党の根拠地があったんです。五本の指のような形をしていて、標高1384メートルです。ここの北に黄花川村という所があり広東山(1270メートル)があります。この2ヶ所は無人区でもあったし根拠地でもありました。目的は根拠地を監視するためだったのです。

 討伐隊の中に日本軍の一つの班がありました。寛甸という所には警察署があり、龍井関と喜峰口という所に、いずれも日本の軍隊が駐屯していました。日本軍はこのあたりに一つの防衛体制をつくり、モクイにとりでを作りました。これが銃眼の跡です。ここは元々門だったところです。ここは首を切って木の上にその首を釣り下げたところです。

 南の壁をご覧になって下さい。あれは北の塀これは南の塀と呼んで、中に満軍が300人くらい住んでいました。さっき紹介した討伐隊の隊長の姜大将は地元の人ではなく東北の遼寧省の人間でした。ここの人々は当時黒岩が沢山の人を殺したので、その後も子どもが泣いたら、親がいつも『黒岩が来たよ、黒岩が来たよ』と子どもを威かして静かにさせました。彼は人殺し、殺し屋と言われたんです。もう一人、ここの人たちがあだ名を付けてジャガイモとか土の塊とか言った日本人がいました。首を切るときはいつも彼がやったんです。彼の身長は1メートル30もなかったが、太さは4人分もありました。人の心臓も食べたんです。広西山の所に一人の日本軍がいて、ここの秘書を捕まえて殺したことがあったんですが、彼の秘書の心臓はさっき話した人に食われたんです。

 農民の厳さんという人がいまして、彼は日本軍に銃剣で13回も刺されたが心臓まではとどかなかったのです。日本軍は彼がもう死んだと思って去った後、彼は蘇ったのですが、身体中はもう血だらけでした。蘇って這いながらここを出て、民家のある所まで行って人を呼んで、担架で運ばれました。この人は後で傷がどんどん良くなって元気に戻ったんです。75歳まで生きていて、つい数年前に死にました。もう一人、趙さんという八路軍の事務員がいました。この人がさっきのジャガイモとあだ名を付けられた人に首を切られましたが、また立ち上がって日本軍に抱きつきました。首の切り口から血がどんどん湧いてきて、日本軍の顔や身体全体にその血が飛び散りました。その周辺の日本軍が何人か集まってきて、この抱きついた死体を離して、日本軍を救い出したのです。救い出されたのですが、そのジャガイモというあだ名の日本軍はそれで驚いて病気になって、青龍県の病院に入院して間もなく死んでしまいました。その時からこの辺の民間の対聯に、『首のない男が刀を持った鬼を捕まえた』『七尺の身体の中国人は国の仇を討った』と書いてありました。この趙さんが殺されたとき、この史さんがこの目で見たそうです。

 

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史さんの証言

 この部落の人々の家族の姓はみんな趙です。ここは馬道と言います。両側は全部壁です。ここは門を3つしか残さなかったんです。こっちに門が1つあったんです。1.5キロのところまでこの部落は大きいです。こっちには2つの門があって、川に向いていました。中に畑もありました。川向こうに住んでいた人は他所から来た人で、私たち地元の人はこの辺に住んでいました。壁は高さが8尺ありました。二重の壁がありまして、皆さんが見た銃の穴のある壁は外側の壁です。川の向かい側(北側)は陳部落と言って、全部陳の姓でした。あの部落は2つの門がありました。北の門と東の門です。壁は今の郷政府の所から中学校のある所まであって、大きな壁に囲まれた大きな部落だったんですけれども門は2つしかなかったんです。

 その門は全部木で造ったものです。幅は3メートルくらいです。夕食の時門を閉める時間となります。朝も時間にならないと門を開けないのです。普通 の人は中に入ったら逃げられなくて、門を通るしかなかったんですが、私たちここに住んでいた人はこれを造るときに逃げる道を残しておきました。何かあった時に自分が逃げられるように穴を造っておいたんです。歩哨に建ったのは全部中国の人で、とりでの所と2つの門の所に歩哨が立っていました。それを監視するパトロールの人もいました。パトロールが来て、もし歩哨に立った人が眠ったら三ビン(往復ビンタ)をやられたんです。

