日中戦争証言 潘河口水庫

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1997.8.20

於:潘家口水庫

  • トウ(元興隆県の党史研究室主任)さんの話 
水庫に沈む長城

 この潘家口という所は長城沿線においても非常に重要なところです。遷西、寛城、興隆県の、3県の境地です。南側が遷西県で、東の方は寛城県、西の方は興隆県に属します。この水は梁河から来ていて、梁河の発祥地はここから500キロ離れたところにあります。ここから唐山に行く途中県という所がありますが、そこからこの水は渤海に入ります。車河、柳河、洒河の3つの河が興隆県にはありますが、南に流れる河は全部梁河に入ります。

 この河は昔、熱河から冀東までの水上の主な輸送動脈でした。昔からこの地区は仲買商人が必ずお互いに相談するところでした。昔は全部この河を通って、羊、牛、木材、綿などいろいろな品物を関内に輸送していたんです。関内からは食料、日用生活品などをこの河を通って関東に運んで来るんです。

 1933年に日本軍が熱河省に入って来てからこの辺りは熱河省の境地となったのです。この潘家口の所に税関所を設けました。ここから15キロ先にある喜峰口は全部警備部隊で、ここだけ税関があり、傀儡満州西南税務管理所の所轄下にありました。この税関所が出来てから、熱河省と関内の物資の交流は封鎖されました。熱河省の品物はもう関内に入らなくなりまして、関内の物も熱河省に入らなくなりました。なぜ人圏の中の人たちがどんなに貧しかったかといいますと、関内の大量の食料や品物が全部ここまで運べなくなったからなんです。

 経済封鎖はひとつのことで、もうひとつは、梁河が日本軍に取られて3県がお互いに隔てられているので、それそれ抗日根拠地となったことです。梁河の東岸は遷安・青龍・寛城が1つの根拠地になりました。西岸は遷西・遵化・興隆があ1つの根拠地になりました。ここが3県の境地ですから、敵が討伐するときにお互いに逃げられるんですね。例えば興隆を攻めたときは青龍に逃げられるし、青龍があ攻められたときは興隆に逃げられる状況だったのです。ですから当時の日本軍は、興隆は興隆で住民を一ヶ所に集める、青龍は青龍、関内は関内でそれぞれ1ヶ所に人々を集中させたのです。そのためにこの梁河の両岸にひどい殺人事件が起こりました。東岸の寛城県の所(王廠溝)で、200人くらい殺されました。大屯の村で183人殺されました。艾峪口という長城の麓にあった村では221人殺されました。興隆県内では殺人事件はもっとたくさんありました。柳河口、王宝口、臭水湖でそれぞれ殺人事件が起きました。

 当時、ここの税関の所で毎年毎年反抗がありました。一番盛んにこれに反対したのは興隆県の孫永勤でした。日本軍はここで沢山の中国人を捕まえて牢屋に入れました。孫さんは1934年の夏、民衆軍を率いてこの税関を攻めました。ここの指揮者と日本軍と傀儡軍はあそこに見えるような砦に逃げ込みました。1人の中国のスパイが孫将軍に捕まえられました。この潘家口で銃殺しました。それで一時期この潘家口の税関は解散しましたが、一ヶ月後にまた復活しました。孫永勤将軍がここを攻めた後、日本軍は全部ここに応援しに来て、税関も復活したのです。

 1933年の秋頃、3隻の船がこの梁河を通った時、賈家安という所で1500キロの米と350着くらいの衣服を手に入れました。孫永勤将軍が日本軍と戦ってそれらを手にしたのです。200人くらいの日本軍が戦死しました。その頃から日本軍はこの辺りの警備力を強化しました。船の数も増やして河の上の警備を強めました。前よりもっと残酷的にこの両岸を支配しました。

 支配が厳しければ反抗も厳しくなります。1942年の夏、冀東軍分区の八路軍の舞台が興隆県に駐屯しました。車河口の所で、日本軍と傀儡軍の討伐部隊の田中部隊183人が興隆県を攻めるという情報を得ました。日本軍は大きな船に乗って、梁河を経由して河口という所に行くことになりました。八路軍はホウジュセイという参謀長の指導の下に東の方に1中隊と西の方に1中隊とで待ちかまえ、1時間で田中討伐部隊を全滅させました。日本軍は船に乗って水の中にいるから動きにくかったんです。3人だけ逃げられたそうで、あとは全滅しました。それは梁河村という所での一番大きな勝利だったそうです。

 この梁河は今流れているのは水ですけれども、昔何十千何十万の中国人の血が流れました。この両岸の人々の間に流行っていた歌があります。歌の名前は『忘れられません』です。このなかに「梁河の流れはさらさらと流れる。仇と恨みはいくら流れても流れきれない。この仇と恨みは積み重なって山ほどになる。涙は鉄のような石をうがつ。」とあります。64年前のある日、日本軍は強制的に熱河省を侵略しました。三光作戦を実施して、人圏を作りました。その時から熱河は晴れの日がなかったのです。今見ているのは水ですけれど、60年前は沢山の人々の血と涙が流れました。

 以上で簡単ですが説明を終わります。足下に気をつけて、まわりの長城とダムの水をごゆっくり御覧下さい。