西原つれづれ12月

11月

03.12.30

18日だったか、本願寺新報社の方が都市開教について取材に来てくれて、そのインタビューの中で、31歳で開教に出て、明年は20年目を迎えることに、自分自身でびっくりしました。目先のことに掛かりっきりで、その場その場で動いてきたので、まだ若い気でいました。実際に、まだ若いのですが。

周りを見れば、国政を動かしている人からして、自分より後輩の人が多くいます。過般の托心会からして、入会を断れれる年になりました。どうもこの世界(僧侶)は、若い人には、活躍しにくい風土であるようです。

若い若いと思っていたら、若い人を育てる年代となりました。育てると言っても、もちろん私の生き方で道を示していかねばならないことは勿論です。来月大寒の日で50歳。いまスパークしなければスパークする時を失います。しかし、本当のところもう1つ、情熱がたぎってこない。それはなぜか?

03.12.16

10日夜、築地別院の副輪番より、夜10分間、法話をしてくれと頼まれ、築地へ行きました。内容を聞いていなかったが、別院を着くと、総長や総務、宗会議長やなどの総局の面々。

何でも「托心会」という、50歳以下のご門徒の著名人の集まりだという。オペラ歌手や代議士、学者、弁護士など多彩な面々でした。ぴったり10分で話しを納めてきました。

11日〜13日夜まで、京都本願寺での常例法話。一席(40分)は父の話をしました。

03.12.10

4日の父の葬儀の導師は、島根県の邑智郡邑智町の浄土寺住職でした。江戸時代の島根県の寺院は「二院家六内陣」といって、数百の寺院が本末関係にあり、二つの寺院を頂点として、六ヶ寺の由緒寺院から成り立っていたようです。院家とは、寺院の位を表す言葉であり、お寺の住職を「ご院家さん」と呼ぶのはここから来ています。

江戸時代は、島根県には石見銀山があり、真宗寺院は潤っていたようです。中でも現在廃寺となっている順正寺(?)は、特別で、お東の派祖でもある教如上人は寛永14年に2度来寺されているそうです。はいふき屋という大金持ちがいて、宗主の歩く所に金砂を引き、上人の歩いたところの金砂をお持ち帰り願い、そのお金でお東の伽藍が建ったそうです。

岩見銀山

石見銀山(いわみぎんざん)は、1526年(大永6年)に北九州博多の豪商神谷寿禎(かみやじゅてい)によって発見されて以来、約400年にわたって採掘されてきた日本有数の鉱山です。

 16世紀〜17世紀の約100年の間には大量の銀が採掘され、大内氏、尼子氏、毛利氏といった戦国大名の軍資金や江戸幕府の財源として使われました。

 また、石見銀山が佐摩村にあったことから「ソーマ(Soma)銀」と呼ばれ、海外にも数多く輸出され、中国や朝鮮半島などのアジア諸国とポルトガルやスペインなどのヨーロッパ諸国を交易で結ぶ役割の一端を担いました。17世紀前半の石見銀の産出量は年間約1万貫(約38t)と推定され、世界の産出銀の約1/3を占めていたといわれる日本銀のかなりの部分を産出していたと考えられています。


03.12.2

「父のこと」について、以前書いた物を少しまとめました。

03.12.1

父のことを少しまとめていたら、前門主のことが先になりました。

03.12.1

親鸞聖人の旧暦のご命日、11月28日、父が逝去しました。77歳肺炎を得てのことでした。

通夜3日午後6時
葬儀4日午後〇時半
場所 天真寺本堂 松戸市金ヶ作106
です。

病院において、3日間のあえぐ息の中で濃厚な時を得ました。最後の夜は、集中治療室から個室に移され、兄が、夜とぎをして、午前11時半頃、親族が見守る中の、出来事でした。

私は、その朝、午前5時に病室に入り、7時半まで、ご同伴しました。午前6時半、個室から見える朝日が雲がかかり、雲の間から差し込む朝日を、父のベットを起こして、一緒に眺めました。

それから、父が東京仏教学院の折から使用していたらしい、聖典が置いてあり、その聖典を二人で見ながら、父の耳元で正信偈六首引きをご相伴し、御文章を3種拝読し、歎異抄を第一章・第二章・第三章と読み、最後のページに書いてあった父が数百回かは、拝読したであろう法事・葬儀の折の表白を読みました。