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トウさんの説明

 ここの部落の戸数は30戸、陳部落の戸数は20戸くらいで、向こう岸の人圏も合わせて約800戸くらいありました。人口は合わせて約4000人いました。向こうの700戸は無人区から連行されてきた人たちでした。スペースが小さいところに人が多く入って、人と動物(牛・豚)が一緒に生活していて、トイレが窓の近くにあり、本当に人間らしい生活ではなかったんです。

 1943年、この辺りは疫病が流行って、下痢・吐き気・目眩で沢山の人が死にました。毎日何十人と死んでいきました。いちばん多いときは1日に53人が死んだ例もありました。着るものも無く、食べるものも無く人は非情に痩せていました。皮膚も黒かったんです。人間というよりは動物のような生活をしていました。当時の人々は若い女性も乳房をあらわにして、男も裸だったんです。娘たちも穿くズボンが無かったんです。悲惨な生活をしていました。村の家にもお墓があったし、ここにもお墓がありました。それでこの村が泣き出したら、そっちの村からも泣き声が聞こえて、全体が泣き声でいっぱいになったんです。最初は400人くらい住んでいましたが、44年の夏頃には半分くらい死にました。辛いことがあるとお互い泣くだけで、生活もみんな同じ悲惨な生活をしていました。この部落の壁の高さは4メートルくらいありました。

 何故馬道と言うかというとこの間にもう一つの小さな壁もあったんです。小さな壁は内部の警察がパトロールをするのに便利なように作ったんです。特に夜通 し、ここに住んでいる人にパトロールをさせたんです。自衛団という名が残っているですが、10〜60歳以下の人に全部自衛団に入ることを要求したのです。馬道をパトロールして、八路軍がいるかどうかを確かめるためです。部落の壁が何ヶ所か、そのままの形で残ったのはここだけです。これは日本軍と討伐隊が中国の人民に害をしたことの検証、証拠です。これから殺人坑の所を見てみましょう。

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殺人坑の跡で 1997

トウさん

「皆さん、この場所は当時いちばん悲惨な所だったんです。非常に涙を流すほどのところだったんです。殺人坑のことについて話してもらいます。」

陳さんの証言

 ここに穴より大きな坑を掘り、沢山の中国人を中に入れて銃剣で殺して埋めました。この話をすると涙で声が出なくなるんです。当時の満州国と日本軍を恨んでいました。今はもう中日友好ですから友好的に付き合っていきます。---涙をこらえ切れずに、顔を覆ってしゃがんでしまう。

趙さんの証言

 坑は2つあって、どのくらい人が殺されたのか具体的な数が判らなくなっています。

スーさんの証言

 こっち(小さい川を挟んだ向かい側)は無人区でした。坑はここ(右手の、大きな胡桃の木の下)にひとつありました。もう少し先にもう1つありました。全部銃剣で殺された人を埋めました。壁の外側にあるから外側の万人坑と言います。内側にももう一つ万人坑がありました。当時は長方形の形でした。事前に掘って置いてから次の日にまた討伐に出かけるんです。この谷の奥の方には無いんです。全部近いところに坑を掘りました。運ぶのに手間がかかるから遠くには掘らないのです。

 幅3メートルくらいの長四角の穴がこの後ろの壁の中にあって、30人〜40人くらいの人が穴の側にしゃがむように並んでいて、日本軍が一人ひとり銃剣で殺しました。小さいのは6歳の孫から80歳のおばあさんまでその日に全部同じように殺されました。一日何人殺したか判りようもありませんが、例えばこの日に3人、次の日に4人、またある日に100人殺したという有様でした。殺した人をその場で埋めて日本軍が引き上げた後、夜になるとここの近くの人は知り合いの人がいれば探しに来て掘り出してその家の墓に運んで行って埋めました。知らない人はそのままここに埋めたままでした。

 
日為殺人場遺址の碑
  
(1998.7.29建立)の前にて

1998

 

趙さん(67歳)

 当時、ここに2つの穴がありました。胡桃の木の下に1つの穴がありました。この穴に何十人もの死者を埋めました。私の記憶では、あっちとこっちに穴があって、30人くらいを穴に埋めました。

陳さん(67歳)

  当時、私は12歳でした。私の記憶では、いま建物があるところに1つの穴があって、12人そこに埋めました。私は当時それを見て、怖くて、病気になって、親戚 の家に背負って連れ帰られました。

趙さん(68歳)

