ミニ説法

 某新聞の投書欄表題に「命の洗濯」という言葉があった。何年ぶりに触れた言葉だろうかと、その言葉の懐かしさに、しばし目を止めました。

 投書の内容は、長野の善光寺参りに行って命の洗濯をしたというものでした。自分を日常とまったく異なる空間に置き、まったく異なる体験のひと時の中に、日常の自分を思う。そんな経験の中に「命の洗濯」という思いが成立するのかも知れません。巡礼や古仏巡りは、この「命の洗濯」の旅なのでしょう。

 現代人は知性を信仰していると言っても過言ではありません。福沢諭吉(明治時代の啓蒙家)の「福翁自伝」に次のようは記述があります。

 諭吉は、13才から15才くらいの頃、神罰なんてないことを確かめるために、色々な実験をしています。神様のお札をトイレに持っていき踏みつけてみたり、お稲荷様のやしろからご神体のフダを盗み出して捨てたり、ご神体の石を、別の石にすり替えたりです。ご神体がなくなっていることを知らずにお祭りをしている人を見て、「馬鹿め、オレの入れて置いた石に御神酒をあげて拝んでいるとは面白い」と言った具合です。

 子どものすることだから、その行為は許します。問題は福沢諭吉が、
大人になっても、その行為を自慢し、近代的合理主義者だと自認しているところです。私には、この行為は近代的ゴウマン主義者に思えるのですが。

 人が大切にしている物や事を
、自分の知性でばっさり切り捨てる。ここに知性の奢りがあり、野蛮さを感じます。 人の気持ちを大切にするという思いやりの欠如です。命の洗濯は、自分の気持ちの部分、自分を思いやる心をリフレッシュさせる行為であり、命の洗濯の言葉には、自分の知性にこだわらない大らかさがあります。
浄土真宗の開祖親鸞聖人は、自らを「煩悩具足の凡夫」といわれました。凡夫とは「人間は知性だけでは割り切れないものを抱えている」と言うことでもあります。
 その凡夫の私を、評価することなく、思いやり(慈しみ)をもって、こころを寄せて下さっているのが阿弥陀仏です。


今月の詩

そこに山があるからといって
いつでも見えるわけじゃあない
高い山ほど雲に隠れて
麓の人には見えないものだ
             高い山ほど・松居桃樓(マツイトオル)

川原啓美(愛知国際病院 ホスピスの理事長)の1976年、ネパールでの体験だそうだ。
 皮膚がんが骨まで浸食していた26才の女性に告げた。「今足を切れば、命は助かるから足を切除しましょう」。女性「それは困るんです。私の子供はまだ小さい。上が6才でみな小さいので私の代わりに働くことは出来ない。だから私はどうしても2本の足がいるんです」。川原「いまの傷の所だけとっても、亦かならず同じ物が出来る。そして他の部分にも出来る。そしてあなたは命を失うことになるんですよ。だから右の足を切除しなければ貴方は生き残ることが出来ないのです」。女性「私が死ぬということは悲しいことです。けれども仕方ありません。それは1つの解決かも知れません。というのはもし私が死んでしまえば、夫はまた新しい奥さんをもらうでしょうし、子供たちも新しいお母さんに来てもらえる。そして、新しい奥さんは私の子供たちを育て夫を助けることができます。しけどももし私が足を切られて、ただ寝ていたらどうなるでしょう。我が家は全滅するかも知れません。そんなことは私には出来ません」。

 川原さんは、「自分は家族のために仮に命が縮めてもかまわない。家族のために生きられるだけ生きて死んでいくんだ」ということ彼女の愛の言葉に、それまで自分は「気の毒なネパールン人たちを助けてあげる」という姿勢だったが、この人と出会って、この人の方が自分より立派な人間なんじゃないかと思わざるを得なかったといいます。

 どうも尊い人は、身近におられるようです。濁った私の目にはそれが見えなののだと思います。


通信

○ 国立博物館で「西本願寺展」は15万人の入館者で閉じました。直前に開催された「日蓮上人展」もやはり、15万人。
 宗派では、なんとかこの数字を越そうと頑張っていました。宗派はひと安心と言ったところでした。

○ 大谷光真ご門主が、角川書店から本を出版されました。一般書店からの発行は初めてのようです。これも宗派では、何とかベストセラーにしようと気合いを入れています。4月末発刊で、1週間で3万部売れたそうです。

大谷光真著
あした こうがん
 朝には 紅顔ありて

角川書店刊
   定価1200円(税別)
全国書店でお求めになれます

○ 西方寺の中国旅行は新種の肺炎流行のため中止となりました。また明年計画します。

○ 過般、ある会報に、医師である駒沢勝先生の講演が紹介されていました。そのまま引きます。

【私が勤めていた病院には、いろいろな状態の赤ちゃんが入院してきました。著しい奇形を持った子供が入院してくると、心ある看護婦さんは「この子はなにも見せ物ではないのだから、他のおじさんや面会に来る他の人に見られないようにしよう」と、思いやりの心を働かせてくれます。一見優しいのでありますが、その思いやりの元はと言えば、「この子はひどい奇形のある醜い子だ」という軽蔑です。看護婦さんを非難しているのではありませんが、事実としてはそうです。… 一見優しいようでありますが、実は軽蔑から始まっているのです。「思いやりも心の狭さ」と私は言うのです】
「思いやりとは何か」考えさせられる言葉です。   ナモアミダ

いのちの学び144号

143号

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