03.10.18
ホームページも途絶えがちな昨今です。
15日、長岡の長岡西病院へ見学に行きました。仏教が緩和ケア施設に関わっている病院で、現在唯一のビハーラ病院です。
会議室で説明を聞き、病棟見学、ビハーラ僧の方との懇談、半日の日程でした。
率直な感想から言えば、仏教(者)の必要性、役割等が明確にされおらず、僧侶は場当たり的な存在、そんな感じを受けました。
この施設がビハーラ病院として公言することにはマイナスが多くあります。もちろんプラスもあります。
まずプラスの面から言えば、そこでボランテイアとして関わる僧侶が、死に向かう人から多くの学びを得ると言うことです。これは得難きことで重要です。
マイナス面は、この施設を見学した医療者が、仏教者の必要性や意義を認めるかと言えば、残念ながら、不可でしょう。仏教者を置くことからくるマイナス面の方が多く、まして賃金を払ってまでとなると絶望的です。
僧侶の役割が中途半端になってしまう理由は、緩和ケア施設の理念が明確ではないこと。理念が明確でないので、僧侶の存在理由と役割が明確にならないこと。存在理由と役割が明確でないので、何年積み重ねても、良不の判断や成果が明確にならず、人が変わったら、1から積み重ねていくことになってしまうというものです。
私は、現時点では緩和ケア病棟での僧侶の役割は、
ケアには、「ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむ」という立場と、「おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし」という立場があり、何かしてあげる事への関心は、看護師や医師等が果たします。何もしてあげられないことをも許容できるケア、それが大切な意味を持っているのだと思います。
この世での終末を迎える人との歩みにおいて「何もしてあげられない」という場に身を置くことは、次の重要な積極的な意味があります。
一つは、苦しみは新しい扉を開く意味ある営みであるとする苦しみの理解です。
共に苦しみの中に身を置くことであり、当事者が苦しみと混乱の中で新しい秩序を見出していく意味ある営みでもあります。
二つ目には、人は、あなたはあなたのままで大切であるという評価されないこころの中に、無力な自分が肯定され、無力なままに存在にゆだね、自己の執着から解放され、心を開いて生きることがでます。「何もしてあげられない」と言うことは、相手をあるべき方向にコントロールすることの放棄であり、重要な意味を持っています。
そのために具体的にどう、施設内で役割を演じていくのか。そのことを集大成していくことこそ、そうした施設の当初の役割だと思うのですが。
03.10.11
7日から10日まで、大分県宇佐地方にご門主の組巡行に随行してきました。
4日間ですが、1日3食、充分すぎる食事を頂き、体重が増えて帰ってきました。
10日の朝食の折り、以前から気になっていた「食前の言葉」について、ご門主にお尋ねしました。
本願寺派の「食事の言葉」
「み佛と皆様のお陰により、いこの御馳走を恵まれました。深く御恩を喜び、有難く頂きます」は、み仏の名において、殺生を肯定する内容のように思われますが、いかがでしょうか。
ご門主は、以前からこの食前の言葉については疑義を持っておられたご様子で、私の言葉を肯定され、この言葉が生まれた背景を、ご推察され教えて下さいました。
これはきっと、お寺で生活している人から生まれた言葉だと思います。お寺で生活している人は、み仏のお陰によって食事(衣食住)が恵まれる。自然と「み仏と…」となる。一般の人にはそぐわないのではないか。とのこと。
本願寺でも、私が得度した20数年前は下記の言葉でした。
(食前のことば)
● われ今幸いに、仏祖の加護と衆生の恩恵とにより、この美[うるわ]しき食[しょく]を饗[う]く。
一同: つつしみて食の来由[らいゆ]を尋ねて味の膿淡[のうたん]を問わじ。
つつしみて食の功徳を念じて品の多少を選ばじ。「戴きます」
(食後のことば)
● われ今、この美わしき食を終りて、心ゆたかにちから身に充つ。
一同: 願わくは、この心身を捧げておのが業にいそしみ、誓って四恩にむくい奉らん。「御馳走さま」
ちなみに他宗では
<天台宗> 「斎食儀」