  当時、ここの殺人の時私は見ました。日本軍が40人くらい来ました。中国の人を使ってここまで連れてきて、最初は穴の周辺に立たせたのです。穴は6平方メートルくらいありました。日本軍は銃剣で一人ひとり刺して殺した。殺された人は60歳くらいの人もいたし、5、6歳の子どももいました。私がこの目で見たのです。私は当時12歳、1943年のことです。

趙さん(77歳)

 私も見ました。近づく勇気が無く、遠いところから見ました。穴はこれくらいの大きさでした。お祖母さんとお孫さんの2人を、日本軍が軍刀と銃剣で殺した場面 を見ました。4つ穴があったと思います。

趙さん(64歳)

  私は当時9歳でした。日本軍はコウカセンからこちらに来ました。私の記憶では、当時連れられて来た中国人は、男もいたし、女もいて、年配の人は70歳くらいの人もいました。全部殺したわけではなかったのです。人を通 してお願いして、放してもらった人もいました。私の祖父は、同じ村の一人っ子の男の子が殺されそうなのを見て、傀儡軍に依頼して放してもらいました。(碑を指さして)そこに書いてあります。男の子が1人、かわいそうで、警察に頼んで放してもらった。もう1件は、お姉さんが小さい弟を抱いているのを見て、かわいそうと思って放してもらった。それ以外は全部殺されました。
  胡桃の木の後ろに、少し高い、丘のような所がありますね。周辺の村の人を全部ここに集めて、みんなに現場を見せたのです。みんな、穴の周りに立って見ていたのです。私が見た中で一番多く殺されたのは、この木の下です。
  一番のショックは、お母さんと2人の子ども、上の女の子は12歳、下の男の子は9歳を連れてきました。お母さんが先に、軍刀で首を切られて殺されました。お姉さんは、靴もなく、石だらけの道を裸足で歩いてきて、傷ついた弟の足を、その瞬間でも心配して、足を石にぶつけないようにと慰めていました。お姉さんが話し終わった後、日本軍に銃剣で刺されました。 最初のうちは軍刀、あるいは銃剣で刺したのですが、後ろからは手間がかかると思い、穴の中に全部押し込んで、穴の上から銃剣で、(上から下へ向けて刺す動作をして)こういうふうに突き刺して殺しました。周辺で見ていた人は、見るに堪えないのです。

 日本軍が南山からまた、よその村の人たちをこっちに連れてきたのです。この村の人たちはこれを見て、また殺人することになると思って、橋のところでお願いしたのです。お願いしても日本軍は、こういうふうに左右に軍刀を振って威嚇して、効果 がなかったのです。
  このクルミの木をわざわざここに植えたのは、次の世代に、当時ここにこういう事件があったことを伝えるためです。ここの場所は当時、他の場所より一番多くの中国の人が殺されたところです。
  今日ここで昔の話をするのは、昔のことを忘れないためです。私は、中日友好・中日関係をこれから一層よりよくすべきだと思います。

 

日為殺人場遺址の碑について 1998

トウさんの説明

 この場所は、満州時代モクイに駐屯した日本軍の殺人現場です。この周辺に3つの殺人の穴がありました。新中国成立後、人々がここで塀を作った時に偶然、長さ100メートルの長さの堀の下に人の骨を見つけました。それを集めたら、車半台ほどありました。
  趙さんと趙さんがこの辺りで農作業をやっていた時に、人の骨を発見しました。このことによって、この辺り殺された人は100人くらいということが証明されました。
  日本軍と討伐隊がここで殺した人は、すべて無人区の方から逮捕してここに連れて来られた人です。公に殺すことのできない人は、秘密に殺しました。公に殺すことができる場合は、銅鑼をたたいて村の人たちを1ヶ所に集めて、みんなに見せつけました。
  趙さん、趙さん、陳さんがそれぞれ目撃した殺人事件はだいたい、以下のようです。 1943年の春、日本軍の討伐隊はここで20人ほど殺しました。
 1943年夏、日本軍はコウカセンの方から3人の娘をここに連れてきました。全部裸にして銃剣で娘たちの乳房と腹部を刺しました。3人の娘は全部お腹も割れました。とても悲惨でした。
  1944年の上半期、日本軍の傀儡軍は、セイカコウの方からチョウという6人の家族を捕まえてきました。趙はその中の男の子をかわいそうに思って放して、家に連れ帰りました。他の4人の男性は全部むごい死に方をしました。日本軍は放された男の子の、1人残されたお母さんを、傀儡軍の警察の嫁にしました。1944年の上半期、ここで6人が殺された。
  スイレントンのところのホウという姓の女性を、日本軍が李というスパイの嫁にしました。1944年秋、黒岩が指揮して、軍刀を冷たい水につけて、12人を殺しました。生と死が別 れる、なかなか忘れられない事件でした。趙さんの話しに出てきた、軍刀の下で救い出された男の子は大きくなりました。

