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埼玉県指定文化財 旧跡 昭和37年10月1日指定 所在地 上富全域と所沢市中富・下富 見学可能 頒布図書 ほたる文庫2(人と緑の文化誌) ほたる文庫3(柳沢吉保の実像) ほたる文庫4(三芳の歴史) 柳沢吉保、三富新田開拓に着手 元禄7年(1694年)7月、長年争いを繰り返してきた北武蔵野のこの土地は、幕府評定所の判断で、川越藩の領地であることが認められました。これにより川越藩主柳沢吉保は新田開発を推進し、吉保の命を受けた筆頭家老曽根権太夫らの家臣は、まず開発に従事する農民を集めました。その出身地は上富村名主忠右衛門、中富村名主喜平次は亀久保村から移住したように、主に近隣の村々から集まったようです。開発が始まってから2年後の元禄9年(1696年)5月に検知が行われ、上富91屋敷、中富40屋敷、下富49屋敷の合計180屋敷の新しい村々ができあがりました。これが三富新田です。「富」の由来は「豊かな村になるように」との古代中国の孔子の教えに基づくものです。 開拓農民の知恵と努力 武蔵野台地に位置する三富新田の開発は、次のような開拓農民の知恵と努力によって成し遂げることができました。 赤土を肥沃な土に 栄養分が少なく水はけの悪い赤土(関東ローム層)には大量の堆肥が投入され、肥沃な土へと変貌することができました。 水を求めて 吉保は野火止用水の例に習い、箱根ヶ崎の池から水を引こうと考えましたが実現にはいたりませんでした。そこで、三富全域で11ヶ所の深井戸(約22m)が掘られて数件が共同で利用することとなりました。しかし、日照りのときはその深井戸さえも水が涸れてしまい、数km離れた柳瀬川まで歩いて水を汲みに行ったということです。 風を防いで 雨の少ない時期には季節風が畑の乾いた赤土を舞い上げ、それこそ「赤い風」となって吹きまくりました。そこで、三富の開拓農民は、畑の畦にウツギや茶の木を植えてこれを防ぎました。 こうした厳しい自然条件のもとでの生活でしたが、当時の開拓農民たちは根気よく自分たちの土地を耕し続け、だんだんと耕地からの収穫量を上げていくこととなります。 |