後で母に「お父ちゃんとベットの上でお朝事したよ」と報告すると、母が喜んでくれました。父は数度の脳梗塞で10が月前から声はなく、寝たきり状態でした。なぜ早く、ベットの上でお勤めすることに気づかなかったのだあうと今は思っています。

お勤めは仏さまに相対してするものという固定観念があったのだと思います。お勤めは、それそのものが仏と交わる行為であることを、最後に教えてくれたように思います。

総代が、葬儀当日弔辞を読んでくれます。それをここに掲載して、父の足跡を紹介します。

弔辞 

天真寺 前住職様 今生のお別れに際し、門信徒を代表して、謹んで御礼の言葉を申し上げます。

いま、まぶたを閉じると、前住職様のご生前のあの、独特の声ぶとい読経の声が、耳おくに響いてまいります。そして浄土真宗の教えを語るお姿も、まぶたの奥に浮かんでまいります。そのまぶたの奥にとどまるお姿を思い、こうしてお礼の言葉を申し述べるにあたって、ふと気づいたことがございます。

長く天真寺の総代職を努めさせて頂きながら、前住職様の、ご生前の個人的なご経歴や、逸話やお若い折りの思いで話しなどをまったく、お聞きしたことがなく、この度、過去のご経歴についての資料を拝見して、初めて、お若い折りの足跡を知るに及びました。それほどに、前住職様は、ご自身の個人的なことを語らず、常に仏道について、またお念仏のついてのみ、いつも語っておられました。

前住職様は、昭和2年2月に、明和二年・西暦一七一五年建立されました、島根県邑智郡邑智町(おおちぐんおおちちょう)にあります浄円寺に誕生され、昭和23年6月にお得度をされ、後に浄円寺第十世住職を継承されました。島根根県にあっては、若くして地域の農協の技術員として、農業指導に当たられ、農林大臣賞や島根県知事賞を受賞されておられます。何事にも事に当たるに、実直なご性格がそうした栄誉につながったのだと拝察いたします。

昭和32年、家族を郷里に残し、布教伝道の一念から単身で東京の地におもむき、東京仏教学院に学び、生活の基盤を築き、家族を、現在の天真寺の寺基のある松戸市呼び寄せたと聞いております。時に現住職様小学校2年、ご次男の西方寺様に小学校就学前の年のことです。

それよりコツコツと伝道の歩みを続け、苦節12年後の昭和46年、宗教法人 天真寺を設立し、時の本願寺ご門主、勝如上人より本願寺派の寺院として初代の住職を拝命されました。

それより、天真寺と基盤として布教伝道に邁進され、住職として重責を全うされ、天真寺寺基移転、新本堂建立、本願寺第二十四代即如ご門主のご巡回等、寺運の興隆に努められ、多くの門信徒が、その法味豊かなお人柄から、お育てをこうむりました。私もそのひとりでございます。

前住職となられてからは、幾多の病苦の中にあっても、その苦しみをたんたんと乗り越えられ、今日に及びました。

今こうしてお別れの言葉を口にいるただ今も、お別れの悲しみは深く、淋しく、思いの尽きませんが、その悲しみを潤すに余りある、ご法縁と思い出を頂きました。誠の感謝に堪えません。

この世のたちきれない哀別の涙こそ 私たち人間にとって偽りのない姿であり、この世に生まれ、逝きし人の流した涙は、大海の水よりも多いと聞いております。

常日頃お聴聞しております阿弥陀如来のすべての人を救いたいというお誓いは、この私たちの流す涙によって起こされたとお聞かせ頂いております。

私たちは 私の悲しみの幾倍とも知れぬ深い慈愛をもって、共に涙し慈しんで下さる如来様のお慈悲の中に、再びお会いすることをご期待することができます。そのことをお聞かせ頂いたのも、前住職様からでした。

前住職様、今は、浄土真宗のご本願の道理によって、無量のいのちに同化して、尽きせぬお慈悲を語ろうておられることでしょう

私たち門信徒一同は、この悲しみをご縁として いよいよ仏法に心をよせ、阿弥陀如来の恵みの中に生かされ、念仏相続の歩みをまっとうすることを、ここにあらためてお誓いしお別れの言葉といたします。

南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏

天真寺門信徒代表 門徒総代