西原つれづれ日記 04.10月
9月
04.10.29

一昨日、昨日と京都・本願寺へ行っていました。念仏奉仕団です。写真撮影の時、先輩のF参拝部長が、私のことを認め、閉会式の挨拶の後、私を訪ねてくれました。先般以来の内願法名の件があったからです。

F部長いわく「内願もこんなに申請があるとは思わなかった。いままで(この4月から)4000件を超えている。色々な内願があるので、苦心している。来年から僧侶の法名も同様に規制をする。近日中にご門主とお会いをすることのなっている。それを宗報に掲載する。僧侶も無規制で釋光瑞(22代ご門主)という、ご門主と同じ法名もある。新門様(釋専如)の専もご遠慮いただく。ただ、歴代のご門主の院号と同じ法名はお許しいただこうと思っている」とのことでした。

私が「じゃー、俗名の花子のまま、釋花子と申請してきたらどうする」と聞くと、「そんなのだめ、だめ」とのことでした。法名の文字を規制する場合、花子などの俗名と同じ場合をどうすのかという問題が残っているように感じました。

04.10.26

大谷光真門主の誕生日(*)を祝う「ご門主様ご誕辰祝賀会」が10月12日、宗務所および本願寺職員共済会の主催で行われた。旨の記事が本願寺新報に出ていました。

* 誕生日は1945(昭和20)年8月12日、満59歳になられた。ご門主の仕事の都合上、「ご誕辰祝賀会」は、例年10月12日に行われる。

その記事の中に、ご門主のご挨拶が掲載されています。

「最近、非常に驚いたことだが、首都圏開教の説明を受ける中で、東京、神奈川、埼玉、千葉の四都県(人口3200万)に(仏教各宗派の)寺院が1万カ寺あり、そのうち本派の開教拠点が3パーセントしかないということである。一極集中で首都圏ばかりが繁栄すると既成教団の3パーセント教団になってしまうと心配する。首都圏だけが大事なのではないが、親鸞聖人750回忌を考えると、従来の教団の基盤を大切にするのと同じくらいの比重で、新しい所も目を向けなかればと改めて思った。固い話になったが、最近驚いたことを披露した」とのことです。

先日、都市開教の職員から、3パーセントの話を都市開教のS君がご門主に説明した時、ご門主は本当に驚かれ「これでは死でも死にきれない」と、おっしゃったとのことです。

04.10.26

内願法名の件で、仲間とやり取りをしたことを報告しておきます。内願法名とは、帰敬式に際して、当方の希望法名をお願いすることです。11月の築地の報恩講で当寺から16名帰敬式を受けます。その事についてのやり取りでした。

過日、本山・帰敬式係りから、「光」の文字が頭についたものはご遠慮いただきたいと、申し入れがあった。何でも

内願に伴う院号・法名でご遠慮願う文字は歴代門主並びに裏方(室)の院号と御名と同一のもの「親」「鸞」「光」
「照」「真」の文字を法名の上位に用いたもの「如」の文字を法名の下位にもちいたものは、ご遠慮頂くという「法名要覧」があるそうです。

しかし、その時点で、私は僧侶の法名が頭に「光」がついているものを、現在下付していることを知っていたので、「そのまま法名委員会」にかけてくださいお願いしました。不許可の理由を委員会の答弁として聞きたかったからです。

これは私は、整合性(バランス)の問題だと理解しています。「考信緑」に「覚如師より如の字を通称とし、実如師より光の字をいみなに冒らしめ、証如師より信の字を廟号(院号)に冒らしめ」とあるように、こういうことだからと院号の文字も含める
ならば整合性があります。

それと、現時点では、僧侶はこの規定にかからず、内願のみ、駄目は、整合性がありません。僧侶も門とも同時スタートすべきという意見をもっていたからです。

その後、参拝部帰敬式係りから電話がありました。当方よりの申し入れの通り、光を法名の頭にした内願法名を内願法名審査会(会行事・同朋部長・教学伝道部長・参拝部長)かけましたとのこと。「光を頭に用いた法名は、ご遠慮頂きたい」とのこと。理由はと聞くと「歴代門主の法イに光を用いているので、お敬いの意味でご遠慮頂きたいとのことです」だそうです。

