6.26
20日に、母方の親族に不幸があり、広島経由で島根へ行ってきました。レンタカーで島根へ入り、50キロ、ノンストップでした。高速を降りて15キロ、今まで一度も信号がないことに気づいて、目的の場である、美郷町久喜原まで、信号を数えたら、普通の信号6基と、押しボタン2基でした。
山口のご講師が来れられ、「今度、村に信号機ができるので、村人と見に行った」などの話を聞いたことがありますが、誠に御もっともの思った次第です。
帰りに、愛知万博へ、興味深く一日を過ごしました。出展企業は、直接経費だけで約30億、本願寺が出展したら、どんなパビリオンにしたらいいか、などと考えながら見学しました。
6.18
Oさん 「いつも人を死ねと思ってしまう」のですが?
私「それはあなたが下品だからです。仏教では上品上生から下品下生まで九つに分類しています。その中で私やあなたは下品の下に分類されます。その下品なあなたが念仏を申していることは、どういうことなのかを、教えて下さったのが親鸞聖人です。」
Oさん「人はどのように救われていくのでしょうか」
私「人を死ねと思うわたしが念仏を申すという形で救われていくんですよ」
分ったような分らないようなOさんと私との会話です。これが一日2.3度繰り返されます。深いような浅いような話です。
ペットのお墓を作りました。合同埋葬型ペット墓苑です。費用は埋葬手数料として5.000円です。
ご本尊は「
なんまんだぶ」です。モニュメントは「仏」という文字をデザイン化したものです。西原考案です。
6.17
今日の産経新聞・産経抄に以下の記事が出ていました.
うかつにも知らなかったが、「障害者」という言葉はイメージが悪いからと、言い換えを図る動きがじわじわ広がっている。「障がい者」と交ぜ書きにするのだ。いまも福岡市議会に障害者と名のつく施設や制度の名称を改める条例案が提出されていて、来週にも議決される見通しという。
▼同市障がい保健福祉課(条例に先立ち改名済み)に聞くと、「害には悪い意味があるから改めたい。障がい者の問題に関心を持ってもらうきっかけにしたい」という説明だ。調べてみると、すでに札幌市や東京都の多摩市、町田市など複数の自治体が同様の趣旨で、部課名や文書の表記を変えていた。
▼福岡市によると、改名組はもはや三十自治体を超える。一理はある。もともと「障礙・障碍」と書いた。「さまたげ」という意味だ。当用漢字にはないからと、「障害」と書くようにしたことに無理があった。だが、再変更には異論を唱えたい。
▼言葉狩りのようなまねが障害者の自立支援や共生社会の実現にどれだけ役に立つのか。改名に伴う労力や費用の分だけ効果があるのか。そんな検証的な視点が欠けている。わかりやすく言えば看板を付け替える費用で、いくつ車いすを買えるか、道路の段差をなくせるか、ということだ。
▼日本障害者協議会(東京)に尋ねてみると「所属する七十団体に改名の動きはない。本質的な話ではないし、自治体主導の変な流行という気がします」。こちらの話のほうが、素直にうなずける。
▼この手の話は、うっかりすると「ごもっとも」と思えるし、反対もしにくいが、変な流行にわけのわからぬ金を使う必要はない。自治体は少なくとも費用対効果を納税者に示す義務があるし、議会には雰囲気に流されない議論を望む。
以上が記事ですが、記事に賛同します。臭いものには蓋で、障害者問題の本質は、障害者にあるのではなく、障害者を差別する側にあります。障害の言葉を隠してしまっては、問題が見えなくなってしまいます。
以前、「老人」という言葉が忌み嫌われるので、「老」の字はとにかく目のかたきで、ことごとく言い換えられるけいこうがあります。これも同じことです。
06.15 小売業を営む方同士の会話が耳にないっていた。昨日の夜のテレビで、寒天が健康によいという放映をしていたので、今日は、寒天が飛ぶように売れた。とのこと。深夜まで営業をしている店だと、番組が終わるとその日のうちに売れていくともいいます。
現代人は、テレビが振りまく常識を信仰している。集団自殺もテレビで放映すると、意識の中でものすごく死のハードルは低くなるのだろうと思う。
4月からの個人情報公開法で、がん告知が、本人にしてから、本人の同意を得て、家族に話すこととなったのだそうです。病院では、法律に沿ってがん告知をすべく、体制を整えているといいます。お寺は、情報公開法とは無縁ですが、門信徒名簿を宗教や寺院維持以外に活用すると、まずいことになります。
情報公開は、自己責任と表裏の関係にあります。自分のことは自分が責任を持つ。テレビでやっていたでは、すまないのですが、それに代わる文化は、見出せそうにありますん。テレビの対極は体験です。体験が今後の文化の重要な柱になる。そんな思いをもちます。.
06.11 先週の日曜日は、中仏通信教育のスクーリングでした.。学習過程受講の方から、次のような質問を頂きました.。
仏教は殺生を禁じている。なのになぜ生花をお供えするのか.。花を殺生することにならないか.。.
いい質問です。色々な答え方があります。一対一の質問の場合と、多くの人が聞いている場合でも、答え方は違ってくるでしょう。私は、その時は時間もないし、一般的な答え方をしました.。
殺生しないで生活できるのなら、殺生しないことがベストです。殺生しなければ生きられないのであれば、殺生したことを、どう生活の中で活かしていくかが大切だ.。食事も同じこと.。といった具合です。
戒律には、小乗戎という殺生、禁酒といった自己に規制を加えていく戒律と、梵網経などに示される菩薩戎(大乗戒)があります。大乗戎は、慈悲の実践です。どう私が、あなたが救われていくかの実践が戒律の本質なのです。
先の「どう活かしていくか」といった類の答えは、小乗的な答えだと思います。菩薩戎、すべての人が救われていくことをもって最高の戒律とする立場から言えば、仏教的な要素のかけらもない私が、なぜ仏花をお供えしたのか。その背後に、もおすごいドラマがあったに違いない.。そのドラマの一つが、私が仏花をお供えしたということです。
もう少し具体的に解説してみましょう。.仏になにかを供えるなどという高尚な心のない私をして、仏にお供えするという心を、如来は巧みな働きで私の上に成就された。そのとき、如来は具体的に生花を供える道を選ばれた。生花とていのちあるもの。如来は、この私に殺生の罪を犯させることは忍びないと思われ、遊煩悩林現神通と花に化けて私の日常生活に上に及んでくださった.。そして仏花をお供えすることをもって、如来の働きが、現実生活の中で、お花を供えるという事実となって整っていることを、私の上にあらわにされた。お供えした花も仏さま、お供えしたいと思った心も、如来のなさしめたもうところ。
実はお供えした花は、仏さまだったのです。しかも、そのことに無自覚な私に、その事実を知らせるために、また遊煩悩林現神通と中仏通信受講生になって、私に質問という形をとられた。南無阿弥陀仏。
いのちの学び
158号アップしました.