 

 

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「モクイ」での証言

1999

トウさんの事前説明

写真はトウさん

元・興隆県の党史研究室主任

 興隆県全体が侵略戦争の一つの跡となっています。戦争の間の興隆県の大きな特徴は、無人区と人圏の二つです。無人区政策はこの興隆県から始まったわけではなく、1938年東北に於いて王風閣将軍を攻めるために最初展開された政策でした。1940年趙尚志将軍を攻めるためにも、1940年楊靖宇将軍を逮捕する時にもこの無人区政策を取りました。

 1940年以降この町で無人区と人圏政策を取り入れる時も、主に東北での経験者の日本軍をこの土地に派遣してその実施になったわけです。無人区と人圏を作るというのは、中国共産党の力を牽制するための最も重要な手法の一つです。

 この興隆県にあった225の人圏の中では、このモクイの人圏が最も大きなものでした。一つの大きな人圏の中は、3つの小さな人圏に分かれていましたが、合わせて4000人がここに入れられました。この基本的な方法は、2人の日本軍が200人の討伐隊を管轄して、その討伐隊によって4000人の村民を監督しました。

 一番最初の見学先は、キタミという所の殺人現場です。二つ目は南の山にあった討伐隊の駐屯地跡で、三つ目は人圏の遺跡の現場です。その時はいずれも古老の方の証言を聞くことになっています。

 

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「殺人坑」跡
「日偽殺人場遺址」の碑の前で  1999

史(77歳)さんの証言

 日本軍の殺人の状況を報告します。

 私たち達の村はモクイといいます。戦争の時期は姜大祥という人が討伐隊の隊長でした。このあたりが人圏と無人区政策をとった時期です。この人々は4キロ範囲(中国では8里といいますが)の人々を1ヶ所に全部集めて人圏というものを作りました。

 こちらの方は大きな穴を幾つか掘って、日本刀を使ってどんどん殺しました。死者はなかなか数えられないものになっています。一度に8、9名はよくありました。普通の村民にはそれを見せないものとして、周りに全部歩哨を立ててその中で人を殺してきました。部隊の駐屯は約1年半の間のことです。それであまりにも多くの人を殺してきましたので、県の方で告訴もしましたけれども、その後はこの部隊は移動しました。

 最初の私の記憶では、この山の向こうの菜園子という部落で、1回目の時、いずれも私の知っている人ですが、3人を殺したことをはっきり覚えています。遺体は家族には渡されませんでした。いずれもそのまま埋められて、家族の人たちは夜こっそりその死体を取りに来ました。死者は合わせて今は400名を超えているかと思います。

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トウさんの説明(他の証言者に代わって)

 この数人の方々が私に頼みましたので、もう少し詳しく説明します。

 殺人の場所の一つがこちらです。ここには大きな胡桃の木がありますが、この胡桃の木の下でかなりの人数の殺人を行ないました。それから西の方向ともう1ヶ所は北の方向と計3ヶ所がそれぞれ殺人の現場になっています。殺人の人数400人というのはどこから出て来た数字かといいますと、1954年人民公社の一番最初の段階の時にここに大きな塀を作りました。塀を作った時は、約0.5キロの範囲で次々人の骨が出てきました。この骨は数百体にあたるもので、全部車で運ばれました。当時の人々はそれを全部見たわけですから、その時の殺害現場のことと1954年のこととはぴったり一致するので今400名を超えていると言っています。

 もう一つはこの方(趙さん)がはっきり覚えていることなんですが、12名の人がこの胡桃の木の下で殺されました。すぐ側でまた2名の人が殺されましたので、一回に計14名の人が殺されるのを見ていました。