(食前のことば)
われ今幸いに、仏祖の加護と衆生の恩恵によって、この清き食を受く。 つつしんで食の来由[らいゆ]をたずねて、味の濃淡を問わず、その功徳を念じて、品の多少をえらばじ。 いただきます。
(食後のことば)
われ今、この清き食を終りて、心ゆたかに力身に充つ。 願わくは、この身心を捧げて己が業にいそしみ、誓って四恩に報い奉らん。 ごちそうさま。
<浄土宗>
(食前のことば)
われここに食をうく、つつしみて、天地の恵みを思い、その労を謝し奉る。(または「みひかりのもと、今、この浄き食を受く。つつしみて、天地の恵みに感謝いたします」)南無阿弥陀仏(十念)いただきます。
(食後のことば)
われ食を終りて、心豊かに、力身に満つ。おのがつとめにいそしみて、誓って、御恩にむくい奉らん。南無阿弥陀仏(十念)ごちそうさま。
<禅宗等> (宗旨宗派の違いによって多少作法が異なるが、おおむね以下の通り)
(食前: 先ず始めに般若心経を読み、続いて「十佛名」を読む)
・十佛名:
清浄法身毘盧舎那佛[しんじんばしんびるしゃのふ]
圓満報身盧舎那佛[えんもんほうしんるしゃのふ]
千百億化身釋迦牟尼佛[せんばいかしんしきゃむにふ]
當來下生彌勒尊佛[とうらいあさんみりそんぷ]
十方三世一切諸佛[じほうさんしいしいしぷ]
大聖文殊師利菩薩[だいしんぶんじしゅりぶさ]
大行普賢菩薩[だいあんふげんぶさ]
大悲観世音菩薩[だいひくわんしいんぶさ]
諸尊菩薩摩訶薩[しそんぷさもこさ]
摩訶般若波羅蜜[もこほじゃほろみ]
(註:臨済宗では十佛名だが、曹洞宗では十一佛名の場合もある。また『禪林象器箋』には「西方無量寿佛」と「大智勢至菩薩」の二句が加わって十二句となっている)
薬師寺
五観(ごかん)の偈
一つには、功[こう]の多少を計り、彼[か]の來處[らいしょ]を量[はか]る。
二つには、己[おの]が徳行[とくぎょう]の全欠[ぜんけつ]を忖[はか]りて供[く]に應[おう]ず。
三つには、心[しん]を防[ふせ]ぎ過[とが]貪等[とんとう]を離るることを宗[しう]とす。四つには、正[まさ]に良藥[りょうやく]を事とし、形枯[ぎょうこ]を療[りょう]ぜんが為[た]めなり。
五つには、道業[どうぎょう]を成[じょう]ぜんが為めに、の故に應[まさ]に此[こ]の食[じき]を受くべし。
漢文:
一計功多少量彼來處
二忖己徳行全欠應供
三防心離過貪等為宗
四正事良藥為療形枯
五為成道業應受此食
意訳:
一には、農民の非常な苦心を思い、どうしてこの米が出来たか、その依って来るところをよく考え量らなければならない。
二には、自己の徳行が完全か欠けているか反省し、受けるに足る自分であることをはかって供養に応じよう。
三には、悪心を防ぎ、貪欲[とんよく]など三毒のあやまちを離れることが肝要である。
四には、正に良薬として食物をいただき、肉体の衰えを防ぐために栄養をとるのである。五には、仏道を成就し人格を完成させるために、まさに今この食事を受けよう。
(出典『釋氏要覧』)
カトリック 「食前の祈り」
主、願わくはわれらを祝(しゅく)し、また主の御惠(おんめぐみ)によりてわれらの食せんとするこの賜物(たまもの)を祝したまえ。われらの主キリストによりて願い奉(たてまつ)る。 アーメン。
聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊(せいれい)との御名(みな)によりて。 アーメン。
注:十のところで右手で自分の胸の上に大きく十字を切ります。
「食後の祈り」
とこしえにしろしめたもう全能の天主、数々の御惠(おんめぐ)みを感謝し奉(たてまつ)る。 アーメン。
願わくは死せる信者の霊魂(れいこん)、天主の御(おん)あわれみによりて安らかに憩(いこ)わんことを。 アーメン。
注:信者は食事の前と後に、食物を与えて頂いた神に感謝の祈りを捧げます。どちらも口語のやさしいお祈りがあります。
まとめとしては、五観の偈にあるように
1.天地の恵みへの感謝
2.命の窃取へのザンギ
3.仏道への精進
と、他の人々へこの功徳が及ぶことへの思いの表明を含んだものが理想です。
つつしんでこの恵みを喜び、尊いみ名を称えつつ感謝の内に励みます。南無阿弥陀仏。
ぐらいで良いのではないでしょうか。