いのちの学び160号(05.12月号)
1項 表紙と年回表
2項
念仏者 川上清吉の言葉
清風に続いて川上清吉師のことです。私の父は、島根で農業技術者として農協に勤めていましたが、退職し広島仏教学院へ入学、その三ヵ月後(昭和32年)、妻子を島根県において東京仏教学院(築地本願寺内)に転校しています。 広島の昔ながらの純朴な空気が、新しい時代の息吹きを感じている父には、物足りなかったのでしょう。
昭和三十二年十月二十九日付けの清吉師からの手紙には
【上京して勉強には恐れ入りました。まったく頭が下がります。しかし、真宗は京都のような静かな過去の町で過去の教学で勉強しても「大衆と共に救われていく」(あなたのことば)道は見つかりません。‥自分一人が救われるということと、「親鸞一人がため」というのは根本的に相違します。前者は「自利」であり、後者は主体性の自覚です】とあります。
「あなたのことば」とあることから、父が清吉師に認めた手紙の返信のようです。熱意に燃えた若き父が目に浮かびます。
その川上清吉師に「しぶ柿問答」という一文があります。師の等身大の信仰が伝わってくる文章です。長い文章ですがそのまま載せます。
《ある友人が、こんなことを、私にたずねた。
ー君は宗教に入ったということだが、全体、宗教というのは、何を求めるものなのか。
それに対して、私はこんな答えをした。―何かを求めて宗教に入ったかも知れないが、しかし、その「求める」ということの無くなるのが、それが宗教だということが、このごろわかって来た。
では、宗教は何の役に立つものなのかーと、その人はいう。
何の役に立つというようなことは、よう言わないが、その「役に立つ」という心が、消されてゆくのが、宗教だということは言っていいと思うーと答えた。
信仰というものは、何かありがたいものだと言うが、ほんとうか。―
そうだな。うそとも、ほんとうとも言えないが、しかしはっきり言っていいことは「ありがたい」という気持などを問題にしたり、追求したりしている間は、ほんものの信仰でないということだ。
信心というものは、苦しい時の慰めになるというようなものなのか。―
なるとも、ならぬとも、すぐには言えない。しかし、胸をやすめるつもりで、念仏を称えたりするのは、信心を手段にしているので、誰もが一番警戒しなければならない。あやまりだと思う。
仏の存在などということが、正直に信じられるのかね。―という突っこんだ言い方をしてきた。それで自分が信じるとか、信じないとかいうことが問題になるのは、信仰とか、まるで次元のちがった世界に居てのことだから、答えられないーと、私もはずむような気持ちになった。
それでは、仏というものは、存在するのかーという。
存在するーと、きっぱりと答えると、
何処にーと、追っかけるから、
その、君の「問。」を起こさせている力として存在しているのだーと言いはしたものの、現在の私としては少し、早すぎる言いぶりではないかしらと、ひそかに思った。
しかし、よく金ぴかの木像など、拝めるねー
うそでは、拝めない。
だけれど、私にはこんなふうに思えるのだ。前に置いて私が拝むものは、うしろにあって私を拝まさせているものだ。
外にあって、私が合掌するものは、内に来たって私を合掌させるものだ。》(以上)
「外にあって、私が合掌するものは、内に来たって私を合掌させるものだ」の言葉がひかります。
阿弥陀さまは、凡夫の私をして念仏を称えさせ、合掌させる働きそのものであるということです。
そんな信仰に生きる清吉師からの手紙に父はどれだて勇気づけられたことか。母と兄と私が、東京に呼び寄せられたのは、それから二年半後のことです。
*川上清吉(明治29〜昭和34年)
島根県に生まれ、佐賀師範学校教授、浜田第一高校校長、島根大学教授を務める。親鸞聖人の教えを現代人に紹介し、その弘通に身を勤める。若い時から短歌などの創作をし讃歌「芬陀利華」は現在でも歌われている。信仰の人として多くの人に影響を与えた。
著書「川上清吉選集」他
4項 集い案内
住職雑感
*「言葉に出遇う」ということがあります。言葉の持つ力というよりも、境遇や状況が幾十にも重なり、一つの言葉との出遇いによって、さなぎが蝶になるように、その人の人生が百八十度、方向を変えてしまうことです。
過般、練馬区の美術館で開催されていた「佐伯祐三展」への招待状が届きました。偶然、あるイベントで訪問した大阪・北区の「正徳寺」が、画家 佐伯祐三の生誕地で、そのご縁からの招待状でした。
作品展は、佐伯祐三の作品が美術学校時代から晩年まで時代順に一三〇点展示してあり、見ごたえがありました。
祐三はパリへ二度渡航しています。第一のパリ渡航は一九二四年(大正十三年)一月から一九二六年一月までの、約二年間の滞在です。若き祐三はパリへ行き、パリ郊外のオーヴェール・シュル・オワーズに画家モーリス・ド・ヴラマンクを訪ねます。そしてヴラマンクに持参した自信作『裸婦』を見せます。ヴラマンクは、その作品を見て「このアカデミックめ!」(伝統的、格式的)と一蹴します。この頃から佐伯の画風は変化し始めたといわれます。
この「このアカデミックめ!」の言葉との出遇いがなかったなら、三十歳という短い生涯の中で、佐伯祐三は自分の才能を開花させることがなかったかも知れません。
禅宗の言葉に「卒啄同時」(そったくどうじ)という語があります。 卒は、雛が孵化する時、殻を内側からつつくことです。「啄」は親鳥がそれを助けるべく外側から殻を突付きわることで、修行者の機が熟して、師匠のひと言によって覚りが開花することを表現した言葉です。
人生には一つの言葉によって、人生が一変することが確かにあります。それは言葉の持つ力というよりも、機が熟すという自分の内面の充実が九十九%重要なのだと思います。(卒は本来、口偏に卒です)
以上
今月の歌
甲斐和里子(かいわりこ)
明治元年〜昭和37年
*み仏のみ名なを称えるわが声は
わが声ながら尊かりけり
*み仏をよぶわが声は
み仏の
われをよびますみ声なりけり
*よしあしのいづれを多く
かたりしか
老いたるおのが舌にたづぬる
本願寺の援助を受けて京都高等女学校(現京都女学園)を設立し、生涯一人の女学校教師として学生の指導に当たった作者である。 そうした指導者なればこそ、一人の女性の教養は、その人の語る言葉に集約され、その教養の背後には、教養人として育てた多くの人の力があることに敏感であったのであろう。
「南無阿弥陀仏」と念仏申す背後にある如来を讃えた歌です。