私の申し入れ「得度の内願はそのままで門信徒だけご遠慮頂くのは、整合性がない」旨の意見は内願法名審査会に伝えましたとのことでした。今後、この法名の問題がどうなるか、気になる所です。

もう1つ、最近の勤式のおける混乱ですが、

全国的に余間の七高僧と聖徳太子のかけ方が混乱しています。先の発布があってから宗派の仕事(組巡教)で、何カ寺かに伺いましたが、向かって左余間に聖徳太子をかけている寺院が数カ寺ありました。

過般、住職総参拝に行ったときのことです。総局がそろった「何でも質問コナー」があったので、「戦中に出した七高僧は向かって左。聖徳太子は向かって右の達書を撤回する旨の発布があったが、聖徳太子を向かって左余間にかけると、太子がそっぽを向く。構図の変更を考えていないか」と質問しました。

相談員による答えは「戦後、新宗法発布によって、先の発布の効力は失効しています。その後、発行された法式規範で七高僧は向かって左余間へ、太子は向かって右余間に奉懸すると規定してあるので、その法式規範に従ってほしい」とのこと。

寺に帰って法式規範(1999.1.25改訂版)を見ると、そんなことはどこにも書いてありません。ただ「左右の余間には七高僧や聖徳太子の御絵像などを奉懸し、左余間壇上に御文章箱を置く」となっています。確かに改定する前の法式規範(1981.4.9発行)では、「右余間(向かって)―聖徳太子御影 左余間―七高僧」となっています。ちなみに昭和9年発行の「法式紀要」には、「聖徳太子の御影は右余間(向かって左余間)」とあります。

この流れは、1981年版「法式規範」で聖徳太子は向かって左余間と書いたが、戦時中の特殊事情によっての奉懸なので、これはまずいと改訂版で「左右の余間」とはぐらかしたのでしょう。そして、この度のお達しですから、混乱するのは当然です。

04.10.9

熊本の話し合い法座で、無意識のうちに答えて、いま、改めて「そうだった」と思ったことがあります。

それは、話し合いが「迷信・俗信」についての話題でした。婦人会の世話人らしき人が、過去の話として、子どもの夜泣きが激しいので、「拝み屋さん」(?)の所に行き、読経をして頂いた。そしたら夜泣きがピタット治まった。

もう1つは、ジンマシンが激しいので、「まっぽしさん」(ずぼしに当てる人)の所に言ったら、「川向こうの火世燃やしているのでいけない。川の神さんが怒っている」といわれた。

私の答えは、そうしたことをおおく繰りに肯定した。

お盆に出したお経のCD、お勤めに行ったら、「孫が生まれ、お経のCDをかけるとすぐ寝るので、娘にあのCDを持たせました」とのこと。ありえる話だと思いながら聞きました。またカルト教団に入って、実際にアトピーが治ったという話も聞きます。

先の二つの話は、ありえる話だと思い、そう話しました。今考えると、それはありえる話だが、宗教の本質ではないという所まで踏み見込めばよかったということです。「そうだった」とは、常に宗教の本質に立って考えることの大切さです。

04.10.8

寺報「清風」11月号をアップします。5日.6日と宗派の仕事で熊本へ行ってきました。組巡教の記念法座で、法話と座談会の講師でした。

座談会は、色々な質問を頂いたり、思いを聞かせていただけるので得がたい場でもあります。今回は質問を通して、「浄土真宗のお墓について」と「枕経」について、自分の中にある思いを形にすることができました。機会があったら、ご披露します。


04.10.1

月末に築地本願寺新報11月号巻頭の法話と、テレホン法話3題頼まれたので、原稿を送りました。いつもの話ですが一緒にまとめてアップしておきます。

前月中旬、大法輪(11月号)から原稿を頼まれ、送ってあります。これもアップしておきます。