 この史さんが話してくれたことですが、他の村の3人の女性がここに連れて来られて、服を全部脱がされて殺されたということです。その時は主に男性が殺され、女性の方は強姦されたケースもありました。それから1943年に一人の女性が捕まえられて、討伐隊の一人に強姦されました。息子がこのお母さんを見つけてわかったのです。この女性はその後10年ぐらい生きましてその後亡くなりました。  息子のお父さんも彼が10歳ぐらいの時に殺されて、お母さんの方もそうしたひどい目に遭いました。彼はすぐ側に住んでいて、時々この町に来ている60代の人です。こうしたケースも沢山ありましたが、ここは一先ずこれだけにしておきます。

 これから討伐隊の跡地を見に行きます。

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「討伐隊駐屯地」跡
「日偽姜大祥討伐隊駐地遺址」の碑の前で

1999

トウさんの説明

 この碑には、日本傀儡軍姜討伐隊駐屯地の跡地ということが書いてあります。ここはこの姜と黒岩による討伐隊300人余り、それから傀儡軍の100人余りの部隊が前後して駐屯していた場所です。それでここは無人区を作るための一つの根拠地になっていました。

 この姜というのは、元々は、この熱河省警務庁の警察部隊に所属する隊長です。また、日本隊の隊長は黒岩という名前を使っている日本人です。彼らは、いずれもこの無人区を作り出し、しかも三光政策を実行することにあたりました。また数100人余りの人をここで殺しました。

 四月、黒岩は、その部隊を引率してここの土地で濡遵興県九、十区の抗日ゲリラを攻めまして、それでこの土地の戦士を殺してしかも彼らの死体を食べました。心臓を取り出して食べました。

 1943年の冬、黒岩は部隊を引率して、黄花川というところで1人の女性、1人の若い奥さんなど計5人を山の中で押さえつけて殺させました。それから彼らは他の農民をも日本刀で首を切断して殺しました。こうしたことがありました。

 それで日本軍はこの南山で6人を殺して、その中の宋秋子の閻という人は13回も日本刀で刺されて、それで血が沢山流れて亡くなりました。日本軍がいなくなってから、この閻という人は、また、目が覚めまして、それで彼の方は、自分で逃げ出して、それで生き残ることができました。この人は歴史の大切な証言者となっています。1984年に亡くなりましたけれど、ここの歴史を証明してくれた大切な存在となっています。この碑は1998年7月25日にここに建てられたものです。

 この史さんは、この土地の殺害の証言者にもなっていますので彼の話を伺いたいと思います。

 

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史さん(77歳)の証言

 この駐隊趾は丁度この場所ですけれども、11個の部屋からなっている駐屯地がありました。どの位の大きさかといいますと、向こうの方は、ちょっと際立っているあのポプラの木の下にはちょっと壁があるように見られますけれども、そこが一番向かい側の壁です。それからこちら側の壁は、この壁になっています。それでこの石碑のあるところは、正面玄関に続く庭の正門になっています。このいずれの穴も発砲の為に作られたもの(銃眼)になっています。

 討伐隊の本部はここにありますので、黒岩それからその他の責任者はここに駐在していました。こちら側には6つの部屋があり、当時の普通の兵士は、ここに駐在していました。この人たちは普通の民居に入らずにここに全部、部屋を作って駐在しました。なぜ民間の部屋に入らないかというと、いろんな人を逮捕してきて、特に女性を逮捕してくると、いろんな事をやりました。年をとった女性の場合でも被害を受けました。

 それから共産党の幹部の人たちも逮捕されて、ここで殺されました。当時、殺害をした人は日本人で、そのあだ名をジャガイモと呼ばれた日本軍の兵士がいました。それでこの共産党の軍の趙という人を殺したときは、土下座させて、日本刀で首を切断しましたけれども、首は切断されて身体から離れたけれど、その土下座の身体はそのまま立っていたんです。それでそのジャガイモと呼ばれていたその日本軍の人は、これでショックを受けて即死しました。こうしたことがあって、なぜなのかなかなか解らなかったから、その切断された身体はなぜ倒れないのかということで、それでこの部隊はここを恐れて今度は移動することになったのです。

 向こうの山の高いところは歩哨の一つでしたけれども、一回、4人の人を連れてきて殺そうとしましたが、その中では幸い3人生き残ることができました。生き残った人により又その歴史は証言されるようになりました。  それから、いろんな人たちはここに連行されてきて、一晩二晩ぐらいここに居ることになった後、今度は向こうの山のところで殺されることになります。こうしたケ−スもありました。

