西原かくれんぼ 07.8月
8.23 がん患者・家族語らいの会の編集後記7.8月号をアップしました。先輩から手紙が来ました。手紙の最後に「大遠忌期して何か著しく期待するものは何ですか?」とありました。指摘されてこうした視点(期待)は自分の中にないことを知りました。こうしたイベントは、いつも自分のそばを通り過ぎていくもので、問題意識を持つことなく接してきました。まずはそのことが問われなければなりません。
組巡教でご一緒した折に、ご門主が総長に立ち話で「20年後の宗門のありようをどう考えておられますか」とお聞きになったとのお言葉でしたが、そのことがしっかりと描ききれているかが重要です。
やは浄土真宗が真実の宗教として、一般民衆の手に、無垢のまま伝わる、そのための人材とシステム、そしてソフトの構築でしょう。ビハーラはその中で、ソフトを作ろうとしています。いつまでソフト作りに時間をかけているんだと言う心の声が聞こえてきます。
8、22 この20日に「親鸞物語ー泥中の蓮花」が発売されました。道元との会話は、あとがきにその可能性を記してあります。文中、明恵上人と会話していますが、歴史的事実としてのその可能性は下記の通りです。
明恵上人については、書中にありますように親鸞聖人、34歳の折、九条殿において「建永元(一二〇六)年、十一月二十日より二十六日まで九条殿に招かれ「宝楼閣法」(ほうろうかくほう)の修法」しています。その直後の11月と12月の夢に兼実をはじめ九条家の人々が登場しています。九条殿より、その足で後鳥羽院より賜った栂尾に居を移しています。また翌年秋、東大寺尊勝院学頭の院宣を受けています。明恵上人は、すでに時の人であり、京都では清僧として高名であったと思われます。
かたや親鸞聖人も、法然然上人がこの年(1206)の7月頃より兼実が住む月輪殿に隣接する小松殿を布教の拠点をしていたことから、その場所に親しく通われたいたことが想像できます。隣接する同じ場所、同じ時間に両氏がいたことになります。
また親鸞聖人の九条家との関係は、恵信尼公の父、三善為則が九条家の家司(けいし・家老職)であったこと、また法然上人と兼実公との関係から、兼実公とは、面識があったものと思われ、明恵の滞在を知って訪ねることも可能な状況にありました。
訪ねる動機付けー明恵上人は、法然上人に好意的でありましたが、選択集において菩提心否定を知って、『摧邪輪(ざいじゃりん)』を著し、親鸞聖人は本典において『摧邪輪』を意識して「横超の菩提心」を発表しました。親鸞聖人において、明恵上人がいつから視野にあったといえば、親鸞聖人の吉水時代に、明恵33歳の折に2度目のインド渡航を断念し、釈尊へ帰れという仏教復興の戒律を重んじる清僧として名を馳せていました。その明恵の存在は、一切群生海が阿弥陀如来から救われなければならない存在であるという理解から外れる清僧であり、もし戒律によって救われる人があれば、弥陀の救いの絶対性は不完全となります。「明恵上人とは何者か」、その答えが消息にある「聖道といふは、すでに仏に成りたまへる人の、われらがこころをすすめんがために、仏心宗・真言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗至極の教なり。仏心宗といふは、この世にひろまる禅宗これなり。また法相宗・成実宗・倶舎宗等の権教、小乗等の教なり。これみな聖道門なり。権教といふは、すなはちすでに仏に成りたまへる仏・菩薩の、かりにさまざまの形をあらはしてすすめたまふがゆゑに権といふなり。」という理解になったのではないかと想像します。
親鸞聖人は、場所的にも時間的にも近くにいたので、お会いしても不自然ではないとの思いから会話を成立させました。
同様に文覚師とも、文中で会話しています。歴史的事実は?
親鸞聖人正統伝等に、叡山時代、顕密両教を修め、色々な僧を訪ねているとあるので、そのお一人に文覚師があっても良いと思いました。報恩講私記に「顕密両宗の教法を習学す」とあり、当時、歴史に残る名だたる僧は、そう多くなく、また現在のように宗派意識もない時代ゆえ、色々な方々を訪ねたであろうと思われます。文覚師と親鸞聖人の接点があるとすれば、両人とも時と場所が重なるあの場所を択んだ訳です。
もう少し文覚師については知らべなかればいけないと思い、今日、文覚師についての本を注文しました。
7.14 いのちの学び170号 および171号をアップします。親鸞物語ー泥中の蓮花ー校正を送りました。来月10日には書店に並びます。あまり売れるとは思われませんが?価格は1500円の予定です。