西原つれづれ06.7
06.6
7.24 暇なのか本を読む時間が多くあります。しかし新しい驚きや発見につながる出会いはそうありません。ただアイデンティテーという概念や言葉を生み出したH・エリクソンの考え方は浄土真宗につながるものがあるようです。

エリクソンは人間の心の発達を解明された方です。

乳児期(02才)に基本的信頼を学ぶ。それは親のあるがままの肯定によって育まれるといいます。その基本的な信頼があってこそ、自分を信ずることができる。そして自分を信ずることから希望をもつことが可能となる。


ちなみに幼児期(24才)では自律(セルフコントロール)としつけ(トイレなど)を習得する。この自律が育ってこそ、自分を律することが可能となるとします。

この乳児期の基本的信頼は、あるがままの受容であり、あるがままの受容の中に自信が生まれ希望をもつことが可能となる。この自信と希望は、自分の可能性を信ずることができると言い換えてもよいでしょう。

逆から言えば自分の可能性を信ずることは、あるがままの受容の体験から生まれるということでもあります。

終末期の状況下で、肉体的な可能性が閉ざされた中で、自分の可能性を信ずることができる。それは、どのような自分であっても、あるがままの自分を受容してくれるものがあるという体験の中に可能となると言い換えてもいいように思われます。

幼児期の基本的信頼と異なることは、自分の知性や力量への断念を伴うということです。自分の知性や力量への断念は、そのままが自分を絶対的に受容してくれるものへ信であるということです。真宗の「二種深信」(救われようのない自分が救われていく)がエリクソンの基本的信頼とどうもつながるように思います。

7.14 清風62号アップしました。毎月第2土曜日の「がん患者・家族語らいの会」は、1988年から続けてきましたが、その会継続の主幹とも言うべき種村健二朗先生が世話人を降りられた。私は感謝しても感謝しつくせないほどの教えを頂いた。

8日の会では、ある患者(女性)が、直腸がんから人工肛門をつけて1年半になる。その間の驚きや不安、情けない自分のありようが吐露された。悩みを語る中で人工肛門をつけていることから来る惨めさを「自分でも命があったのだから感謝しなければ」と、揺れ動く思いが語られた。私はその言葉を聞きながら、心の中にある違和感を感じました。それはその方が惨めさを無理に押さえ込もうとすることへの不信でした。

またその方がある会に参加したときのことをお話になりました。その方と同じ病気を病んで亡くなった連れ合いの方が参加していて、死別の悲しみを告げられた。そのとき、その方は同じ病気にかかってかつ生きているので申し訳ないという思いが起こり、自分も同じ病気であると言えなかった。そんな体験が語られた。

この話しを聞きながら、私は違和感ではなくもっと強い「何か問題がある」と思ったので、「生きていることが申し訳けない」と思う背後になる闇は何だろうと考えていると、司会の世話人が「それについて西原さんはどう思いますか」と振ってくれた。司会者も問題ありと思ったのです。

私はおぼつかない言葉で、「あなたは死の方向へ逝った人、私は生の側にいる人という思いがあること。どちらに行っても同じく死んでいくのだから、申し訳ないと思う必要はないのではないか」と返答しました。

そして会が終わって反省会です。私は先の違和感と「あなたは死の側へ行った人…」を持ち出して、問題提議をすると、先生いわく「その方の意識の底に、生きていることの優越感がある」と指摘して、その優越感が、人工肛門の自分に対して惨めさを生み出しているとのことでした。

いのちを物質的に整っていることをもって善しとする考え方が、苦しみの原因だということです。

毎回毎回、こうした気づき与えてくれました。もっと詳しくかけないのが残念ですが、会で得たことのおすそ分けです。

7.6 がん患者・家族語らいの会 通信52号掲載原稿「歌と物語ーセルフ・ヒーリングー」をアップします。今までの原稿をパッチワークしたものです。


7.1 1日からホームページを書くことに、新鮮さを感じています。6月にあるお宅に行って法事を勤めました。私と同年輩の施主で、仏間での会話の中で「亡くなった母は今、ここにいるんですよね」といわれます。私は、返答に少し困って、そのとき、自分の中にあるもやもやを感じとりました。

そのもやもやは、その方がどのような意味で「今ここ」を捕らえているかという不信です。もう少しその不信を言葉にすると、「今この部屋に、霊的な状態でいる」と思っているのではないかという不信です。

しかし少しして私の誤りに気づきました。時が100万年経過しようが、常に「いまここ」しか私の生きている場所はない。その「いまここ」をはずして、出会うべきときはないということです。その方が霊的な存在を想像していても「いまここ」でいいわけです。「今ここ」しかないのですから。


今日の読売夕刊に「豪華弁当が大ヒット」と新幹線の駅弁のことが紹介されていました。2000円や3800円の豪華駅弁が売れているとの記事です。

ささやかな庶民の楽しみととるか、もっと深く社会人類学的な視点で捉えるか、これは活字になると思い、ここに書いています。世の中、不景気といっても、高級品グッズ(ブランド品)がやたらに売れたりしています。この現象を孤立している人間の心理状態のあらわれととらえる人もいます。海におぼれて何かにすがっていないと安心できない心理です。確かな自分の実感がなく、仮想な確かさであるブランドを持つことによって精神状態を保つ心理です。

豪華弁当はブランド品とは違うかもしれませんが、仕事も順調、家族も幸せいっぱい、生きがいもある人は、豪華弁当で自分を満たす必要はありません。これは私の仮説です。

庶民のささやかな贅沢かも知れませんが、それが際立って売れているとなると、何かあるはずです。