まず、部落(人圏)のことを話します。当時日本人はここまで来て支配していました。遠い所は無人区、近い所は人圏、あるいは、人は住んではいけないが耕作は出来る所でした。人圏に入れられたのは14歳の時でした。14歳だから当時のことはよく覚えています。皆で一緒に人圏に入れられました。当時の人圏は、周囲には塀があり、門は1ヶ所だけありました。塀の高さは5メートル程ありました。当時は人圏の所以外では住んではいけない。例えば、外に泊まって、明かりがあったら、銃で撃つんです。八路軍だと見なされるんです。人圏に入る時間も決めてあって、もし遅れると殴られました。怒られて、お前たちは今まで何をしていた、どうして入ってこないと言われました。
当時は、部屋がとても小さくて3軒1部屋、あるいは2軒1部屋というふうに住んでいた。衛生のことを考えても仕方がないですね。どうにもできない。当時は水道はなくて、水桶があって、汲んだ水を桶に入れる。衛生状態が悪かったから、蝿とか蚊とかが沢山入ってきて、みなが疫病・伝染病にかかることが多かったんです。
一般の農民は人間と思われてなかったし、死ねと言われたら死ぬしかありませんでした。殴られて死んだ人はもちろんですが、疫病、病気で毎日2、3人死ぬことはめずらしくなかったんです。
服も、本当に着るようなもんじゃなかったです。洗濯もできないし、布を売る人もいなかったんです。公の方から各家に配給はあったけれど、各家に荒い布を何尺かしかくれませんでした。それも綿じゃない。服を作るどころか、子どものおむつに使うにも足りない量でした。
人圏の中で2度の正月を過ごしました。正月にはコーリャンの粒を粉にしたものを少しだけくれました。もちろん、米も小麦粉もなかったし、豚肉も、他の肉もなかったんです。上手にやる家は年に1回くらい餃子を食べられたが、そうでなければ餃子さえも食べられなかったんです。
人々は人圏の中で何年か生活して元に戻ったが、衛生状態のいい人圏では人は割合残っていたが、衛生状態の悪い人圏では、家族ごとみな死んでしまうことも結構ありました。
人圏を出たのは、満州国が倒れたということで、みな出られるようになったからです。人圏から出た初めは、みな家が残っていないから、小さい小屋を作りました。それぞれみなが小屋を作るから、協力して欲しくても、協力してくれる人もいなかったんです。新中国成立で解放されて、みな少しずつ良い生活が出来るようになりました。能力のある人は、早くいい生活が出来るようになったが、能力のない人は遅れました。沢山の人が、当時、新中国成立の後でも、生活は大変苦しかったのです。それで国の方から援助を貰いながら、自分の努力によって、日に日に良くなっていきました。着るものもちゃんと着れるようになりました。
これは、又話が戻るけれども、当時人圏の外に住んでいたら人間とは見なされなかったんです。人圏に入った人は、それでもまだ認められていました。その中に、同じ村の人で、何人か帰って来られない人もありました。とても今の生活と比べられるようなものではなかったんです。
弟1人、妹1人が伝染病で死にました。これは殺されたわけではありません。弟は3歳の時だったかに伝染病にかかったが、医者もいないし、薬もなかったんです。民間の人に診てもらったが、専門の医者ではありませんでした。母と父も病気になって、人圏から戻った直後に死んでしまいました。
これは昔の話です。今は、中国と日本は仲良くなってきていることもわかっています。
(孟さんの話をしていただけますか)
孟さんの家族は、兄弟4人いましたが、3人死んでしまって、後に1人しか残りませんでした。兄弟は病気で死んだのですが、お医者さんに診てもらうことは出来なかったんです。
(李さんの話をしていただけますか)
李さんの家の兄さんは、八路軍になったことがあったから、1938年の頃のことですが、日本軍に捕まえられて腹を切られ、心臓を出して供え物にされました。中国の人はよく山道を歩くのですが、山で歩いていて、日本軍に出会って、銃殺されたり、殺されたりしたこともよくありました。これは人圏の出来る前の話です。
(ひとつの人圏にはどれくらいの人が住んでいたんですか)
だいたい100家族くらいで、5〜600人くらいが住んでいました。それで、半分くらいが人圏から出て元の所に戻ったんです。あとは、いろいろな病気にかかったりして、半分くらいが死んでしまいました。