西原つれづれ07.1月
07.01
01.26 いのちの学び169号アップしました。がん患者家族の語らいの会の会報に編集後期を執筆していますが、この項も何もないと寂しいので、転記しておきます。

07年2月号

【編集後記】● 大乗12月号(18.12・本願寺派発行)のご門主の法話が掲載されていました。いわく「浄土真宗ではどうして修行をしないのか‥難しい修行をしなくても、人生には難問がいくつもあるからだと味わえます」とあります。宗派人の発言は、聖道門の修行を否定する内容が多い中、人生の難問と結びつけて修行を肯定した門主の言葉に新鮮な印象を持ちました。聖道門の修行は、自我の危機を作為的に作り出し、自我の分別を超えた広やかな世界へ己を開放する営みです。この自我の危機は、修行に拠らなくても失恋や病気など、日常的に苦しみ(思い通りにならない)として体験します。しかし失恋や病気は、体験しない人もいるし、自我の危機も「自我が傷つく」程度で終結することもあります。

●ところが死に直面して起こる自我の危機は、すべての人が体験する普遍性があり、「自我が傷つく」程度ではなく、自我が根本的に回心(質的転換)せざるを得ない状況に追い込まれます。

● ビハーラが自我の危機(苦悩)に寄り添い、自我を超える道を共に歩む活動であるとすれば、活動の対象は、失恋でも病でも老いでもよいのだと思います。また実際にビハーラ活動の大多数が老人を対象にした活動に始終しています。しかし自我の危機がもっとも顕著な形で露出するものは死なのです。東京ビハーラは、がん患者という死と関わりの深い一点に目標を定め活動を展開している理由がここにあります。自我の危機は、自我を中心に構築された考え方から、阿弥陀さまを中心とした考え方へと移行する機縁でもあるのです。

●標記のビハーラ講座では、浄土真宗の教えの上からビハーラ理念を見つめ直したい、そんな思いから講座を開催します。この講座が、新しいビハーラ活動の再出発点になればと考えております。(西原)

07.1月号

【編集後記】● 12月例会のゲスト講師であった押川真喜子さんは、「在宅で死ぬということ」(文春文庫刊)の執筆者でもあります。講演の中で「小児ガンの経験をもつ両親は、お子さんが逝去した後、離婚率が高い」と言われていました。小児ガンという極限の危機の中で、平和であればさらけ出す必要のないお互いの価値観の相違を見せ付けられるからです。お互いの価値観の違いを包容してくれる大きないのちと言った生命観の不在が新しい不幸を生み出していくようです。と同時に小児ガンの経験は両親にとってもトランスホーメーション(質的転換)という成長の場でもあります。スピリチュアルペインという苦しみは、苦しみとして顕在化している自我の疼きでもあるからです。その自我の疼きを通して、自我を超えた考え方に出会っていく、ここにビハーラがあります。

●ビハーラを仏教辞典で引くと「心身をゆだねる」とあります。ビハーラ活動は、どのような状態であっても心身をゆだねることのできる考え方や場、教えを大切にしていく活動です。

●宗派の冊子に京都女子大の徳永一道教授の文がありました。【あるとき、宗祖の「信心」は弥陀の大悲に自らのすべてを「ゆだねる」だと話したら、ドイツの女性から「なぜ信ずることがゆだねることなのか?」と訊かれたことがある。答えにつまった私は、彼女が抱いているマリアという赤ちゃんがスヤスヤと眠っていることに気づいて、何気なく「マリアに訊いてみたら?」と言ったら、彼女はそのしぐさと表情で、私が言ったことを十分に理解したことを示した。マリアが何の心配もなく眠っていられたのは、母親である彼女の胸に抱かれていたからである】。信とはゆだねることです。

●阿弥陀仏に私のすべてをゆだねるとは、わが身の上にこれから起こるであろう
無限の可能性を受け入れていくことであり、私が、その瞬間、瞬間を十分に経験することでもあります。(西原)

06.12月号

【編集後記】湯河原への秋の旅行、20名弱のこじんまりとしたグループでしたが、その分、ゆったりとした旅でした。朝食のとき同席したKさんが、「嫌な人に対したとき、その人を観音さまだと思ってみる」と話してくれました。ある朝私も、布団の中で都合の悪い人を思い浮かべてやってみました。短い疑似体験でしたが、観音さまと思っただけで、自分のおごりや作為といったよからぬものが見えてきました。

★映画館で光の筋の中に無数の粒子(ごみ)が見える現象をチンダル現象といいます。粒子に反射して光が姿をあらわし、その光によって粒子が浮かび上がってくる現象です。

★相手を観音さまと思ったら、自分のおごりが見えてきたことはチンダル現象に似ていると思いました。

★阿弥陀さまの浄土は「これより十万億仏土を過ぎた」(『阿弥陀経』)処にあると説かれています。その距離を計算した人がありますが、浄土は場所的概念ではないので距離を計ることは無意味です。

★『梵網経』によるとビルシャナ仏の蓮華には千の葉があり、その一つ一つの葉に百億の国があって、百億の一つ一つの国に釈迦如来と同等の仏様がいて教化をしているとあります。千かける百億で十万億仏土です。これは釈迦如来の教化の行き届く世界なのだそうです。その釈迦如来の教化に漏れた人々の希望の光になる。それが「十万億仏土を過ぎる」との表現の内容です。

★浄土は明日と似ています。「明日はどこにあるか」といって、タンスの後ろを探す人はいません。明日は場所の概念ではなく、まだ到来していない今のことです。浄土も同じことです。私の煩悩の闇がなくなったとき開かれていく今のことです。

★親鸞聖人は弥陀の浄土を「無量光明土」と讃えておられます。浄土とは光の世界だというのです。無量ですから、如来のましまさないところはないと語られるのです。

★その浄土の光が、観音さまやお経の言葉、都合の悪い人や都合の悪いこと等々の現象となって私の煩悩の闇に降り注いでいる。

★そう考えると、己の愚かさを直視することが尊い営みのように思われてきます。

★当会世話人(副会長)でありました景方さんが、諸般の理由で世話人を止めました。次期役員改選までの任期中、西原が副会長代行を務めます。(西原)


01.01 謹賀新年 
早朝、6時、三朝の日の正信偈、6時53分、手が沼にて、参詣者と共に初日の出の見る。少しもやらしきものがあったので、日輪を直視することが出来ました。そこで皆さんとお別れして、徒歩にて丁度1時間で帰院。我が家恒例の正月元旦の朝風呂、そしてお念仏、なんと贅沢な元旦であったことか。

年賀状はすべて宛名とも印刷で済ませました。一昨年出版した「真宗の手紙書き方」(四季社刊)を書いて、学んだことは、「謹賀新年」ということです。以下はその本のポイント部分です。

ポイント

*句読点を用いない。

 お慶びー念仏に薫る現在を慶ぶこと。

一念多念証文」【慶はうべきことをえてのちによろこぶこころなり、楽はたのしむこころなり】

「同」【「歓」は身をよろこばしむるなり、
「喜」はこころによろこばしむるなり。】

*真宗では「お祈り」という言葉は使わない。「念じる」を用いる。

「賀正」「迎春」「賀春」などは、相手に敬意を表す言葉ではないので、目上の方や、改まっ  た場合は、「謹賀新年」「恭賀新年」を用いる。



 * 目上の方には「厚誼」「交誼」という言葉を使うのは失礼とされているので「厚情」を使います。  誼が親しい関係をしめした言葉なので。


 「ご多幸を」の言葉も、念仏者は、幸不幸共に仏縁として転悪成善の利益をこうむる者なの  で使用しない。