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トウさんの説明

 なぜこれほどの人を殺すかといいますと、ここから約4キロぐらいのところは無人区になっています。向こうの方は約50キロ余りの無人区がありますけれども、これは抗日軍のゲリラの1つの根拠地、五指山という山のところが抗日ゲリラの部隊の根拠地になっていたからです。この五指山という山は、この近辺では一番高い山で、海抜1384メ−トルになっています。

 1941年から45年までの間に無人区の政策が徹底的に実行された間においても、この日本軍に抵抗してゲリラ戦を続けた人たちは約2万6000人の人数にのぼっています。この五指山の本拠地の中では、1万人余りの人が抵抗を続けていました。この近辺での抵抗の勢力の存在をよく知っていたわけですから、無人区を監視するためにここの力を果たそうとしました。このような状況にあったわけですから討伐隊は非常に頻繁に、数日間に1回は出かけて20名、30名、40名それから50名ぐらいの人たちを連行してきました。だいたい連行の範囲は、30キロ〜50キロぐらいの範囲にわたっていました。その人たち全員をこの1ヶ所に連行してきました。  これから、人圏の跡地を見学したいと思います。 (移動)

 

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「人圏」跡

1999

トウさんの説明

 これから、趙家人圏の状況を紹介したいと思います。

 この壁は、人圏の壁の跡地です。馬道と言います。ここの趙家人圏というのは400か500世帯くらいですけれども、向こうの方は100世帯ぐらいになってます。この部落は3つの大きな門がありました。

 モクイの人圏は3つからなっています。 向こうの政府所在地のものが一番大きいものでした。ここは二番目のもの、向こうの方は三番目のもの、こうした形になっています。

 向こうの道路の向かい側の人圏は東西は約1キロぐらいの長さで、無人区から連行されてきた人たちはみんな向こうに入れられました。こちらの方は趙家人圏と呼ばれていますけれど、趙という名字の人が多かったのです。40世帯余りの人たちがここにいました。向こうの、私達がさっき行ったところは、陳家人圏と呼ばれていますけれども、小さいものであって約20世帯くらいそこで暮らしていました。合わせて800世帯、4000人ぐらいの数になってます。こちらの方の趙家人圏というのは、ここの壁からずうっと向こうの方に延ばしていきますけれども約100メ−トルを超えてます。それでこちらの方は数10メ−トルの南北の距離となってます。この壁というのは、現在は少し崩れて少し低くなっていますけれども、もとはもっと高かったのです。それで現在でも人は外から登ろうと思えばかなりの高さがありますから、登りにくいことになってます。

 こちらの方の壁はかなりの厚さにありますから、この上で、監視の人たちはこの間を歩きながら監視をしていました。一方、中の人たちを監視するとともに、その外側から入ってくる可能性のある八路軍をも監視していました。この上で往来していました。こちらの方は外はこの壁があって、中はこの道があります。この道で歩いて監視していました。こちらの村民は、この道を馬道と呼んでいました。こちらの方はかなり厳しい監視をしていました。一定の時間中でなければ出かけることもできないし、入ることもできないです。違反するとすれば犯罪者扱いになったりしました。

 それでこの中では3人も5人もの人は一緒に話することも禁止されていました。それから家の中に米と小麦の食料は保存することも許されなかったです。さらには5つのボタンのある服も着ることができなかったです。

 この村の中では、食物もないし病気の治療も受けられないこともあって、1944年まで、約2000人の人たちは、餓死、あるいは病死などによって、亡くなりました。向こうの大きな人圏の中では、1944年病疫にあったとき53人の人が一日で亡くなりました。この人圏というのは、どういうものかといいますと、性格から見れば集中営という性格をもっていますけれど、その実態を見るとすれば、それは人間の社会の中の地獄だと言えるかと思います。 

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Sさん(日本側)のお礼の言葉

 今日は貴重なお話を聞かせていただいてありがとうございました。  モクイの事実のことはN先生の本の中とか、第一回、第二回に参加した仲間から話を聞いてきました。今回私は初めてこの場に来たのですが、事実を聞いてとても胸が熱くなる思いがします。ここで聞いたことは日本に帰ってから子供たちや日本の仲間に必ず伝えます。

 それから昨年、一昨年の訪問時のビデオとか、聞いたお話を日本の子供たちに伝えました。それで、その感想を子供たちからもらってきているので、一つ読み上げたいと思います。

