プロフィール

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プロフィール/データ
名前 マルティナ・ヒンギス(Martina_Hingis)
生年月日 1980年9月30日
星座 天秤座
出生地 チェコスロバキア(現スロバキア) のコシツェ
現住地 スイスのザンクトガレン州トリュープバッハ
身長 170cm(5フィート7インチ)
体重 59kg(130ポンド)
利き腕 右(両手打ちバックハンド)
明るい茶色
青緑
好きな食べ物 寿司・チキンファフィータ
コーチ メラニー(母)
プロ転向 1994年10月4日(14才)
シングルス 10位(2002年最終ランキング)
ダブルス 15位(2002年最終ランキング)



幼少/アマチュア時代
1980 チェコスロバキア(現スロバキア)のコシツェに生まれる。
父カロル・ヒンギス(テニスコーチ)。母メラニー(テニス選手)。
1984 わずか4歳でトーナメント初優勝。
1988 チェコスロバキアからスイスに移住。
母メラニーの再婚相手の養女となりスイス国籍を取得。
1989 スイスジュニア選手権優勝。
1991 スポーツマネージメント会社のIMGと契約。
1993 全仏オープンジュニアを12歳で優勝(史上最年少)。
1994 昨年に続き、全仏オープンジュニア優勝。さらにウィンブルドンジュニアも優勝。
プロ時代
1994 10月4日、スイスのチューリッヒでプロデビュー。世界ランキング87位で終了。
1995 WTA最優秀新人賞受賞。世界ランキング16位で終了。
1996 ウィンブルドンのダブルスにてグランドスラム大会初優勝を史上最年少で飾る。
全米オープンではベスト4まで進出、世界ランキングは4位まで上昇。
1997 グランドスラム大会の一つ、全豪オープンのシングルスで史上最年少優勝。
3月末、アメリカで行われたリプトン選手権の決勝でモニカ・セレシュを破り優勝。
これによって、世界ランキング1位の座に史上最年少の16才6ヶ月で就いた。
4月の初め、ファミリーサークル・マガジン・カップを優勝して6大会連続優勝。
この時点でヒンギスは31連勝。
その後、落馬によりひざの靱帯を切断して手術するも全仏オープンに出場して準優勝。
ヒンギスの連勝は37でストップ。
6月末に始まったウィンブルドン選手権に第一シードで出場したヒンギスは、その期待に応えてオープン化後の史上最年少記録で初優勝。
そして、最後のグランドスラム大会である全米オープンも優勝。
今季は四大大会のうち3つを制するという圧倒的強さを見せつけた。
1998 昨年に続き、全豪オープン優勝。しかし全仏オープン、ウィンブルドンはベスト4。
全米オープンは準優勝に終わり、世界ランキング2位になってしまった。
1999 全豪オープン3連覇達成。クルニコワと組んだダブルスも優勝。
東レPPOテニスで優勝して世界ランクトップに返り咲いたが、ウインブルドンでまさかの1回戦敗退、再びダベンポートに女王の座を奪われる。
2ヶ月休養したのち復帰戦のTIGテニスクラッシクを優勝、再びトップの座に返り咲く。
TIGテニスクラッシクからウェアとシューズをアディダスと契約する。
2001 ポルシェ・グランプリ準決勝で右足首の靭帯断裂。
手術と6週間休養のため、世界ランキング1位は連続73週間でストップ。
年末ランキング4位になってしまった。
ヒンギスの世界ランキング1位は2001年シーズン終了現在、合計209週間(歴代4位)。
2002 3ヶ月休養後、年初のシドニーで優勝。全豪は6年連続決勝進出。
5月に左足の故障が悪化。手術を受け全仏、ウインブルドンを欠場。
全米は4回戦で敗退。再び左足の故障が悪化。年末に無期限の休養を宣言する。
2005 ボルボ女子オープンに出場するが1回戦で敗退。
12月に現役復帰を正式表明する。
2006 3年のブランクを経てツアー復帰。全豪はシングルスはベスト8、ミックスダブルスは優勝。
東レパン・パシフィック・オープンで復帰後では初めての決勝戦進出。



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