西原つれづれ06.1月
05.12
1.29
22日、当寺において、仏教講演会が開催された。世話人の一人が、Eさんが病院に入院されたと教えてくれた。Eさんは、西方寺きっての篤信者でご法義を喜んでおられる方です。何度か入退院を繰り返し、いよいよかという状況にあった。その晩、病床を訪ねると、いろいろな話しをしてくださった。しかしほとんど聞き取れない声で、2度ほど水を含ませてあげた。

帰り際に、これが最後だとは思わなかったが、「お浄土のほうがにぎやかですよ。あとから私も必ず行きます」といってお別れした。その翌々日、午後7時、病床を訪ねると、病室にいないので、個室に移ったかと思って、看護師に聞くと、ただいま家族に連れられて死亡退院したとここと。

そして金曜日のお通夜です。当寺世話人のYさんが会食の席でお隣に座られた。色々な会話の中で、「必ず私も行きます」の話をすると、広島弁で「じゅーしょく、私のときも、それやってくださ」といわれる。私は「じょあー、もし私のほうが、早かったら、Yさん、私の枕元でそれやってください」と商談が成立。

寺に帰って坊守にそのことを、「じゃー、臨終とときに、Yさんに声をかけないと」という。私は「Yさん、それできるかなー」。そんな会話で少し盛り上がりました。

1.20
3月5日(日)午後3時から、首都圏センター主催で三好春樹さんの講演会が開かれれます。この方は、老人介護のスペシャリストのようです。

首都圏センターが何を思って、三好さんの講演会を企画したかは定かでありませんが、私にもまとめで30分ビハーラについて話せとのこと。

三好さんの考え方と私の描くビハーラの考え方は似ているところがあります。
まずホームページから三好さんの考え方を紹介します。

インタビュー:三好春樹氏に聞く・・・
「私はよく、老人を魚に例える。在宅の老人は海の魚、施設の老人はいけすの魚、病院の老人はまな板の上の魚だ。老人問題は、人間関係が培われる生活の大海原から遠くなる程、出口がなくなる。つまり老人問題は、老人の問題ではなく、老いを巡る関係の問題なのです。老人とケアする人。老人ホーム。老人と老人観。そして老いと自分自身。その関係の障害がもたらすものなのです。ボケや寝たきりは、知能や身体機能の障害というよりも、そうした関係障害なのです。人の老いは自然の一部です、痴呆で徘徊する老人よりも、老化を病気ととらえケアにあたるケア観こそ、まず、問われるべきです」と、問題提起する理学療法士の三好春樹氏。
氏は、関係障害論という新たな老人ケア観、そしてその実践がテーマだ。
理学療法士は、老人施設や在宅など様々な老人介護の現場でケアやリハビリの生活指導を行う。
氏はその21年間の経験から関係障害論を考案。
現在「生活とリハビリ研究所」を主宰し、関係障害論をもとにした生活ケア、生活リハビリのノウハウ指導、講座開催などで全国各地を飛び回っている。
「介護とは老人の生活再建の手段。生活の場であらゆる人間や社会との関係回復として考え、行うべきだ」。氏は老人の障害に対して、これまでの身体機能障害へのアプローチだけではなく、関係アプローチをもってあたる介護の現場づくりを進めている。
以上

老人介護の問題は老人の側にあるのではなく、その老人を取り巻く側の社会や人の関係障害だととく。

この論法で、がん患者にしぼってビハーラのスピリチュアルケアを説くと、

癌をとりまく、がん告知や、終末期の苦悩、死ということは、癌や死に問題があるのではなく、癌や、がん告知、終末期、死に対する、当人あるいは家族、周囲の方の、癌や死との関係障害だということです。その苦しみの中で、死や終末期を隠したり遠ざけたりすのではなく、当事者の価値観の変容を試みることによって、問題を解決していくというものです。

その価値観の変容に当たっては、その環境となるものとして、苦しみを直視すること、苦しみと直面するその人を、そのまま受け入れてくれる人や場があること。それと、価値観の変容が必ず起こることを確信して見守る環境があること、などです。

スピリチュアルな苦しみは、新しい成長の扉だということです。


1.19 いのちの学び162号アップしました。

今年114NHK教育テレビで「お寺ルネッサンスをめざして」と題して上田紀行さんが元気のあるお寺の活動と住職を紹介するという番組が放映されていました。「人肌の共同体」をめざしてとか、「がんばれ仏教」という言葉で、活気のあるお寺が放映されていました。

その番組の最後に登場した住職は神宮寺の高橋住職で多彩な活動と仏教復興への取り組みについて語っていました。

高橋住職はお寺の役割を「生老病死のケア」という言葉で、「生老病死の苦しみを軽減させていくケア」がお寺の役割であると語っていました。その言葉を聴いて「私とは考え方が違う」という思いを持ちました。私の考えは「苦しみを軽減」させるのではなく、「苦しみを大切にすることを通して、新しい質の高い成長を手に入れていく」という考えです。苦しみを通して、人はさなぎが蝶になるように新しい人間に生まれ変わっていく。それが理想です。



1.2 謹賀新年 あたらしい年を迎え、気分一新のことと思います。今年こそ「親鸞物語」を完成させます。とは言っても鎌倉時代初期の一般民衆の精神風土が今一つわからないというのが、今のつまづきです。親鸞聖人が現生十種の益に「冥衆護持の益」をしめさずにおれなかった当時の精神風土です。図書館に行ってあたってみます。

1.9 そろそろ寺報発送の時期なので、原稿を書いています。布教所開設より20年、今最もネックになっているのは「安泰」です。でも、私は一生を都市開教の一兵卒として終わっていこうと思っているので、安泰は次のステップに来ている証なのかもしれません。
次のステップとは、私、個人の活動から、組織によって展開される活動です。

昨年までは、寺のことは、世話人がやってくれるので、世話人に任せて、外へ出ていました。今年は、寺の組織充実に目を向けたいと思っています。


06.02