「僕はこの授業をしてとても嫌でした。それは日本の人が中国の人を簡単に殺したりしていたからです。日本軍は戦争中、中国や東南アジアの人々にとてもひどいことをしていたということは知っていました。でもこの授業をして僕が思っていた以上にひどいことをしているということがわかりました。中国の人なら殺していいとか、自分たちと違う人間だとかいうものすごい差別をしていたのです。  中国の人たちはとても辛かったろうし、日本軍をかなり憎んでいただろうと思います。でもこの前ビデオを観て僕はとても驚きました。それは中国のおじいさん達がこころよく歓迎をしてくれていたからです。ぼくはこれからこの授業で学んだ日本軍がしてきたことを絶対に忘れないようにして、中国の人たちとも友好を深めていくことが出来ればいいと思います。」

 以上です。ありがとうございました。

 
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殺人坑跡
「日偽殺人場遺址」の碑の前で

2000

Nさんの説明

 向こうからもっと山奥の方、たとえば昨日車で通ってきた成功村、山の峠を越えたところに村がありましたが、私はあそこから2時間いくらかかってここへ下りて来たことがありますが、その間の土地に人が住んじゃいけないと日本軍が勝手に決めまして、そこの人たちをみんなこの村まで来させたんです。そして今私たちが泊まっているあのあたりに人圏を作ったんです。
  川向こうは前からある村に2つ人圏を作って、川のこっちに1つを作りました。山は立ち入り禁止区域だから、そこに人がいれば、見つかれば無条件に殺されるということなの。山にしょっちゅう討伐隊が入って、捕まえて、ここまで連れて来るんです。その場で殺さないんです。ここまで連れて来ると、銅鑼をがんがん鳴らして村人を集めるんです。そしてみんなが見ている前でここで首を切るんです。それでおじいさんなんかは、日本刀に水をかけて首を切る真似をします。もちろん子どものとき見ているからなのですが、本当にここでそういうことをやりました。見せしめのためにそういうことをした場所なんです。ですから解放後はここから2トンのトラックに半分くらいの骨を掘り出しているんです。しかしそれで全部じゃなくて、あちこちに今も骨が散らばってあるんです。今ここの碑文にはそのときの事件の二つ三つが書いてあるんですが、場所としてはそういうところなんです。
  その首切りの名人の名前が黒岩って言うんです。ここから大杖子という郷にかけて、黒岩の名前は鳴り響いています。これは承徳にいた警察の人なんですけれども、彼が討伐隊の中に入っていまして、これから行く川向こうの満軍の駐屯地というのがあるんですが、その満軍及びその討伐隊に指揮を与えていた人なんです。名前はしっかり覚えられるのですね、現地の方たちに。ほんとに悪いことをすると、日本軍の残虐行為だけではなく誰がしたかまでみんな、土地の人は記憶しているということなんですね。
  こういう地域は多分他にもあるんですが、こういうふうに残っていて、ここが一番わかりいい場所だと思います。

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高通訳さん(碑文を読みながら説明)

 ここは3つの殺人坑の跡です。人を殺してから集中的に埋めたところです。
  最初はわからなかったんですけど、建国後にそのあたり100メートルにわたって人骨が発見されて、1個所に大体100人くらいの人が埋められているのがわかりました。 ここは無人区で、人は入ってはいけない場所だとされていますから、誰かが入ったら殺すと。そして周囲の住民に、入る人はこういう結果になるよと見せました。
  1943年、44年のことがいくつか書いてあります。たとえば43年の夏、日本軍が黄花川というところから3人の娘を連れて来てここで裸にして刀で殺しました。1944年の春、清河口というところから趙さんという一家6人を連れて来てここで殺しました。その中には1人の男の子がいて、その子を別のところに連れて行ってもらうよう他の人に頼んで、その子は逃げたようです。他の4人の男は殺されました。残りもう1人いた趙さんのお嫁さんは、日本軍に協力する中国人の警察の人の妻にさせられました。その男の子は趙玉祥さんという人で、彼は解放後、その警察の人に結婚させられたお母さんを自分の故郷に迎えて、1998年現在、彼はもう67歳のおじいさんになりました。碑にはもっといろいろ書いてあります。

