2項 ミニ説法
某新聞に、おおばともみつ氏の新刊『世界ビジネスジョーク集』(中公新書ラクレ)の一節が引用されていました。
男がカバンに一万円札を山のように入れ、せっせと銀行の地下貸金庫に収めている。男に支店長が頼んだ。「貸金庫に入れても金利はつきませんよ。ぜひうちに預金して下さい」。男が答えた。「支店長、担保に何を出してくれるかね」。
この銀行の話しは、現代日本においてはジョークではなく、現実味を帯びています。国の補償という担保がなければ、だれも銀行に預金しません。銀行を信用するのではなく担保を信用して預金するのです。
不信の時代という言葉が頭をよぎります。食品の産地の偽りから、景気、人間関係まで、不信の嵐が舞っています。過去の経験も役に立たず、未来に希望がなく、不安の中にある。この現状は幽霊と似ています。
幽霊には三つの特徴があると聞きました。「髪が長い」「手を前にたれている」「足がない」ことです。
一つ目の「髪が長い」ことは、「昔は良かった」と後ろ髪が引かれることであり、過去へのとらわれです。年輩者が古き良き時代を持ち出し、現在の空白を埋めることがあります
が、未来に希望が見出せないと人は古き良き過去を持ち出します。
二つ目の前垂れの手は、未来への手だてがないこと、希望の喪失です。バンザイ・お手上げという言葉がありますが、バンザイもできないほど、打つ手がないと言うことでしょう。
三つ目の足がないことは、現実に立脚していないことを示しています。ふらふらと、周りの風に流されるという、大地に足をつけた主体的生き方ができない状態です。この三つの姿で、過去・現在・未来にわたって、希望と安心と喜びがないことが示さているようです。
日本がこの幽霊状態から脱出するためには、過去の経験によらない新しい叡智で、現実をふまえて未来を、まずは想像することが大切です。
日本はともかくとして、私自身はいかがでしょうか。幽霊状態でない、立脚地に立っているでしょうか。そのためには自分の欲望をかなえるための宗教ではなく、自分がどのような状態であっても、生きる意味と希望を与えてくれる宗教を持つことが大切です。
親鸞聖人は「心を仏智に樹て」を、仏の智慧をより所とせよと言われます。「樹」は、樹木の樹で、植え替えることです。他人事でなく、自分のこととして押し頂くこの頃です。
3項 今月の詩
〈高原の陸地には蓮華を生ぜず。
卑湿の汚泥にいまし蓮華を生ず〉と。
これは凡夫、煩悩の泥の中にありて、
菩薩のために開導せられて、よく
仏の正覚の華を生ずるに喩ふ
親鸞聖人・顕浄土真実教行証文類
高校でも大学でも運動選手として活躍した彼は、右足骨肉腫の告知を受けて2週間後、脚の上部から脚を切断した。彼の怒りは強烈で、学校をやめ、大酒を飲み、自滅的な行動に向かった。
ある医師と出会い、画用紙に自分の身体のイメージを書くことを進められる。青年は乱暴に輪郭だけの花瓶をかき、中央に深いひびを描き入れた。歯ぎしりをしながら、紙が破けるほど力を入れて、黒いクレヨンでひびの
上を何度もなぞった。目には怒りの涙を浮かべていたという。
その後青年は、「心の傷がだれにも理解されていない」という思いから、外科病棟に入院中の、彼と同じような問題をかかえた若者を訪ねていくようになった。
21才で両方の乳房を手術で切除したある女性を訪ねた。女性は深い鬱状態で目を閉じベットに横たわり、彼の方を見ることもこばんだ。青年は今までの経験と知恵を絞り、身体の形が変わってしまった者同士でしか言えないことも言葉にし、冗談を言い、ついに腹を立てたのに、いっこうに反応がなかった。
ラジオからは静かなロックミュージックが流れていた。彼は立ち上がり、義足を外すと床にどさっと落とした。はっとした女性は彼を見る。彼は声を挙げ笑いながら音楽に合わせてはね回った。彼女も笑いだし「あなたが踊れるのなら私だって歌えるはずよね」といった。まもなく二人で入院中の患者さんを一緒に訪ねるようになったという。
最初のひび割れの絵を描いて1年後、再びその絵に向き合った。彼はその絵を手に取り、「これまだ描き終わってないんだ」と言うと、黄色いクレヨンを選びとり、花瓶のひびから、紙の端まで放射線状の線を書き込んでいった。太い黄色い線で。笑いながらひびに指を当て静かに言った。「ここから光が差し込んでくるんだ」。
(「失われた物語を求めてーキッチンテーブルの知恵」レイチェル・ナオミ・リーメン著 中央公論社刊より)
4項 集い案内
4項 通信
● ロシアの自然を雄大に描いた「デルスウザーラ」は、黒澤明監督1975の作品です。モスクワ映画祭金賞・アカデミー賞外国語映画賞を受賞しています。
アルセーニエフの同名小説の映画化で、ロシアの山中を行軍する兵士の道案内を仕事とするデルスの野生的な判断、例えば、兵士が撃った銃声の響きで大雨を予測するといった作品です。
私は、28年前この映画を見て、記憶している一場面があります。主人公が、町に出て、家庭に水を売る人に遭遇します。「水は自然のもの」と、水を売ることに抵抗する場面でした。
私も、当時、欧米では水がお金になると知識的には知っていましたが、現代のように実際水が、石油以上の値が付くとは想像だにもしなかった時代です。
最近では、水の売買は当たり前です。都会では、10分千円で空気が売られていると聞きます。もちろん濃度の高い空気ですが。
昔身の回りの当たり前の様に普遍していたものが価値を持って売買される時代になりました。
数年前、萩原浩著「母恋旅烏」という小説を読んだことがあります。レンタル家族派遣業の話で、家族愛を売るという小説でした。確かに愛情も買う時代になっています。
太陽の光が売られ、福祉という愛を売るサービスが流行り、何でもお金に換算される時代となりました。逆に言えば、「当たり前」と思っているものをもっと見直さなければならない時代だということです。
「無駄にするのが一番もったいない資源は石油でも水でもなく、熱帯雨林でもない。それは人間の能力だ」とD・H・グロバークは語ります。
最も身近で、最も当たり前の人。自分自身をもっともっと光を当てていく必要があるようです。
合掌