いのちの学び160(10.1号
159号
1項     今月の歌

  この道は親鸞もゆき唯円も
  召されてゆきし
  われらゆかなん

  読みなれし聖教なるに
  読みゆけば
  新しく読むおどろきもあり

  梅原 真隆(うめはら しんりゅう)
       本願寺派僧侶。

2項 ミニ説法

私は雅楽をたしなみます。専門は龍笛です。2オクターブの音域を、音が自由自在行き交うイメージから、空に舞う龍のようだと龍笛と名がついたと聞きます。

 雅楽は、中国、朝鮮半島を経て日本へ定着して1400年、日本の風土に溶け込んでいます。ホテルで雅楽が流れていると、少し重たい感じがしますが、東儀秀樹さんの篳篥(ひちりき)のように単管演奏だと、風のようにさわやかです。
 
 このひちりきの特徴は、うつくしいゆらぎです。このゆらぎを塩梅(えんばい)といいます。ドレミという確定した音ではなくて、その間をカーブするように出る中間音のことです。

 雅楽は、日本人の特性をよくあらわしています。その特性とは雅楽の2つ特徴です。一つは不協和音を用いることです。ドとレの一度ちがう音を同時にだすことを不協和音といい長く聞いていると不快な気持ちになります。

 ところが雅楽の演奏では、特に龍笛とひりちきの二管の間であえて不協和をだします。その不協和音の違和感と次にくる協和音の心地よさが、メロデイーに重厚さを生み出し、ダイナミックな宇宙の摂理を表現します。

 笙(しょう)という竹で作ったパイプオルガン式の和音をだす楽器も、笙だけで不協和音を多用して面白いメロデイー音をつくります。

 この不協和音を取り込む考え方は、相反するものを利用する考え方です。日本料理や文化の中にも多く見られます。着物の帯びもその1つかも知れません。おびはベルトです。うしろで結ぶベルトは日本の帯だけでしょう。この帯びはうしろ姿の演出です。うしろ姿という無駄なものを生かしていく考え方から生まれた文化です。

 雅楽の特徴のもう一つは、雅楽のオーケストラにはマスターがいません。お互いがお互いの音を聞き会って楽曲していきます。マスターをたてる西洋音楽とマスターをたてない東洋音楽の相違は、西洋の一神教と東洋の多神教の風土のちがいが見事に音楽に取り込まれています。

 マスターを立てないという考え方は、懐石料理や談合?その他多くの場面で見受けられる日本人の精神風土です。
 ともに仏教の自己を主張しすぎないという無我の考え方に立脚したものです。 仏教ちょっと教えて

3項     (お焼香)

Q お焼香の回数は、1回が正式だと聞いていますが、回りの人々が3回していますと私だけ1回では粗末な気がして、つい3回してしまいます。それでもよろしいのでしょうね

A,^tあなたの所属する宗派によって、お焼香の回数は異なるようです。まずはハウツー的に形式をお伝えし、次に私の味わいをお伝えします。

浄土真宗だけでいえば、本願寺派は、頂かずに一回香をくべ、大谷派は、二回(但し代香の場合は一回)。 高田派は3回、興正派3回(但し1回でもよい)です。いずれも香をひたいに頂かずに焼香します。

 他宗で見ると、日蓮宗は、導師は三回、他は一回。曹洞宗は、一回目は頂き、二回目は頂かずの計二回。天台宗は、基本が一回で、二回、三回もよしとあります。

バラバラで統一にかけているようですが、これは焼香の回数は最重要ではないということを物語っています。例えれば、りんごを一つ供えるのがよいか、二つ供えるのがよいかの相違で、お供えすることが重要なのです。しかし、人間は形にこだわるので、大きな団体として、一つに形式を定めています。自分の所属する宗旨の作法で焼香するのが、焼香の作法です。

 次に私の味わいですが、焼香は数に意味がないことを、数の上で伝えるとしたら1回の焼香が自然です。2.3回と数を重ねると必ず、数に意味づけがされます。

 また過般、「浄土真宗ではお香をなぜ頂かないのか」と聞かれました。「なぜするのか」という質問が多い中、「なぜしないのか」は面白い質問でした。

 浄土真宗では、お焼香の折りお香を頂きません。しかしその他のことでは頂く場合があります。それは経本を開いたり袈裟類を着用する場合です。共に頂いてから身に添えます。ところがお焼香や花、仏飯類は頂かずに供えます。他宗の方が、なぜ香を頂くのかと言えば、心をこめるのです。真心を込めてお供えするのです。ところが浄土真宗は、私の心は煩悩に汚染されているとの自覚から心を込めることをしません。

 袈裟や経本は、仏の側に所属する類のものです。だから頂きます。本尊を奉るとき、仏をいただいて奉ります。これは心を込めるのではなく、尊敬の念から頂きます。
              以上

4項 上段 集い案内

下段

   住職雑感

* 体験学習で「私の墓誌」というものがあります。墓誌とは、墓地の敷地内に埋葬されている人のことを記録するあの墓誌です。「私の墓誌」とは、自分が埋葬されてある墓の墓誌に、一定時間内に自分のことを回想して、どんな人生であったか記す学習です。自分の生き方を見直す有効な学習法です。

 それと同様な体験学習に「余命3ヶ月」というものがあります。今、私は医師から「あなたは後余命3ヶ月です」と告げられた。その3ヶ月に何をするかを一定の時間内に回想し紙に記録します。その一連の作業を通して、自分自身を振り返るという学習です。

 この余命3ヶ月は、学習の一環ではなくても、寝る前に、たまに実行すると有意義です。

 では私なら何をするか。ある日考えました。結論は、あたりまえのことを、しっかりと行うしかないように思われます。朝起きて、正信偈を勤めて、いただいたご縁を感謝して行う。今と違う点は、今は、あたりまえのことをしっかりとできていないということです。

* 十月の法話会は、藤岡道夫先生です。山口からわざわざお出ましくださいます。いい話しですよ。ぜひ、お出かけください。

* 上記のとおり、仏事教室を開催しています。日ごろ疑問に思っていくことを糧として学びを深めませんか。参加者は少数ですので、参加者それぞれの自分の話しができます。2ヶ月に1度の集いです。  以上