いのちの学び162号(06.4月号)
1項 表紙
今月の詩
売ったらあかん
随筆家 岡部伊都子
友達を 売ったらあかん
子どもらを 売ったらあかん
まごころを 売ったらあかん
本心を 売ったらあかん
情愛を 売ったらあかん
信仰を 売ったらあかん
教育を 売ったらあかん
学問を 売ったらあかん
秘密を 売ったらあかん
こころざしを 売ったらあかん
大自然を 売ったらあかん
いのちを 売ったらあかん
自分を 売ったらあかん
自分を 売ったらあかん
2項
ミニ説法
(写真・蓮如上人)
本願寺第8代蓮如上人は、浄土真宗の中興の祖として、本願寺を莫大な勢力に拡大させた方です。その蓮如上人の逸話に藤平太の話があります。
蓮如上人61歳のときの出来事です。岑崎藤平太という乱暴者がいた。ある時、妻が山伏に祈祷を依頼したことを聞きつけ、妻を殴打し、山伏と争いついに殺害してしまった。それから藤平太の身辺に不幸が続いたので山伏の怨霊ではと、その山伏の死骸をあばいて微塵に砕き、山の糞つぼに入れた。それから不幸はなくなった。母が法話会に立ち寄ったと聞けば、母を打ち同行を罵声を浴びせ、みな藤平太の存在を怖がっていた。
上人は、いつか機会があれば教化したいと思っていた。
そんなある日、偶然道で出会った。上人は、吉崎防衛のために力を貸してくれと頼む。藤平太は、時の人である上人から頼まれたので喜んで承諾した。人数を集めるからと藤平太が言うと、上人は人数を集めるのには真宗の法義をからめて集めることが最も良い計略である。まずは法義を一応知っておくが良いと、阿弥陀さまの話をした。藤平太は、これは計略であるからと思って聞いていたが、ついに自分の問題となり真宗に帰依するようになった。おそらく創作の話でしょうが、味わい深い話です。
ひとりの人が真宗に帰依するまでには、色々な人や仏さまの計略があってのことです。
長男が京都の本願寺の学校へ入学したとき、一輪の念珠を買って与えました。念珠の尊さなど分かっているはずがありません。私は少し値の張る念珠を買って、その金額を言って渡しました。おそらく当初は念珠ではなく金額のほうを大切にするに違いないという目論見があったからです。しかし金額のほうを大切にしたとしても結果的に念珠を大切にしたことに結びつきます。
阿弥陀さまが金色の仏になりたいと願われたことも同様です。阿弥陀さまの願いの尊さに心が開かれていない間は、金色のほうを大切にして仏さまを相続していきます。しかしいつしか、金色よりも阿弥陀仏の願いが大切だったことに心が開かれていきます。
連如上人と藤平太の逸話は、私のことを言い当てている逸話なのではないでしょうか。
3項
仏事アラカルト
法事・法要のつとめ方・すすめ方
@ まずは日時と場所(自宅・お墓・ お寺)の決定をお寺と打ち合わせ る。
【自宅の場合】
お仏壇の掃除・準備
A 法事にあたっては、まずお仏壇の内外をきれいに掃除し、荘厳(おかざり)も、法事らしく整えます。
法事らしくとは、仏具を三具足(右からローソク立て、香炉、花瓶)から五具足(右から花瓶、ローソク立て、香炉、ローソク立て、花瓶)へ変更します。
次に、打敷(うちしき)を出し、上段の上卓や中段の前卓に敷きます。過去帳を仏壇の引きだしに保管してあるときなどは、これを取り出し、故人のところを開いて、仏壇の最下段右側に置きます。法名軸であれば、側面か見える場所にお掛けします。
お仏飯とお餅やお菓子、季節の果物などもお供えします。ただし、いくら故人の好物だったといっても、いわゆるナマグサものはお供えしません。
また、地方によっては参詣者がお供えを持ちより、そのお供え物をあとで「おさがり」として参詣者全員に配るという風習があります。そのような場合のお供えは、当然にたくさんになりますので仏壇の正面や左右にならべることになります。
そして焼香用の香(香盒にいれて)、香炉、焼香盆を用意します。焼香盆がないときには、小さ目のお盆等で代用しますので、お盆をご用意ください。
B 僧侶の座る場所を
僧侶は、読経中には仏壇の正面に座りますが、僧侶が来てまず座ってもらう仏壇に向かって左右どちらかの上座に別に用意します。ここで、お茶の接待をします。
C 親類参集(遅くても法要開始の十 五分前には参集)
D 僧侶の到着
E お茶の接待
F お仏壇の準備(点火、点燭、供香、 供飯ー施主が行います)
G 一同着座
H 施主の法要開始の挨拶(ただ今か ら釋○○の○忌法要を、○○寺ご住 職をお招きしてお勤めいたします)
I 一同合掌・念仏・礼拝
K 読経の開始
L 焼香(全員)
M 読経終了
N 一同合掌・念仏・礼拝
O ご法話
P 施主による法要終了の挨拶(僧侶 と参集者へ)
Q お斎(おとき)(会食)
4項 上段 集い案内
下段
住職雑感
● 3月5日、築地本願寺で講演会でした。私は三好春樹先生の付け足し講演です。先生1時間半、私は30分です。お礼もパート労働なので同様に差があるようでした。
三好さんは、老人介護のスペシャリストで、介護職の方が多く集まっていました。
先生の講演で面白いと思ったのは、「老人になって、寝たきりか、ボケか、どちらかしか選択の余地がない場合、どちらを選ぶか」という参加者への設問でした。私は寝たきりに手を上げましたが、参加者の8割方は、ボケに手を上げました。ご講師いわく
、これは全国的に同じ答えなのだそうです。その理由を手を上げた人に聞くと「ボケは周りが困るが自分は困らない。寝たきりは自分がつらい」とのことでした。すべてではないでしょうが、あり得ることです。
自分中心の世相がみえて面白く感じました。
また先の三好先生のご著書で面白いと思ったのは、「禿げている人ばボケない」という説です。理由は、若いときから自然に老いを禿げと共に受け入れているからとありました。
真偽のほどは定かでありませんが、ありえる話です。
● 各宗派の僧侶と会食をしたときのことです。話題が葬儀の話となり、奈良仏教の本山は、唐招提寺以外は葬儀をしないという話を聞きました。祈願寺なので、葬式を出すと祈願を申し出る人が減るとのこと。経典には、死は自然なことであると随所にあるのにです。 以上