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趙(70歳)さん

 私は詳しい話は知らないのですが、このあたりで殺した人を埋めるところはここに2つあって、後ろにもう1つありました。旧満州時代のときのことでした。なぜ、どういう理由で殺したのか、具体的なことはわかりません。

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趙(69歳)さん

 当時13か14歳でしたので、何のために殺すのか、何の罪を犯したのかという詳しいところは話せないのですが、ただ人を殺す時にはみんなで囲んで見るわけです。子どものとき何回か人を殺す場面を見たことがあります。たとえばこのあたりで、ここに書いてあるように12人殺した時とか、もう一つは、私より年上の、もし今まで生きていたらおばあさんですが当時は娘さんが、跪いて刀で殺されたのを見たことがあります。女性ですからどういう罪なのか、なぜ殺されたかは知らなかったです。ここに書いてある男の子のことなのですが、当時その男の子は私のおじさんが引き受けて息子として育てたのです。

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Fさんのお礼の言葉

 実際に初めてお聞きしましたけど、本当のことを私どもが知って、本当の未来の中国との友好がこれから生まれますように、持ち帰って子どもたちや周囲の者にお伝えしたいと思います。大変ありがとうございました。ご長寿をお祈りいたします。
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2.満軍駐屯地の跡 
「日偽姜大祥討伐隊駐地遺址」の碑の前で

高通訳さん(碑文を読みながら説明)

 この辺の碑は具体的な個々の事件が書いてあるのが特徴です。この壁は趙さんの説明によれば、当時の壁だそうです。このあたりは日本軍の駐屯地で、沢山の人が住んでいました。当時は満州国に入れられて、今は河北省ですが当時は熱河省で、国境に近いところでした。姜大祥という満州国の警察官と日本の黒岩という人が、300人の部隊を率いてここに駐屯していました。1943年の7月、黒岩がこのあたりのゲリラを襲撃して、このあたりの農民とゲリラの兵士2人の心臓を取り出して殺したということです。43年の冬、黒岩が率いた軍が聾唖者の男1人と娘1人とどこかのお嫁さん1人を山の崖から捨てて死なせました。張広軍さんと会って、黒岩が頭を下げろと命令したのに頭を下げなかったということでその張さんを殺しました。南山というところで6人を殺しました。その中に、孫杖子というところの閻起さんが13個所も刀で刺されて、日本軍が去ってから目が覚めて、死ななかった。6人の内1人生き残ったこの閻起さんは、1984年に病気で亡くなりました。…などが書かれています。

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3.馬道 「日偽帳構峪人圏遺址」の碑の側で

Nさん説明

 向こうは人圏の壁の跡ですけど、ここの特徴はこんなふうにずうっと壁の内側に道があるということです。馬道と言います。巡視の人たちがひとまわり出来るように作ってあったのです。銃眼の跡があります。

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史(78歳)さん

 ここには人圏が3つありました。この趙家人圏には40余世帯が住んでいました。そちらの陳家人圏には30余世帯が住んでいました。一番大きな川向こうの人圏と合わせると800余世帯、計4000余人が入っていました。
  この人圏には周りに壁がありまして、入り口が2つありました。外出には門限があり、何時から何時まで出かけることが出来るかという規則があります。
  黒岩がさっきのところに住んでいました。このあたりの人はみんな人圏の中で住まなければならないので、人圏の外で見つかった人は殺します。殺した場所はさっき私たちが見たところなんです。
  若い女性が10数人くらい軍に従軍させられました。最初は結婚したわりと若い娘を2回にわたって従軍させたのですが、後で上から従軍させないようにという命令があったそうです。その後は外で見つかった人は従軍させずに殺すことになりました。
  当時の行政上のポストは中国人というか満州軍の人が上で、黒岩は実際は副職なんです。しかし決定権は黒岩のところにありました。夜になると人圏の中では軍の人が懐中電灯で全部の家をチェックします。
  このあたりの4キロ以内の作物はそのまま残して、それより外側にある作物は八路軍に食べられないように青いうちに刈り取ってしまうのです。そうすると人圏の中の人たちは自分たちも食べ物が無くなりますから、実際は5キロ以内くらいを刈らずに残しました。

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Kさんのお礼の言葉

 今日は朝早くからお話を聞かせて下さってありがとうございました。今日聞いた話を日本に帰ってから子どもたちとか私の友達に話したいと思います。ありがとうございました。