6.26 勇気を与えてくれる石の話
外国のある神父が病気の子どもの伝える話だという。その神父は海岸を犬と散歩をしたときなど波にあらわれた石を拾って、その石を病気の子どもに与え石の話を聞くように伝えるといいます。
「地震や激しい嵐など、いろいろなことがあってこの石は海岸にたどり着いた。この石は元は、もっと大きくてゴツゴツしていて、ぜんぜん違った形をしていた。この海岸にたどる着くまで、散々痛い目やつらいことにであって、今はすっかり丸い形になって、君の手の中にすっぽりと入る大きさになった。どれだけ長い時間がかかったか、この石から感じてごらん。でもまだこの石の旅は終わっていない。私が海岸にたどり着く途中の石を拾って、この石に君がつらい時期を乗り越えるのを助けてやってくれと頼んだから」
機会があったら病気の子どもに伝えてみようと、ここに書留めました。
6.24
6月15日に「自殺対策基本法」が成立した。自殺を個人の問題として捉えるのではなく、社会の問題、社会の責任として考えようとする法律です。
社会の問題とする考え方に、社会システムの問題とする考え方と、日本固有の江戸時代に代表される自殺(自決)を容認する風土の問題だとする考え方があるようです。
それと自殺を生み出す要因として人間の孤独化が挙げられたりします。
拙い私の考えは、現代の日本が、精神的にも社会のシステム的にも、今まで経験したことのない転換期に来ているということです。
どんな転換期かといえば、近年民主主義の本流は自己決定の尊重です。そのための情報公開であり、個人情報の尊重です。この自己決定の尊重は、自分のことは自分で決めるという、社会を個人というバラバラにする考え方です。この考え方に、精神の領域を大切にしたいと考える人々も、社会システムを大切にしたいと考える人たちも対応し切れていない現状があります。
その現象として自殺をはじめとする問題や、社会においてはホリエモンや村上問題が生じている。全体という概念の中で個人をどう考えるのかが揺れ動いている。それが現代です。
そこで教育現場では愛国心という全体概念の尊重を持ち出し、株式関連ではルールの背後にある個人の利益より優先される社会的な文化を守ろうと規制を加えつつある。
ではお寺では何をするのか?このあたりを今後の寺院活動の視野に入れていくべきでしょう。
6.20 いのちの学び165号アップしました。
6.9
先月25日、日帰りで富山へ行きました。ビハーラの総会で話をとの用件でした。質疑応答の中で、あるご婦人が「私がビハーラをしてほしい」と、1年前のある出来事を話されました。詳細は書けませんが、そのときの悔しさを涙を流して話されました。
その対処を求められたので、「わら人形を買ってきて釘を打つべし」と真剣に答えました。どうもお念仏を聴聞した人は、「自分はいい人間であるべし」という刷り込みがされているように思いました。
念仏を称えながらわら人形に釘を打つ。これでいいのだと思います。以前、友人のkさんが、法話会で拍手が出て困ったと聞いたときも、私は「内(当寺)は、これよ」と言って、念仏を称えながら拍手のまねをしたことがあります。真宗が形式化して力を失ってきているようです。
富山の別院で帰り際、質問されたご婦人にお別れを告げると、「悔しさを言葉にできたことがよかったです」と笑っていました。
6.9
自殺者が3万人を越えた年が続き、自殺防止法案提出に向けての署名運動が盛んにマスコミに登場しています。重たい問題なので、自分の中にある考えを整理しなければと思いつつ、今日に至りました。
というのは、仏教タイムス社からの依頼で3月16日付にて「安楽死法案」に関するコメントを書きました。そうすると現在、片や死ぬ権利を認めろという「安楽死法案」が提出されつつあり、片や死ぬのは駄目という「自殺防止法案」が同時進行していることになります。
自殺防止には、家族の悲痛が挙がられていますが、このことは逆から言えば、家族が同意すればよいということでもあります。それは2月ころの富山県で起こった安楽死事件でも、家族の同意があったかどうかが論点でした。もっと言えば、
現在、おおよそすべての緩和ケア病棟で(157施設・(2982床)で行われているセデーション(意識レベルを落とすことによって苦痛を取る、そしてそのまま死去)は、家族の同意のもとに行われている安楽死です。(医療者は、苦痛の除去という免罪符を盾に安楽死と異なるといっていますが)
以上のことから、自殺防止の論点は残された家族の悲嘆ではなく自殺そのものの否定を論点とすべきだと思います。
「自殺防止」「安楽死」「セデーション」の3つをキーポイントは「苦しみ」です。苦しみには意味がないという考え方です。仏教的視点は、「人は苦しみを通してトランスホーメーメーション(質的な転換)という成長を手に入れる」ということです。苦しみを見つめる運動、これが仏教者として成しうる自殺防止運動だと思います。
4月に、仏教タイムスから頼まれた原稿も掲載しておきます。