03.6.23

法然上人との対話をアップしました。細部は後で整えます。


03.6..17

以前セレンディピティ(偶然により面白かったり価値ある発見を行う自然に備わった能力)について書いたことがあります。

昨日ラジオで、抗生物質ペニシリンの発見について、ある科学者が話しておりました。英国の細菌学者フレミングが、ブドウ球菌を培養中、誤って落ちてきたカビの周囲だけブドウ球菌が増殖していないことに注目して、偉大なる発見となったという話しです。

面白いと思ったのは、カビのこの話しは日本でも50年前に発見していた。ところが日本の発見者は、カビは球菌に悪い作用すると受け取らず、カビが周りの栄養を吸収してしまうので、周りの球菌が滅んだと受け取ったのだそうです。

物事を対立的にとらえる西洋人と、同質ととらえる日本人との違いが面白く思われました。

神と私を対立的に考えるキリスト教、仏と私を同質と考える仏教。みな繋がっているように思います。

聖人誕生余話を書きました。ここで時間をかけるわけにはいかないという所です。もっと末法をどう表現したらよいか、工夫しなければと思っています。


03.6.13

親鸞聖人御物語。9才の出家得度を書きました。どうも母話しが多く、母の話と決別しなければと考えております。

火曜日から島根県へ行く予定でしたが、キャンセルとなりました。4日間の島根県は、私が生まれた組であったので、人生のターニングポイントとしようと思っていましたが断念。しかし内心に深く決意することがあります。それをこれから10年間で、行動で示していきます。


03.6.12

親鸞聖人御物語。一切経校合にまつわる、聖人と北条時頼の会話物語を書きました。

03.6.11

いのちの学び145号、アップしました。

03.6.10

本願寺ラジオ放送「みほとけとともに」放送分10本(西原祐治法話)をまとめてCDにします。これはお盆のお扱い。3日の法話会で、ふとCDカセットを持っていない人もいるのではないかと思い、参加者に聞きました。37.8人の参加でしたが、CDカセットも持っていない人はお一人でした。

坊守を夕食の折り、そのことが話題となりました。坊守いわく「CDということ自体を知らないと思う」。言われてみればそうです。CDカセットを持っていない人が半分近くいても良いのに、手を挙げたのは一人。配布用にカセットテープも用意したおいてほうが良さそうです。



03.6.6

昨日、ブライダル関係に勤めていた、ある会社の代表者と懇談した。部外者との会話は、私が持っていない視点に触れることができるので、有意義だ。昨日の会談も有意義な一時でした。

その方いわく、「15年前結婚式は、結婚式は神式が8割で、キリストや他の儀式が2割であった。現在はキリストが8割、他が2割に変化している」。そこからが鋭い視点だと思った言葉です。「神式からキリストへ移ったのは、みんながそうしているからに過ぎない。教えに頷き変わったのではない。葬儀は現在仏教儀式で行われることが多い。その理由は、みんながそうしているからに過ぎない」。仏教による葬式の執行への警告の言葉でした。

言い得ていると思いました。また現代人は「なぜ葬儀をするのか判らなくなっている」。と仏教界からの一般の方へのメッセージが伝わっていないと言う。いよいよ葬式仏教も崩壊しつつあるようです。寺院の社会的役割を葬式法事以外にシフトしないと、仏教の存続自体が危ないとの思いを強めたことです。

主課題の親鸞聖人と道元さんとの会話、おととい書きました。1日で書いたので出来は、、もう少しおもしろみがありませんが、やっつけ仕事のように書きました。ついでに親鸞年表をアップし、創作を入れていきます。現在は弁円と道元さんの話のみです。

03.6.1

中国旅行が新肺炎で中止になったので、1日仏跡参拝旅行となりました。今日がその旅行の日。当寺では、旅行や築地参拝等は、私(住職)は、ノータッチなので世話人がやってくれるでの、うっかりがん患者の会と旅行とダブルブッキングしていました。慌ててがん患者の会の旅行をキャンセル。

今回の参拝は、東京の寺院を回ってきましたが、上野の報恩寺では板東性純ご住職が1時間も説明して下さり、興味深いお話しが多く、得難い参拝でした。その坂東先生の話からのお裾分けです。

親鸞聖人は63才頃から京都にご在住で、83才の折りに火事に遭うまで西洞院高辻下りにある住居にお住まいでした。

83才の折り、「この十日の夜、焼亡に遭うて候」と関東の真仏房に宛てられたお手紙にあるとおり、火災に遭いました。それから三条の近くの弟さんの尋有師の元でお過ごしになられました。

火事にある2年前、聖人81才の折り、その斜め前の住居で54才の道元禅師がご往生されているのです。その道元さんの兄である久我太政大臣通光公の元に親鸞聖人の末女である覚信尼公は若きより、奉公に入っています。これは史実により明らかなところです。

坂東先生の説は、道元さんと聖人は、末女が道元さんの兄上にお世話になっていたという関係から、道元さんが、治療のために京都に入り、斜めな前の家ですから、娘が兄君にお世話になりましたとご挨拶に行ったに違いないということです。

その道元さん終焉の地と、親鸞聖人の仮住まいの住居を記した地図や、家系図等を、坂東先生から頂きました。

私は寺に帰り、さて道元さんと親鸞聖人は、どのような会話をされたのか。想像しました。以下ご期待下さい。

資料
道元(1200〜53)
曹洞宗の宗祖、道元は1253年7月、病状が急変し、波多野義重たちの勧めで、京都に行き、そこで医師の診断を受けた。いよいよ末期に近づくと、道元は『法華経』の「如来神力品」を唱えながら経行した。そして面前の柱に『妙法蓮華経庵』と書きとどめた。8月28日夜半、一偈を残して入滅した。一説には癌であったという。

西原つれづれ 03.6

03.5