1項 今月の歌
今月の歌
人間は
何十億いるのに
私とおなじ人間が
どこにもいないのは
フシギなことだ
この私のなかに
無限の世界があるのは
さらに
フシギなことだ
榎本栄一 明治36年〜平成9年
2項
ミニ説法
七月下旬、宗派の仕事で北陸へ出張しました。前日、宿泊して五箇山を観光しました。五箇山は世界遺産に登録されている場所でもあります。
五箇山はかつて本願寺領だった所で、赤尾谷、上梨谷、下梨谷、小谷、栂谷の五つの谷に散在する集落をまとめて「五箇谷間」といい、共に本願寺の念仏道場を中心に形成されている集落です。真宗中興の祖である蓮如上人も、幾度も五箇山に足を運んだと伝えられ、蓮如上人にまつわる伝説も伝わっています。
蓮如御一代聞書にも「蓮如上人、細々、御兄弟衆等に、御足をみせ候う。御わらじの緒、くい入り、きらりと御入り候う。「かように、京・田舎、御自身は、御辛労候いて、仏法を仰せひらかれ候う」由」とあります。お子さんたちに再々、わらじの食い入った痕を見せ、色々の人と仏教を語り合ったことを何度もお話しされたようです。当時、五箇山に人々は、上人のご逗留を、感激を持って喜んだことは想像にかたくありません。
信長の時代、越中をはじめ加賀・越前・美濃・飛騨・近江は本願寺の強力な地盤でした。強大な武力を背景に、着々と全国制覇をもくろむ信長にとって、最大にして最後の敵は、蓮如宗主以後、本山を大阪へ移した、浄土真宗の総本山石山本願寺でした。
1570年(元亀元年)9月、信長は石山本願寺に兵を進め、11年に及ぶ石山合戦が始まります。全山を信長の軍勢に取り囲まれた本願寺は、諸国の寺院・門徒に檄を飛ばして決起を呼びかけます。当時の越中でもこの檄に呼応し石山合戦に多数の農民がかけつけました。なかでも、五箇山の浄土真宗寺院・門徒は出陣しては大いに手柄をたてています。
この石山合戦に、紀州根来寺(岩出町)の僧兵が鉄砲を持参して本願寺側に加わり、信長軍と戦って威力を発揮しました。この根来寺の鉄砲は、1543年(天文12年)種子島に伝来された鉄砲を、根来寺の杉坊妙算が火薬の製法と共に本願寺に伝えたものです。
鉄砲の威力に自信を深めた本願寺は、北陸の軍備強化のため、金沢の尾山御坊へ鉄砲を送り、火薬を五箇山で製造するため、塩硝製造技術者を五箇山に派遣しました。また、僧を大阪堺に派遣し塩硝製造法を習得させ五箇山に広めました。
1572年(元亀3年)五箇山から石山本願寺へ運びこまれた火薬は実戦に用いられ、鉄砲を背景とした本願寺勢は、信長の天下統一の野望を打ち砕いたのです。五箇山は信長との抗戦における本願寺の懐刀だったのです。
そして歴史は信長との和睦、家康の東五条の地の寄進による東本願寺の別立と続いて行きます。
今、「南無阿弥陀仏」と念仏を称えながら五箇山を歩くと、信長の当時、本願寺を支えてくださった五箇山の人々の苦労や、五箇山の人たちに念仏を届けて下さった蓮如上人のご苦労が偲ばれ他人事でなくあり難く感じられたことでした。
3項
不親切?
私はお寺の住職なので毎朝お経を読みます。昔ながらの経本は、文字の羅列で段落も句読点もなく、高級な経典には仮名もふってありません。合理主義では、不親切、不明確以外の何者でもありません。
しかしプロ意識の高い人ほど、仮名のない、いわゆる白文のお経が好まれます。しかし現代は、どうもレベルの低い人に文化システムをあわせていく傾向があります。
手紙の文章で用いる句読点は、その文化のせめぎ合いの狭間にあります。年賀状や感謝状、卒業証書、会葬御礼といった文面の多くは、この句読点を用いずに間を取って言葉を羅列してあります。
江戸時代には句読点はありませんでした。近代国語辞書においては明治20年頃まで句読点の使い方が確立されず、その後、徐々に淘汰・定着・増加が行われていきました。そして句読点の使い方が定着したのは明治三九年、文部大臣官房図書課が『句読法案』を発表してからであるといわれています。
句読点は文章を読みやすくするもので、明治以前は、漢文が読めない人のために返り点(レ点)や訓点(読みの順序)や拝読点を付けることから生まれたものです。当初は、相手に敬意を表す手紙の文章に句読点を付けることはタブーとされていました。その名残で挨拶状や年賀状、卒業証書、表彰状、会葬御礼等には句読点つけないことが常識になっています。年賀状や招待状などに句読点を用いないのはそうした理由によります。
文章を誰でもわかりやすくも大切ですが、合理主義ではない格調の高さや思いを重視している句読点のない文面に日本の文化の香りを感じます。
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下段
住職雑感
* アルバイトで(?)、「真宗手紙の書き方実践講座」(四季社刊)を監修しました。ほとんど私が書きましたが、手紙の本を書いてみて一番わかったことは、私は手紙の書き方を知らなかったという事実です。
物事をよく知っていくと、自分がどれだけ知らなかったかが明かになります。
徳のある方が頭が低いのは、この道理によると思った次第です。
* お盆の記念品は、法話のCDです。私の法話ですが完成度はあまり高くありません。点数を付ければ五十点です。「不完全もまた良し」と、そのままプリントしました。
* 七月の福井で知ったことですが、あの丸岡城も、本願寺の勢力をつぶすために信長がつくったお城でした。 本願寺の昔の面影を懐かしんでいるだけでは、浄土真宗が過去の遺物になってしまいます。
* 六年間、役を務めた本願寺即如門主随行講師ですが、七月の大阪が最後でした。ご苦労様でした。自分へ。
* 大阪の朱鷺書房から「浄土真宗の常識」という本を頼まれ、執筆しています。この本は、来年のお盆の記念品にします。楽しみにしてください。
以上